[#表紙(表紙1.jpg)] 裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争 打海文三 目 次  第1章 ゆがんだ真珠の国に生まれて  第2章 応化九年初夏の殺人  第3章 海人、おまえは闘う家長だ  第4章 常陸軍、南へ  第5章 世界に異議を唱える人々  第6章 鎮魂の海 [#改ページ]  主な登場人物 佐々木海人 孤児 佐々木 恵 海人の妹 佐々木 隆 海人の弟 竹内里里菜 アパートの大家の女房 マルコ 孤児の少年兵 月田桜子 双子の孤児 姉 月田椿子 双子の孤児 妹 ファン・ヴァレンティン ロシアマフィアの幹部 イヴァン・イリイチ 外国人部隊司令官 クワメ・エンクルマ 孤児の少年兵 葉郎 右同 ボリス・ハバロフ 右同 池東仁 右同 田崎俊哉 右同 ソムサック 戦場の故買商人 根本やや 娼婦 白川如月 孤児部隊司令官 キャロル・クリストフ 香港プレス記者 雅宇哩 戦争奴隷 森まり ンガルンガニの幹部 [#改ページ]  北関東および東北南部の武装勢力 常陸軍(政府軍第51歩兵連隊) 水戸軍(政府軍第52歩兵連隊) 仙台軍(反政府軍の東北における最強部隊) 宇都宮軍(反政府軍の北関東における最強部隊) 土浦軍(地方軍閥) いわき軍(地方軍閥) ンガルンガニ(いわき市の性的マイノリティの武装組織) 常陸TC(常陸市の日本人マフィア) 加賀見部隊(旧政府軍系の武装集団) イヴァン・イリイチの外国人傭兵部隊 [#改ページ]   地図の上日本国にくろぐろと    墨をぬりつつ秋風をきく     廃墟と化した地方都市の市立美術館の壁の落書き [#改ページ]   第1章 ゆがんだ真珠の国に生まれて     1  両親の人生についてわかっていることはほとんどない。国家および自治体が管理する個人データはあいつぐ戦火で完璧《かんぺき》に破壊された。父と母の出生地、本籍、親族の存在、どこから北関東に流れてきたのかも不明である。 「リュウとあたしは、ひたちそうごう病院で生まれたのよ」と恵《めぐ》は言う。  ひたち総合病院の近くを市内循環バスでとおったときに、母がそういう話をして、恵がおぼえていたのだ。では長男の海人《かいと》はどこで生まれたのか。 「ごめん、わからないのよ。たぶん、お父さんとお母さんがひたちに住みはじめたとき、ちっちゃなカイトをつれてたんだと思う」恵がすまなそうに言う。 「せんそうがなけりゃな」海人が遠くを見つめて言う。 「世界のそこが、すとんとぬけたみたいに、もうひどいことになっちゃって」恵の表情がちょっと厳しくなる。 「なあメグ、せんそうがはじまったとき、おれはうまれてたのか?」隆《りゆう》が訊《き》く。 「リュウは七ヵ月ぐらいね、まだ赤ちゃん。あたしは二歳」恵がこたえる。 「おれはいくつ?」海人が訊く。 「カイトは六歳」恵がこたえる。  家族の歴史について知りたいことがあると、男の子二人は長女の恵に訊く。     2  金融システムの崩壊と経済恐慌と財政|破綻《はたん》があった。打ちのめされた貧しい階層、社会的弱者、出稼ぎ外国人、市場競争の敗北者の群れが、路上に放り出された。  海の向こうでも悪夢が現実のものとなった。中国の中央政権が倒されて、各軍管区が覇を競い、チベットと新疆《しんきよう》ウイグルの二自治区が独立を宣言した。ほぼ同時期に、ロシアではサハリン油田の富を背景に極東シベリア共和国が誕生して、いっきに大動乱の時代が到来した。  戦禍に苦しむ大陸の人々は、日本をより平和で裕福な社会とみなして海を越えはじめた。国軍は領海に入った難民の船をつぎつぎと撃沈した。それでも大量の難民が砲火をかいくぐって沿岸に漂着した。食糧暴動がひんぱつして治安の悪化は極限にたっした。  応化二年二月十一日未明、〈救国〉をかかげる佐官グループが、第1空挺《くうてい》団と第32歩兵連隊を率いて首都を制圧した。  それに呼応して、全国の基地で佐官が率いる部隊が将官の拘束を試みた。小戦闘、処刑、新しい司令官の擁立があった。  同日正午、首都の反乱軍はTV放送とインターネットをつうじて〈救国臨時政府樹立〉を宣言した。  国軍は政府軍と反乱軍に二分した。  政府軍はアメリカ軍の支援をうけて、ただちに反撃に出た。四日間の激しい戦闘ののち、首都を反乱軍から奪い返したが、戦線は全国に拡大した。  二月十七日、東北六県を管轄する陸軍東北方面軍の大部隊が、救国臨時政府を防衛するために、首都へ向けて進撃をはじめた。  内乱突入から三十七日目の白昼、家族思いの若い鳶《とび》職人が、北関東の常陸《ひたち》港に近い建設現場で作業中に、ミサイルの直撃弾をうけて殺された。  アメリカ海軍の戦闘攻撃機による誤爆だった。常陸市の南端にある常陸港が、首都再制圧をめざす東北方面軍の補給基地として機能しつつあり、政府軍と共同作戦をとるアメリカ軍の攻撃目標となったのである。  一発のミサイルによる死者は四十人を超えた。被害者の肉体の大半は瞬時に燃えつき、わずかに残った骨と肉は粉塵《ふんじん》となって周囲に飛び散った。  鳶職人の女房は、亭主の名を叫びながら爆撃現場を数日間さまよったのち、遺品と思われる赤いゲートルの切れ端を見つけて持ち帰った。 [#この行2字下げ]注 年号の「応化」とは仏がひとびとを救うためにいろいろと姿を変えてこの世にあらわれることを意味する。     3  赤いゲートルの切れ端は、父の遺影といっしょに、恵がいまでも大切に保管している。写真のなかの父は、粋《いき》で、端正で、男気がほどよくにじみ出ている。 「女の子がほうっておかなかったと思うわ」恵は父の遺影に手を合わせるたびにちょっぴり得意そうに言う。 「おかあさんは、どういうてをつかったんだい」隆が訊く。 「お父さんをゲットするために?」 「キンタマをつかんだのか?」 「おまえサイテー!」  海人は妹と弟の話をにこにこ聞いている。内乱|勃発《ぼつぱつ》の年の春に、海人は小学校に入学するはずだったが、すべての公立学校は休校となった。公教育は、やがてボランティアの手で細々と再開されることになるのだが、海人は妹と弟の世話に忙殺されて、けっきょく教育をうける機会を逸した。 「ぜんぶアメこうがわるいんだ」隆はのちのちまで、誤爆の補償をいっさい拒否したアメリカ軍を憎んだ。  彼らの家族を襲った災難の元凶はアメリカ軍の狂気である。そう断定してしまえばアンフェアであり、日本国および日本人の愚行を免罪することになる。とはいえ、アメリカ軍の容赦のない空爆は、明らかにアジア人差別に彩られていた。     4  アメリカ軍は最初の二週間で制空権をにぎると、反乱軍に徹底的な空爆をくわえた。大勢の市民が巻きぞえになった。空爆に反対する国際世論は無視された。アメリカ国内の世論は、例によって、自国兵士に死傷者が出ない戦争にはむとんちゃくだった。  市街地に逃げ込んだ反乱軍の機甲部隊に、アメリカ軍の攻撃ヘリと戦闘攻撃機が襲いかかった。反乱軍の拠点都市を破壊するために、戦略爆撃機が出撃をくり返した。夜も昼も、在庫一掃セールのように景気よく、あるいは最新鋭の武器の見本市のようにスペクタクルに、ミサイル、クラスター爆弾、デイジー・カッター、すべての新型爆弾が、どしゃぶりの雨のように反乱軍に降りそそいだ。  恐怖と憎悪と飢えが、人間の獣性を街に解き放った。  指揮系統を失って四分五裂した反乱軍の多くは、武装集団になり果て、首都圏および全国各地で略奪行為をくり返した。  十一月二十九日、陸軍第1師団の師団長を議長とする軍事評議会が権力を奪取した。首相の拘束、議会の解散、戒厳令の布告があった。また軍事評議会は徴兵制を敷いて政府軍の強化をはかった。  翌、応化三年の六月までに、政府軍は反乱軍を首都圏から放逐することに成功した。だが、自らも深く傷つき、中央集権国家の国軍としての実体を失った。  同年八月四日、東北方面へ敗走する反乱軍の一部が、常陸市を通過した。  その夜、国内難民が多く住む地区の錆《さ》びついたアパートの一室で、幼い兄妹弟《きようだい》が母親の帰りを待っていた。街中が停電し、叫び声と銃声と装甲車が走りまわる音が夜どおし聞こえた。ときおり近くで砲弾が炸裂《さくれつ》してアパート全体をゆすぶった。 「なくな」  海人は、おびえている恵と隆を強く抱きしめて言い聞かせた。 「なくな、なくな、なくな」  だが、おうおうと、声をあげていちばん激しく泣いたのは海人自身だった。長男は一般に泣き虫であるにしても、彼はまだ七歳と十一ヵ月だった。  略奪、レイプ、拉致《らち》、徴用、橋と線路と警察署の爆破があった。反乱軍の兵士たちは狼藉《ろうぜき》のかぎりをつくしたのち、八月六日の午前中に街を去った。  兄妹弟三人は、薄暗い部屋で、まる五日間泣きつづけた。常陸港の歓楽街でホステスをしている母は、家に帰ってこなかった。 「おまえたちのことは、ぜったい、おれがまもってやる」海人は言った。 「カイト、まだないてる」恵が言った。  その言葉でいっそうあふれてきた涙を、海人はこぶしでぬぐった。恵の細い腕に抱かれた隆は、二歳になったばかりで、空腹のために死んだように眠っていた。     5  海人は、敗残兵が通過した街をほっつき歩き、妹と弟のために、残飯を大人と奪い合った。その間に母の行方を捜した。勤めていた店は焼き払われていた。いろいろたずねてまわり、同僚のホステスの話を聞くことができた。海人の母は数人のホステスといっしょに、突然店に乱入してきた兵士たちに連れ去られたという。  家賃滞納でその年の十一月に、海人たちはアパートを追い出された。隣の部屋の若い夫婦が、三人を車に乗せて孤児収容施設に連れていってくれた。市内に二ヵ所ある施設はどちらも定員オーバーを理由にうけ入れを拒否した。仕方なく三人は、焼け落ちたショッピングセンターで、見知らぬ大人たちと一週間ほど暮らした。恵が、女の子という理由からだけで、危険にさらされていることがわかった。三人はそこを出て、転々とした。鉄道駅、河川敷、長期間操業をやめている工場、半壊した警察署。どこも事情は変わらなかった。  街でぐうぜん知り合った元市役所職員に、海人はせつせつと家族の事情を訴えた。 「おとうさんはにじゅうよんさいでしんじゃって、おかあさんはにじゅうさんさいのなつにゆくえふめいになったんです。メグのけいさんではそうなります」  その若い男は苦しそうな顔つきで、話をぜんぶ聞いてくれたが、無言のまま立ち去った。  数日後、元市役所職員の男が、銀行の駐車場で寝泊まりしていた三人をむかえにきて、常陸港を望む住宅街でアパートを経営している女に引き合わせた。そのとき、大人たちがかわした言葉の一部を、海人はいまでも鮮明におぼえている。 「亭主は爆撃でやられて腰が立たない。おじいちゃんはぼけてウンチの垂れ流し。ガキは腹空かせていつもピーピー泣いてる。うちだってなんとか食ってるんだ。このアパート見てよ。わかるでしょ」  女が庭の奥のプレハブの建物を示した。工事現場の資材置き場に使うような代物であることは、海人にもわかった。 「立派な住居ですよ」元市役所職員が言った。 「残念でした。空き部屋はないの。あっても家賃払ってくれなきゃ、うちの家族が餓死する」女が言った。 「外階段の下が空いてるじゃないですか。あそこを使わせてください」  元市役所職員が人差し指を向けた外階段の下のわずかな空間を、女は長い時間、見ていた。それから、話し合いの行方を不安げにながめている八歳と四歳と二歳の子供三人へ、心の底から憎んでるような視線をちらとくれた。 「もうぜったいこんな話は持ち込まないでちょうだい。あたしがなんとかしてやれるのは、この子たちだけだからね」女が元市役所職員に顔をもどしてきっぱり言った。 「ぼくがなんとかしてあげられるのも、この子たちが最初で最後です」元市役所職員が、かすかに口もとをほころばせ、だがいぜんとして厳しい表情を崩さずに言った。  大人たちの激しい言葉の応酬がなにを意味しているのか、ぼんやりとではあるが、海人にも理解できた。家を失くした大勢の人が路上にあふれていた。ここに誰かのための家を建てれば、べつの家族がここに家を建てるわけにいかなくなる。そのうえ、アパートを経営する女も元市役所職員も、自分の家族を守るので精一杯だったのだ。  元市役所職員の動きはすばやかった。その日の午後には、数人の仲間といっしょに廃材をトラックに積んで持ち込み、アパートの外階段の下の空間に、ばたばたと小屋を建ててくれた。  女は家賃の話をしなかった。もちろん要求もしなかった。翌年の早春、戦争被害者を支援するNGOが、常陸港の近くで事務所を開設すると、彼女は海人たち三人をそこへ連れていき、スタッフに事情を説明して、彼らの母親を捜してほしいと依頼した。その際に、海人、恵、隆の三人は、支援物資をうけとるために必要な身分証明書を発行してもらった。     6  内乱が泥沼化して、アメリカ合衆国は軍事介入から撤退することをよぎなくされた。彼らは、敗走する反乱軍への空爆を応化三年の九月までつづけたのち、戦略を転換して、三沢《みさわ》、横田《よこた》、横須賀《よこすか》、座間《ざま》、厚木《あつぎ》、上瀬谷《かみせや》、岩国《いわくに》、佐世保《させぼ》、沖縄の軍事基地の、防衛と存続に専念するようになった。  武装勢力が各地で都市を襲った。ときには政府軍も盗賊化した。略奪はありふれた光景となった。  ただ一つ戦乱をまぬがれた北海道へ、数百万人の人々が避難した。大陸から漂着した難民がこんどは日本から脱出を試みた。裕福な階層は資産を海外へ持ち出した。天皇家はイギリスへ渡り、事実上の亡命生活をよぎなくされた。  都市は自衛のために武装した。旧反乱軍の幹部を雇い、兵士と難民と犯罪者をかきあつめて訓練をほどこし、独自の軍隊を急造した。武装勢力が都市を攻略して地方政権を名乗る場合もあった。  いずれにしろ都市は、ばく大な軍事費の捻出《ねんしゆつ》に迫られて、マフィアと同盟をむすび、合成ドラッグの製造と密輸、武器の横流し、略奪資産と戦争奴隷の売買等々、地下経済を育成した。  ある都市は、傭兵《ようへい》部隊を出撃させて、べつの無防備の都市に襲いかかり、富を根こそぎ奪った。  徹底抗戦と大虐殺があった。  恵がときおり、祈りとあきらめの入り混じる、不思議なひびきの声で言う。 「日本のどこかでいまも戦争がおきてる」  内陸部で都市攻略戦が激しくつづく一方、沿岸部には戦時の平和を享受する都市が出現した。  商業港を抱える北関東の常陸市もその一つである。  行政機関は内乱|勃発《ぼつぱつ》以前に給料未払いのため機能を停止した。税金を徴収する機関も、住民の安全を確保する警察力も、街には存在しなかった。  治安維持にあたる一個中隊規模の政府軍は、装備も士気も貧弱だった。ときおり軍用車両で街をパトロールしたが、頼りにはならなかった。彼らがいつ盗賊化しても不思議ではなく、むしろ住民はそちらの可能性を怖れていた。  窃盗、強盗、レイプ、殺人は日常だった。街には孤児と娼婦《しようふ》と路上生活者があふれ、銃器やドラッグがかんたんに手に入った。  それでも幸いなことに、常陸市は、内乱の初期をのぞいて、武装勢力による略奪をまぬがれてきた。  攻撃ヘリを搭載したアメリカ軍の強襲揚陸艦が、常時、第五|埠頭《ふとう》に停泊していた。戦争抑止力という点で、これも大きな意味を持った。  だが、端的に言えば、街の平和は内乱経済のロジックの帰結であった。  都市と武装勢力は、略奪した富や、秘密工場で製造した合成ドラッグの、安定的な販路を必要とした。常陸市では、日本系一組織とロシア系三組織のマフィア四派連合が、販路を引きうけ、代わりに、武器と燃料と食糧を内陸部の都市と武装勢力に供給した。  陸と海、双方から物資が常陸港に集積され、つぎつぎとべつの土地へ搬送された。常陸市は活気にあふれた。徹底した合理主義者であるマフィアは、〈思いやり予算〉と称して、アメリカ軍強襲揚陸艦に、水、燃料、食糧、慰安費用の提供を自ら申し出て負担した。つまりマフィアが経済の実権をにぎることで、常陸市はすべての勢力にとって有益な、中立地帯の役割をになうようになった。  この内乱経済のロジックが、皮肉なことに、海人と恵と隆の三人を、奇跡的に生きのびさせたのである。     7  応化九年、四月中旬のある日、山の方から肌を刺す冷たい風が吹きよせる午後だった。佐々木海人はいつものように、ベニヤ板でつくったケースに銘柄がよく見えるように煙草をならべ、それを紐《ひも》で首から下げて、人があつまる場所をつぎつぎと移動した。難民が密集する市場、不定期に列車が走る鉄道駅、鉄道や自家用車に代わって人々の重要な交通手段となった長距離バスのバスターミナル。港湾事務所まえのレストランに入り、食事中の客に煙草を売ろうとして、中国人の店主につまみ出された。  内乱は八年目に入っていた。  街は建設ラッシュだった。廃棄物を積んだトラックが走りまわり、いたるところで建設機械がうなりをあげ、空中に粉塵《ふんじん》をまき散らした。夕方、常陸港近くの歓楽街に事務所をかまえる元締めの男に煙草を返したとき、頭のてっぺんからつま先まで、うっすらと白く汚れていた。海人は、バラ売りの分まで細かく精算をすませ、稼いだわずかなカネをポケットにねじ込むと家に向かった。  ステーキハウス、ピアノ・バー、ラヴホテル、古着屋、性風俗の店が、狭い通りに密集していた。不発弾で両脚をやられた女の子の物乞《ものご》いが、腕だけですごいスピードで駆けよってきたので、海人は走って逃げた。  母が勤めていた〈クロニクル〉のまえをとおった。海人はときおり、NGOの事務所に顔を出して母の消息をたずねたが、手がかりはえられなかった。応化三年八月に常陸市で略奪をはたらいた部隊名さえ、正確なところはつかめないという話だった。  男たちの一団とすれちがった。七、八人で、ブルゾン、迷彩服、ヨットパーカーとブレザーの重ね着、服装はまちまちである。全員が無精ひげを生やし、眼つきが鋭かった。自動小銃や対戦車ロケット砲を肩に担ぐ者もいた。遠征の途中で休息をとる武装勢力のようだった。彼らが住民ともめごとを起こすと、マフィアが武装勢力の司令官と話をつけ、どうにか治安を維持してきた。  海人は、棟上げがおわったばかりの建築現場のまえで足をとめた。本格的な和風建築だった。梁《はり》の太さは柱の太さの数倍ある。仕事が一段落したのか、大工の老人が奥の方で焚《た》き火にあたりながら、黒っぽいスーツの男と話し込んでいた。  老人がいつも一人で、鉋《かんな》をかけ、鑿《のみ》をふるい、複雑な継手をつくっている。大工仲間や弟子らしい人物を見かけたことはない。梁を高い位置に渡すのさえ、老人はチェーン・ブロックを使って一人でやる。  海人は老人の仕事を見るのが好きだった。ほとんど毎日、煙草の精算の帰りに立ちよって、神業のような手仕事をながめて愉《たの》しんでいる。 「ぼうず」  とおりすぎようとした海人を、老人が呼びとめた。はじめて聞く老人の声は、無口で厳《いか》めしい顔つきを崩さない、ふだんの印象とはちがって、やけに甲高かった。こっちへこい、と手招きしていた。海人はいくらか緊張したが、声をかけられてうれしかったので、自然と笑みがこぼれた。  基礎のコンクリートの仕切りをまたいで近づいた。大人二人は、それぞれ角材の切れ端に尻《しり》をのせて、酒を飲んでいた。黒っぽいスーツの男に見おぼえがあった。なん日かまえに、老人と図面で打ち合わせしていた人だと思った。 「ぼうず、いくつだ」老人が訊《き》いた。 「十三さいです」海人は笑みを絶やさずにこたえた。 「はたらいてるのか」 「タバコうってます」 「銭はとれめえ」 「よるは、ねもとしょくどうではたらいてます」  歓楽街のはずれにある根本食堂は、大衆食堂兼居酒屋で、早朝まで営業している。 「腹へったろ。食え」老人が言った。  反射的に手を出して、海人は老人から箸《はし》をうけとった。二十リットル缶で木屑《きくず》が燃え、鍋《なべ》のなかで大根とイカがぐつぐつ煮えている。 「遠慮するな、どんどん食え」スーツの男が言った。  海人は男の赤味がかった頭髪に眼をとめた。染めているのではないようだ。瞳《ひとみ》は黒というよりも灰色に近い。男の日本語は流暢《りゆうちよう》だが、どこかに外国|訛《なまり》があった。 「いただきます」海人は言った。  海人は輪切りにしたぶ厚い大根の中心に箸を突き刺した。持ちあげて、かぶりつき、あちちと叫んだ。手足をばたつかせると、大根が地べたに落ちて三つに割れた。それを一つずつ、タオルで泥をこすり落としながら、きれいにたいらげた。その間ずっと、老人とスーツの男はげらげら笑っていた。イカの腸《はらわた》の味が染みこんだ、旨味《うまみ》がたっぷりある大根だった。 「うめえ」海人は思わず言った。 「大工仕事好きか」老人が訊いた。 「すきです」 「どこが気に入ったんだ」 「カンナ」 「鉋ねえ」 「きもちよさそうです。すけてみえるぐらい、うすくけずれるとこなんか。ノミとか、ハをとぐのも、みてるのすきです」 「もっと食え」老人が上機嫌な声で言った。 「いえ、もうけっこうです。ごちそうさまでした」海人は箸を鍋の内側に立てかけた。 「おまえはそういう躾《しつけ》をうけてるのか」スーツの男が訊いた。 「しつけ?」海人は言葉の意味がわからなかった。 「人にごちそうされても、がつがつ食うなとか、ちゃんとお礼を言えとか」 「メグにいわれてます」 「メグって誰だ」 「いもうとです」 「おまえの妹じゃ若いだろ」 「しょうがく四ねんせいになったところです」  スーツの男と老人はまた声をあげて笑った。大人たちが、なにがおかしくて笑ったのか、海人はよくわからなかった。 「イカを食ってねえだろ」老人が言った。 「ではイカを一つだけ」海人は素直に箸をとった。 「でっかいやつを狙え」 「頭の三角のとこがでかいぞ」スーツの男が囃《はや》し立てるように言った。  海人はイカの頭に箸を突き刺した。こんどは落としたりしないよう、ふうふうと息を吹きかけ、じゅうぶんに冷ましてから、かぶりついた。 「親はなにしてる」老人が訊いた。 「いません」海人は口のなかでイカを噛《か》み砕きながらこたえた。 「内乱で死んだのか」 「おとうさんはアメリカぐんのミサイルで。おかあさんはゆくえふめいです」 「兄弟はメグだけか」 「おとうとがいます。しょうがく二ねんせいです」 「おまえ学校いってるのか」 「おとうとのこもりなんかして、いっかいもいってません」  どこに住んでるんだと訊かれ、海人は借りているアパートの場所と大家の名前を教えた。老人も男も軽いおどろきを示した。孤児を収容する施設が市内に二ヵ所あるが、内乱がはじまるまえから定員をオーバーしており、戦争孤児たちは、路上で生活するのがふつうだからである。 「親戚《しんせき》のアパートか」老人が訊いた。 「ちがいます」海人は言った。 「おまえの稼ぎで家賃をはらえるのか」 「どうにか」 「そりゃあすごい」 「へやだいを、すごくやすくしてもらってます」 「将来のことを考えたことあるか」 「あんまり」海人は首を横に振った。 「なにか身につく仕事を見つけろ」 「いつもいわれてます」 「メグに言われるのか」スーツの男が訊いた。  口のなかがイカでいっぱいだった。いそいで飲み込もうとして喉《のど》につまらせた海人は、首に両手をあてがい、苦しげな表情で、どうにかこたえた。 「メグに」  老人とスーツの男がまた愉快そうに笑った。     8  小さな明かりが間口の狭い店を照らしている。壁と床に隙間なくならべた石鹸《せつけん》、塩、醤油《しようゆ》、食用油、密造酒、駄菓子、煙草、使い捨てライター。アパートの大家が近所の住民を相手にひらいた店である。 「ただいま」海人は快活な声で言った。  商品に埋もれた店の中央に、畳半分ほどの板敷きがある。そこに両脚を投げ出した三十代なかばの男が、ちらと海人へ眼をくれた。無言だった。大家が愛想がないのはいつものことだから、海人は気にせずに、さっさととおりすぎて、母屋のはずれから庭に入った。  軽トラックがとまっていた。荷台に錆《さ》びのういた保冷庫をとりつけてある。大家の女房がそれを運転して、漁港で仕入れた魚を、歓楽街の店や政府軍や得意先に売り歩いている。 「おばちゃん、ただいま」海人は言った。  大家の女房が運転席のドアに背中をあずけて煙草をくゆらしていた。ゴム紐《ひも》で縛った髪、つば付きの帽子、ブルゾン、ブルージーンズ、スニーカー、いつもそんな服装だった。 「お帰り、カイト。寒かったね」女房が煙草の煙を吹きかけた。  海人は煙草の匂いが大嫌いだった。顔をそむけ、手で煙を追い払った。 「いじわる!」海人は口をとがらせた。 「好きな男の子には、いじわるしたくなるもんなのさ」女房が笑って白い歯を見せた。  海人は逃げるように、薄闇が迫る庭を突っ切った。奥まった場所に二階建ての粗末なプレハブのアパートがある。一階と二階をそれぞれ四つに仕切った貸し部屋と、共同のトイレと炊事場がある。風呂《ふろ》はない。べつ棟の、小さなプレハブのなかにシャワールームがあり、大家にカネをはらって鍵《かぎ》を借りる。水道料金がおそろしく高いのだ。  アパートの外階段の下に、廃材でつくった平屋の粗末な小屋がある。それが海人たち兄妹弟が借りている部屋だった。 「ただいま」海人は玄関ドアをあけた。 「おかえりなさい」恵と隆が声をそろえて言った。  海人は厚ベニヤの上でスニーカーを脱ぎ、ミカン箱のなかへ入れた。畳はない。寝起きする三畳ほどの板敷きのスペースに、古カーペットをなん枚か重ねて敷いてある。西側の壁はアパートの壁面をそのまま利用し、雨漏りをふせぐために、トタン屋根と壁の隙間にボロ布をつめ込んである。天井がないので、雨降りの日は、トタン屋根を叩《たた》く雨音がうるさくて話ができない。  部屋に入ると独特の匂いがする。人は異臭と呼ぶかもしれないが、海人はその匂いに包まれると心がなごむ。恵と隆がちゃんと生きている。兄妹弟三人で、笑ったり、口論したり、ときには相手の言葉に耳をすませたりする。部屋のすみに和菓子の紙箱をおき、両親の形見と写真を飾ってある。ここは、母が消息を絶った年の暮れから、五年と四ヵ月も住んできた我が家である。  すぐ夕食がはじまった。雑炊だった。電気を引いていないので、薄明かりのなかでさっさと食べる。  彼らの一日はまず、早朝、海人が根本食堂から残飯入りのビニール袋を担いで帰ってくるところからはじまる。それを恵が仕分けて、雑炊にする。朝食を三人ですませると、海人は眠る。  恵と隆は学校へいく。弁当は持っていかない。学校は内乱の初期に反乱軍の宿舎となり、アメリカ軍の空爆で痕跡《こんせき》をとどめないほど破壊された。給与が支払われないから教育制度そのものが崩壊した。元教師がボランティアで、あちこちに間借りして、かろうじて学校教育を維持している。授業料はとらない。  海人は昼まえに起きて、煙草売りに出かける。彼の方も昼飯は抜く。夕方帰宅して、三人で食事をすませ、それから根本食堂にはたらきに出て、早朝、残飯を持ち帰る。そんなサイクルで暮らしている。  ほぼ三百六十五日、食事は雑炊になる。 「こんなもん、くえるか」隆がしょっちゅう文句を言う。 「えいようバランスの点でも、火を入れるから食中毒たいさくという点でも、これがいちばんごうりてきなの」恵が言う。 「カイトはじぶんだけ、うまいもん、くってるじゃないか」隆が言う。  海人の場合、根本食堂で深夜、賄《まかな》い食が出るのだ。 「朝まではたらくんだから、根本しょくどうが夜食を出すのはあたりまえのことなの。カイトはちっとも悪くない。ねえ、リュウ、くやしかったら、はやく大きくなってはたらきなさいよ」  しっかりもので、筋道を立てて話すことができる恵が、末っ子のわがままを粉砕する。それでも聞き分けのない態度を見せると、恵は思いっきりひっぱたく。隆はあっさり泣き出す。そういう修羅場がくると、海人もおうおうと声をあげて泣く。だが恵はぜったい泣かない。 「泣いてるひまなんてないわ」と恵は言う。  夕食がおわった。空腹感がみたされ、からだが火照ってきた。海人は睡魔に誘われてボロ毛布にもぐりこんだ。根本食堂に出かけるまで一時間ほど眠れる。ひどく疲れていて、横になったとたんに意識がうすれた。 「カイト、そろそろ起きて」  恵に肩をゆすぶられて、海人はがばっと起きた。全身にしびれを感じた。恵からシャワー代とビニール袋を二つうけとった。着替えの衣服と、廃油からつくった粗悪な石鹸とタオルが入っている。  衣服、文房具、ノート、教科書は、援助物資を大切に使う。食糧にカネを使うことはめったにない。海人の稼ぎの大半は、部屋代と炊事用の燃料代、それから石鹸代とシャワー代に費やされる。  食堂ではたらくからには、またその職を失わないためには、身ぎれいにして出かけねばならない。それが恵の信念だった。海人は毎日シャワーを浴びるよう命じられている。恵と隆はシャワーを使わない。二人は三十分ほど歩いて川までいき、洗濯をする。そのとき、ついでにからだを洗ってくる。真冬でも。  恵は、ロケット型のすべすべしたケースに入った、ケースと同じ色の淡いブルーの石鹸を一つだけ持っている。彼女は匂いを嗅《か》ぐだけで、その石鹸を使おうとしない。理由を訊いても、彼女はにやにや笑うだけで、こたえない。  海人にとって、妹の恵はけっこう謎の多い人間であるが、最大の謎がそれだった。     9  大家の女房の生活はいそがしい。  恵と同学年の男の子がいる。その一人息子は、祖父母に甘やかされて育ち、しょっちゅう母親のびんたを食らい、金切り声をあげていつまでも泣く。  七十歳近い義父は痴呆《ちほう》症で、徘徊《はいかい》癖があり、家のなかでも街でも排泄《はいせつ》物をまき散らす。義母は義父にかかりっきりで、夜まともに眠ることもできず、眼のまわりにいつも隈《くま》をつくり、海人たちに笑顔を見せたことがない。  彼女の亭主である大家は、元スーパーマーケットの鮮魚部の仕入れ担当者で、内乱|勃発《ぼつぱつ》時に、アメリカ軍が市場に投下したクラスター爆弾で腰椎《ようつい》を破壊された。それ以降、くり返し死んだ人のように生きている。  嫁の彼女が、経済問題をふくめて、家族全員の人生をまえへまえへと引っ張っていた。亭主の負傷のていどが判明すると、それまで彼女がやっていた痴呆老人の世話を義母にまかせ、亭主の知人のコネを使って、魚の引き売りをはじめた。それと同時に、庭に中古のプレハブを建て、家賃収入の道をつくった。  海人たちがここへきたとき、すでに大家の家族はそういう状態だった。亭主が怪我をしていなければ、つまり彼女に決定権が移っていなければ、そして彼女が心優しくて腕っぷしの強い人でなければ、海人たちはここに住むことを許されなかっただろう。  一昨年の夏、海人は根本食堂ではたらきはじめると、恵と相談のうえ、大家の女房のところへいった。 「やちんをはらいたいんですけど」海人は言った。 「じゃあちょうだい」女房は破顔して手を出した。  彼女が要求したのは、世間相場からすればわずかな額のカネであり、子供の稼ぎからいえばかなりの負担を強いる額のカネだった。それを海人は払いつづけた。なにも不満はなかった。あるのは彼女への敬意と信頼感だけだった。  海人はいま、三つに仕切られたシャワールームの左端のブースで、大家の女房の白い乳房を甘く思いうかべながら、石鹸の泡にまみれた自分の性器を見つめていた。  彼女は魚売りの仕事から帰ると、すぐ家のなかには入らず、庭にとめた軽トラックの陰で煙草を一服やる。かならずというわけではないが、ちょくちょくそうする。昨年の夏のある日の夕方、しゃがんで煙を吐き出す彼女の、汗にまみれたTシャツの、のびきった丸襟から、乳房の谷間が見えたのだ。外を飛びまわる彼女は、首から胸の鎖骨のあたりまで、まっ黒に日焼けしている。だが乳房はちがった。その白さが海人を驚愕《きようがく》させ、量感と柔らかそうな印象が彼に混乱をもたらした。  また、腰椎を負傷した大家の、下半身に関する噂がある。海人は噂の内容を正確に理解できたわけではない。だが大家の下半身の状態が、彼女にある苦しみをもたらしているらしいことは想像がつき、そのことも彼女の白い乳房にかくべつな位置を与えていた。  海人は、固くそり返った自分の性器に、右手をそっとのばした。彼はまだ自分で自分を慰める方法を知らなかった。だが今夜はなにかが起こりそうな予感がした。  隣のブースのドアがばたんと閉まる音が、海人の夢想を中断させた。つづいて内側からロックする音。 「カイト、いるの?」大家の女房の張りのある声が聞こえた。 「はい!」海人はこたえた。  性器をにぎる手をいそいで放した。顔が真っ赤になるのが自分でわかった。水道のハンドルをまわして冷水を頭からあびた。 「おばちゃん、これでも悩んでるんだよ」女房が言った。  ブースは畳一枚分で、隣のブースとは厚ベニヤで仕切られているが、天井のスペースは開放されているのでよく声がとおる。 「なんですか」海人は訊《き》いた。 「家賃うけとっていいもんかどうか」 「おカネはらうのはとうぜんです」 「おまえが払える間はうけとった方がいいと思ってさ」 「おれ、そのうち、みにつくしごとみつけます」  海人の性器はまだ勃起《ぼつき》していた。恵から教わった〈ワンポテト・ツーポテト〉を、でっかい声で歌いはじめた。唐突なうえに、ひどく調子っぱずれだったので、隣のブースで女房がげらげら笑った。海人はかまわず歌をがなりつづけたが、性器の勢いが衰える気配はまったくなかった。  生きてきた人生は、まだ短い。それでも悲しいことはたくさんあった。そのどれともぜんぜんちがう種類の悲しみが、海人の胸を締めつけた。彼は罪の意識とともに思った。 「メグがしったら、けいべつするだろう」     10  根本食堂は酒や料理がもたもたせずに出てくる。メニューが豊富で、値段も手ごろで、けっこう繁盛している。その夜もいそがしくすぎた。素っ気ない店内に、安っぽいテーブルが十四、適当にならべてある。政府軍兵士とポンビキのささいな喧嘩《けんか》があった。客層は幅が広い。船員、港湾労働者、アメリカ軍兵士、マフィア、傭兵《ようへい》、犯罪者一般、世界各国の娼婦《しようふ》、いろんな人間がくる。  配膳《はいぜん》係は基本的に子供三人だけで担当する。たえず耳をそばだて、眼を配り、すばやく判断しなければならない。間に合わなくなれば店主の根本が手伝う。客に笑顔を絶やさず、厨房《ちゆうぼう》に歯切れのいい声をかけ、すばしっこく動きまわる海人は、根本に重宝がられていた。  海人のほかに、根本の遠い親戚《しんせき》だという十四歳の女の子と十歳の男の子がはたらいている。男の子は幼すぎて、空いている椅子にふと腰をかけ、そのまま居眠りしてしまうことがある。女の子の方は、海人にはいっぷう変わって見えた。口数が極端にすくなく、笑みをもらすことも希《まれ》で、客に愛想よくすることができない。  午前零時すぎ、空席が目立つようになったところで賄《まかな》い食が出た。子供たちは歓声をあげた。このときばかりは女の子も表情をなごませる。厨房に近いテーブルにおでんの鍋《なべ》とキムチと白い飯がならんだ。海人は、妹と弟の顔を頭によぎらせ、いくらか疚《やま》しさを感じながら、がつがつと食べた。  午前四時、ラストオーダーをとった。その三十分後、海人はトイレの掃除をはじめた。五時ちょうど、店を閉めた。厨房とテーブルと床をぴかぴかに磨きあげ、店のまえを掃除して水を流した。それから日払いの賃金と、厨房の親切なお兄さんたちから極上の残飯をもらった。  午前五時半すぎ、根本が車に女の子と男の子を乗せて帰った。海人は、残飯の入ったビニール袋を三つ、肩に担いで歩き出したとたんに、なにかがおかしいと思った。  通称プーシキン通りは、北端と南端で国道245号線とつながっている。四百メートルほどの通りの両側に、飲食店や性風俗店がひしめき、根本食堂は南端にある。  海人は北の方角へきびきびと歩いた。すでに夜は明けて、朝の低い光線に、人や建物のシルエットがくっきりとうかんでいる。眠りにつく人と、はたらきはじめる人が、微妙に交差する時間帯で、通りがやや淋《さび》しく見える。金角楼の店先をとおった。油餅《ヨウピン》を焼く匂いが腹にしみた。顔見知りの頭がすこしおかしい娼婦が声をかけてきた。  ナイトクラブ〈ベラ〉の先を左折した。ゆるやかな坂道を登りつめて、歓楽街がおわった。右側の台地に政府軍が駐屯する小学校と寺がある。路地に入った。トタン屋根と、その上にさらに雨漏り防止の青いビニールシートをかけたバラックがひしめき合う地域だった。いつもの朝ではないという思いが強まった。  アパートまで二百メートルほどの地点にきた。どこかで子供の叫びが一つ聞こえ、海人は足をすくませた。視線の先に草色の幌《ほろ》付きトラックがとまっていた。こんどは怒声と悲鳴が重なって聞こえた。幌のなかだと思った。海人はきびすをかえして政府軍駐屯地の方へもどろうとした。前方から自動小銃をかまえた二人の男が近づいてきた。反射的にべつの路地に飛び込んだ。背後で待てと叫ぶ声。つづいて銃声。  全力で走りながら路地をめまぐるしく曲がった。大量の水分をふくんだ残飯入りのビニール袋の重さで、からだがふらついた。それでも海人は足を踏んばって走りつづけた。  いつもの街の朝ではないという感触の根拠に、海人は見当がついた。路上生活をする孤児たちの姿が街から消えているのだ。  孤児の多くは、海を越えて流れ込んだ難民出身者だった。彼らはロシア沿海州、中国東北部、朝鮮半島からきた。つぎに多いのが、内乱以前から出稼ぎにきていたブラジル系、東南アジア系、インド亜大陸系、アフリカ系の人々の子供である。もちろん国内難民化した日本人孤児もいる。  そういう路上生活の孤児を、社会浄化と称して、まるで狩りを愉《たの》しむように襲撃する集団が存在する。急進的な愛国主義者を装ったりするが、彼らはたいていの場合、不満のはけ口をもとめる若い失業者たちである。最近では、妻子に逃げられた男たちが熱烈な信者になっているカルト教団が、孤児を襲いはじめた。だがそういう連中は、棍棒《こんぼう》で殴るか、拳銃《けんじゆう》で撃ち殺すだけだ。幌付きのトラックに放り込んだりはしない。  海人の頭には、昨日の夕方見かけた武装集団の兵士たちの姿があった。戦争に負けた都市で、女や子供が武装集団に捕まると、コンテナにつめ込まれて港へ運ばれ、外国に売られるという話を聞いたことがある。  恵と隆が巻き添えになる危険をさけようとして、海人はアパートからどんどん離れた。使用されていない鉄道の駅前に出た。草色の4WDがとまっていた。ボディに見慣れた東部方面軍第1師団のマークがある。政府軍のパトロール隊だ。助かったと思った。そこで近くの路地からディーゼルエンジンのうなりが聞こえた。ピックアップ・トラックが突進してきた。海人は政府軍の4WDに駆けよった。 「たすけてください!」海人は叫んだ。  ピックアップ・トラックから、兵士が二人飛び降りた。一人が自動小銃を政府軍の4WDに向け、もう一人が海人の後ろ襟をつかんだ。 「手出しをするな!」兵士の一人が政府軍に鋭く告げた。  4WDの助手席で政府軍兵士が薄く笑った。その顔がふいに遠ざかり、海人の視界はぐるりと回転して、天地が引っくり返った。大切につかんでいた残飯入りのビニール袋が三つ、手を離れてどこかへ飛んでいった。海人の両脚が持ちあがり、顔面がピックアップ・トラックの荷台に衝突した。後ろ手にされ、針金で手首を縛られ、自動小銃の銃床で頭を殴られた。意識を失いかけながら、海人は妹と弟の名前を叫んだ。また殴られた。ピックアップ・トラックが急発進した。     11  国道6号線の手まえで、海人は幌付きの大型トラックに積み替えられた。ほかにも拉致された子供が二十人近くいた。全員が男の子で、後ろ手に縛られていた。トラックが出発した。前後にピックアップ・トラックがつき、兵士が自動小銃で監視した。荷台はにぎやかだった。泣き叫びつづける子、床の鉄板へ頭突きをくり返す子、口から泡を吹いて意味不明の言葉をつぶやく子。  海人は幌の隙間から外の様子をうかがった。街はひっそりとして、抗議する住民や政府軍があらわれる気配はない。彼は殴られた頭部の激痛に耐えながら自分に誓った。 「ぜったいかぞくのところへもどるぞ」  いまはなにもできない。だがかならず脱走する機会はおとずれる。  道路のあちこちに砲弾でえぐられた穴があった。それをよけて、子供たちを乗せたトラックはのろのろとすすんだ。高速道路の高架の下をくぐり、長い車列に合流した。自走無反動砲、多連装ロケットシステム、重機関銃を搭載した装輪装甲車、各種トラック、偵察用のオフロードバイクの一群が連なって、西北へ向かった。  田植えがはじまる季節だった。水田の土を平らにならすトラクターや、水路を補修している農民の姿を見かけた。戦況が切迫すれば話はべつだが、食糧事情を考慮して、武装勢力と政府軍の間で、水田地帯を戦場にしないという暗黙の了解ができている。  はじめて見る景色がつづいた。海人の生活圏は狭かった。北は動物公園の近くまで、西は国道6号線まで、南は妹と弟が洗濯にいく久慈《くじ》川まで、と行動範囲を限定していた。街の外、とくに山間部では略奪がくり返されていることを、大人たちに聞かされていたからである。  左手に大きな街があらわれた。子供の誰かが「ひたちおおただ」と言った。街の中心部へ向かう道路に検問所があった。東部方面軍第1師団の旗がひるがえっていた。政府軍である。衝突は起きなかった。武装勢力の車列は、常陸太田市の中心街を迂回《うかい》すると、こんどは北へ進路をとった。  やがて平地がとぎれ、山間部に入った。川ぞいや、なだらかな丘の中腹に、集落が点在していた。大半の建物は破壊され、人影はなかった。それでも通過するたびに、オフロードバイクや4WDのピックアップ・トラックが見てまわり、ときおり銃声と叫び声がひびいた。  峠をいくつか越えた。太陽が真上に昇ったころ、ひらけた盆地のような場所に出て、ようやく武装勢力は行軍を停止した。彼らは三台のトラックから子供たちを引きずり降ろした。  子供たちは、焼き払われた林檎《りんご》畑で、整列させられた。自動小銃をかまえた十数人の少年兵がとり囲んだ。草色のブルゾンを着た兵士がすすみ出た。彼だけが大人だった。無帽で、髪を短く刈りあげ、左眼の下の鼻に近いところから頬にかけて深い裂傷がある。男は子供たちの列をざっと見てまわった。  男が自分のまえにきたとき、海人は、頭の二ヵ所の傷から流れた血で汚れた顔をしっかりとあげ、歯切れのいい声で言った。 「おれはろじょうせいかつしゃじゃありません。りょうしんもきょうだいもいます。アパートにすんでます。かえしてください」  ぜんぶしゃべりおわらないうちに、男が蹴《け》りあげた。海人は衝撃で背後にどすんと倒れた。股間《こかん》の痛みに耐えきれず、地面を転げまわった。海人は、この場でどうふるまえばいいのか、けんめいに考えた。立ちあがると、足を踏んばって背筋をのばした。 「貴様らの命はきょうから俺があずかる! わかったな!」男が言った。 「わかりましたしょうたいちょうどの! そういうんだ!」少年兵の一人が言った。  子供たちは、わかりました小隊長どの、と口々に言った。海人も言った。声がばらばらだった。声がそろうまで、少年兵たちに殴られた。  小隊長は全員を見てまわると、十人ずつ四つのグループに分け、各グループに古参の少年兵二人をつけて、分隊長と副隊長とした。第1分隊は古参の少年兵たちだけで、第2分隊から第5分隊までが新兵を中心に、編成された。海人は第2分隊だった。一人あまった子は第5分隊に入れられた。  ほかに三人の女の子と一人の男の子がべつに分けられた。その除外された男の子は立つことができなかった。小隊長がしゃがんで、男の子の右足をしらべた。足首の骨を痛めているようだった。小隊長が腰のホルダーから拳銃をぬくとむぞうさに男の子の頭を撃った。パンと乾いた銃声。男の子が両腕をぐにゃりとさせて倒れた。  誰かが、ひぃー、と悲鳴のような声で泣いた。それが合図となって、子供たちはいっせいに泣き出した。海人も声をあげて、おうおうと泣いた。少年兵が空へ向けてダンダンダンと自動小銃を撃った。  どうにか沈黙した子供たちに、小隊長が怒鳴った。 「貴様ら、逃げ出せるなんて考えるな!」  子供たちはあわてて叫んだ。海人も叫んだ。 「わかりましたしょうたいちょうどの!」 「逃げてもかならず捕まえて殺す!」 「わかりましたしょうたいちょうどの!」 「一人逃げれば、その分隊の残りの連中を全員殺す」 「わかりましたしょうたいちょうどの!」 「戦場がどんなものか教えてやる!」 「わかりましたしょうたいちょうどの!」  少年兵二人が死んだ子の足首をつかむと、林檎畑を引きずっていった。細かい土埃《つちぼこり》が舞いあがった。畑の西端までいき、少年兵の一人が反動をつけて死体を振りまわした。茅《かや》がうっそうと生い茂る小さな谷間に、ついさっきまで足を痛がっていた男の子が、ボロ毛布の固まりのように飛んでいった。  ようやく子供たちの手首を縛っていた針金がはずされた。  三人の女の子はべつの場所に連れていかれた。  新兵四十一人は、古参の少年兵に引率されて補給隊のトラックへいき、食事の準備にとりかかった。 [#改ページ]   第2章 応化九年初夏の殺人     12  武装集団が宿営したのは、茨城県|大子《だいご》市|小生瀬《こなませ》という土地だった。大子市の中心街までおよそ十キロメートルの地点である。総兵員数はおよそ三百人。彼らは〈加賀見部隊〉と名乗っていた。中核部隊は、元政府軍の加賀見武大尉とその部下で、彼らはかつて栃木県宇都宮市駐屯の陸軍第12旅団に所属していた。  第12旅団は、内乱初期の応化二年二月下旬、救国臨時政府を防衛するために南下してきた東北方面軍第6師団に敗れ、宇都宮市から放逐された。加賀見と部下は敗走しつつ、元政府軍兵士、犯罪者、外国人|傭兵《ようへい》などを糾合して盗賊集団化した。  一方、反乱の主力部隊となった東北方面軍は、首都圏から撤退したのち、仙台市と宇都宮市に二大拠点を築いた。両都市は、内乱|勃発《ぼつぱつ》から七年を経て、治安を安定させて周辺に勢力を拡大し、地方軍事政権の貌《かお》を見せはじめていた。  政権が安定すると、その地域に富が集積する。  加賀見部隊は宇都宮市の富を狙っていた。かつてその地で敗れたという私怨《しえん》もある。もちろん兵員三百人で宇都宮市攻略がかなうはずもない。周辺の武装集団の司令官と連携した作戦である。  大子市は、宇都宮市の東北およそ六十五キロメートルにあり、〈宇都宮軍〉の一個中隊百五十人と、ロシア人の元軍人が率いる外国人部隊八十人が防衛にあたっていた。  加賀見部隊は、宇都宮市へ進軍するために、まず大子市防衛軍を打ち破らねばならなかった。     13  宿営した翌日の未明、海人は、戦闘部隊の一部が西の谷へ向かうのを見た。およそ三十分後、谷の奥の方で砲声がとどろいた。砲撃は散発的につづき、正午ごろにはぴたりとやんだ。  つぎの日も、未明に砲撃がはじまり、正午ごろにおわった。同じことがなん日もだらだらとくり返された。  少年兵小隊は、夜明けから日没まで、炊事と洗濯に追われた。その間に軍事訓練があった。  湿地を走らされた。急斜面を登らされ、突き落とされた。怪我をして役に立たなくなれば、どんな運命が待ちうけているのか、全員がはっきりと理解していた。必死だった。海人もどうにかついていった。  拳銃《けんじゆう》と自動小銃の、分解、掃除、組み立て、射撃訓練があった。おぼえの悪い者、不器用な者は、しょっちゅう殴られた。厳しい訓練にもかかわらず、これは海人の好奇心を刺激した。  海人の分隊の分隊長は、仲間からマルコと呼ばれる日系ブラジル人の少年で、眼差《まなざ》しに異国を感じさせた。海人よりひとまわり小さい骨格をしているが、強靭《きようじん》で、怖れを知らなかった。つねに自動小銃をたずさえ、十一人の部下に鋭い視線をそそぎ、憎しみがこもる声で命令を下した。訓練中に遅れる部下を容赦なく殴った。そんなマルコだったが、毎日散発的につづく砲撃の意味を、海人が訊《き》いてみると、きちんとこたえてくれた。 「こうしょうがはじまったんだ。おどして、こうしょうする。それがおれたちのやりかただ」マルコは言った。  五日目の午後、前線からもどったピックアップ・トラックが、林檎《りんご》畑に敵の死体を一つ放り投げた。死体は、靴も衣服もベルトも奪われて、下着一枚の姿だった。頭と胸に銃弾の穴があき、白眼をむいていた。 「貴様らに魂を入れてやる」小隊長が言った。  死体を林檎の木に縛りつけ、竹槍《たけやり》で突撃訓練をした。子供たちから魂を奪うための訓練だった。海人は順番を待つ間にふるえがとまらなくなった。尻《しり》込みして、なん発か殴られたあとで、泣きながら突撃した。  少年兵の食事は、大人の兵士が全員すませたあとではじまる。死体への突撃をくり返した日、ほかの多くの子と同じように、海人は夕食が喉《のど》をとおらなかった。無理して飲み込んでも、すぐに吐き、不快感がいっそう強まった。  日が暮れると、道路、谷間、森、いっさいを暗闇が包み込む。山のなかへ逃げてしまえば、捜し出すことはまず不可能である。だが恐怖心が、新兵たちから脱走する意思を奪った。  夜、冷え込む林檎畑のなかで、少年兵たちは折り重なるように一ヵ所に固まって寝た。毛布を支給してもらえなかった。周囲で、古参の少年兵が自動小銃を手に、交代で眠りながら、新兵が逃亡しないように監視した。  海人は、万が一、自分になにかあったときに、残飯をもらえそうな店をいくつか、恵と隆に教えてあった。恵は七月で十歳になる。自分のその歳とくらべたら、恵の方がずっと賢くて、精神的にもたくましい。読み書きも計算もできる。支援物資の入手方法は恵の方が詳しい。恵は隆の世話をしながらなんとかやっているにちがいない、と海人は自分に言い聞かせた。それでも、彼は毎晩、妹と弟を思って泣いた。  宿営九日目の朝、はじめて北の方で砲声が聞こえた。西の谷の向こうにくらべると、ずっと遠い砲声だった。兵士たちの話から、加賀見部隊と連携するべつの武装集団が、矢祭《やまつり》町の方から南下してきたのだとわかった。  午後早い時刻に、常陸太田市方面からトラック二台が到着した。二台ともテントが積んであり、その上に大勢の若い女がしがみついていた。  丘の中腹で訓練中の少年兵小隊は、ほんの短い時間、臨時の休息をとり、川でからだを洗う娼婦《しようふ》たちをながめた。  設営された六つの新しいテントのまえに、兵士が列をつくった。夜の食事はこれまででいちばん豪華だった。アルコール類も出た。兵士はカラオケ大会に興じ、半裸の娼婦とデュエットを愉《たの》しんだ。テントのまえの列はとぎれることがなかった。ばかさわぎが深夜までつづいた。  翌日、夜明けとともに全軍が西へ向けて移動をはじめた。  少年兵小隊は、隊列の最後尾の補給隊のトラックの後ろを駆け足ですすんだ。海人たち新兵はまだ武器を支給されなかった。  前線では砲撃が激しくなった。四キロメートルほど前進すると、トンネルがあった。入口が爆破されて土砂と瓦礫《がれき》で埋まっていた。その地点で部隊は三つに分かれた。右手の山道へ歩兵が入った。装備は、自動小銃、重機関銃、迫撃砲、対戦車ロケット砲。左手の山道を、装甲車や自走無反動砲が連なって登った。戦車はなかった。後方支援部隊は破壊されたトンネルの手まえにとどまった。  大子市は久慈川上流の山峡の小さな温泉街を中心に発達してきた。中世までは奥州に属した交通の要所で、市の中央を、国道118号線が南北に、国道461号線が東西につらぬいている。長い間、さびれた過疎の街だったが、内乱の時代をむかえて様相が一変した。ドラッグ、略奪された富、食糧、軍事物資が行き交う交通の要衝として、ふたたび脚光をあびはじめていた。  加賀見部隊は西から大子市の横腹を突くように攻撃をくわえた。  それと呼応して、北から侵入を試みた武装集団は、〈郡山《こおりやま》連隊〉を名乗っていた。兵員二百人弱。司令官は元陸軍東北方面軍特科連隊の少尉である。  日没まで、砲声と銃声と爆弾の炸裂《さくれつ》音が、山峡の空気をふるわせつづけた。大半は陣地からの砲撃に終始した。少年兵は炊事の準備と弾薬の補給に追われた。  大子市はかんたんには陥《お》ちなかった。加賀見部隊は、山腹の敵の陣地を一つ一つ陥落させながら、じりじりと前進した。四日目、国道118号線の手まえに達したが、そこで北側の山の敵陣から猛砲撃をあびて戦線が膠着《こうちやく》した。  二日間激しい砲撃の応酬があると一日休む、そんな状態がつづいた。海人は毎日食事や弾薬を最前線に運んだ。敵から奪った陣地の周辺で、放置された死体をたくさん見た。少年兵も外国人もいた。金髪の白人、アフリカ系、東南アジア系、マルコに似た風貌《ふうぼう》の男の子の死体もあった。     14  五月、暖かい風が吹くある日の未明、装甲車を先頭に歩兵が進撃を開始し、反撃をうけることなく国道118号線に出て北上した。街の中心部で銃声と爆弾の破裂音がひびいた。寝返った外国人部隊が、防衛軍の本隊を攻撃したのである。  久慈川の東側にそって、国道118号線が走り、川の西側に市の中心街がある。いくつか渡された橋はすべて無傷だった。外国人部隊の奇襲をうけて、橋の両端に敵の死体がころがっていた。  加賀見部隊は戦闘部隊を二手に分けた。第1中隊はそのまま北上し、第2中隊が久慈川橋から中心街へ進攻した。  郡山連隊も北から突入した。砲弾が炸裂し、建物が燃えあがった。家財道具を積んだ住民の車の列が国道461号線を西へ向かった。防衛軍の指揮系統が崩れ、兵士の一部も避難民にまぎれて逃げ出した。それを、寝返った外国人部隊が追撃した。  激しい戦闘がつづいた。午後二時すぎ、旧高校校舎に立てこもる防衛軍の一部隊が降伏して大子市が陥落すると、いっせいに略奪がはじまった。  占領区の区分けは事前に決めてあった。郡山連隊は警察署以北、外国人部隊は国道461号線以南、加賀見部隊はそれ以外の市の中心部を占領地とした。だが街のいたるところで三者がにらみ合い、小規模な戦闘がひんぱつした。  日没直後、少年兵小隊は補給部隊とともに町の中心街に入った。  略奪は一週間つづいた。その間に、故買屋、奴隷商人、地下銀行の出先機関が到着した。略奪品や奴隷はただちに換金され、地下銀行をつうじてどこかへ送金された。十数台のトラックで娼婦が運ばれてくると、こんどは、ばかさわぎが一週間つづいた。  海人は、防衛軍の幹部が街灯に吊《つ》るされるのを見た。人肉が焼ける臭いを嗅《か》いだ。外国人部隊を率いるロシア人司令官の、憎しみと虚《うつ》ろさが同居する奇妙な視線に出合って、ふるえあがった。夜も昼も女の悲鳴を聞いた。大勢の若い女と子供が、奴隷商人のトラックで連れ去られるのを見送った。  毎晩、嫌な夢にうなされた。その一方で、自分が見たものを、かならず恵と隆に話してやらねばならない、と海人は思った。常陸港近辺の狭い地域で暮らしていては、なかなか気づかない世界の真実というものがある。そして、彼を理不尽に巻きこんだように、世界の真実が、いつの日か妹と弟を巻きこむ恐れがある。 「もっとけいかいして、いきていかなくちゃならない」  二人にそう伝える必要がある、と海人は強く思った。     15  死者は弔われなかった。埋められる、焼かれる、川に流される、そういうことすらなかった。部隊の宿営地や戦争商人相手の臨時バザールをひらく場所から、邪魔だという理由で片づけられることはあっても、死者は基本的に放置された。  腐敗臭が街をおおいつくしたころ、連合軍はつぎの獲物をもとめて国道461号線を西へ向かった。  加賀見部隊、郡山連隊、外国人部隊は、それぞれ大子市で徴兵をおこなった。降伏した防衛軍の兵士もくわえ、総兵員数はおよそ八百人にふくれあがった。加賀見部隊の少年兵小隊は八個分隊に増えた。通常の二個小隊の兵員数だが、頬に深い裂傷のある男が、引きつづき小隊長として少年兵百人を統率した。  国道ぞいの集落から住民が全員逃げ出していた。出発して二時間ほどで馬頭《ばとう》市に着いた。わずかな数の老人と重病人とたくさんの猫がいるだけで、街はほとんどゴーストタウンだった。  連合軍は、しばらくの間、馬頭市に宿営した。到着した日から古参兵も新兵も軍事訓練にとり組んだ。食糧は豊富だった。兵士は朝から晩まで肉体を鍛え、満足な食事と睡眠をとった。  海人は銃の扱いをほぼ完璧《かんぺき》におぼえた。射撃の腕もあがった。炊事や洗濯をすばしこくこなして、根本食堂ではたらいていたときと同じように、補給部隊の兵士たちから重宝がられた。休憩時間にトラックの運転を教えてもらい、それもすぐにおぼえた。  二週間がすぎても部隊は動かなかった。ある日、第4分隊の十歳の男の子が消えていることに気づいて、海人はなにか知らないかとマルコに訊いてみた。 「わすれろ」とマルコは言った。 「どうして」海人は言った。  屈託のない海人の顔に、マルコは、ほんの短い時間、いぶかしげな視線をそそいだ。 「じじょうがわかってないようだな」 「じじょうってなに?」 「おんなをつんだトラックがこないだろ」 「ああ、こないね」 「へいたいを、うえさせてるんだ。がまんできなくなったやつがでたってことだ。しれいかんはいろんなてをつかう。こんかいはおんなをあたえない。もうすぐせんそうがはじまるぞ」  その二日後、連合軍は装甲車を先頭に出発した。東の空にまだ星が瞬いている時刻だった。いったん北上して那珂《なか》川を渡った。橋のたもと、ふたつの国道が交差する地点、その二ヵ所にべつの武装集団の検問所があった。どちらも、なにごともなく通過した。武装集団には通行料を支払ってあった。連合軍はスピードをあげて国道294号線を南下し、宇都宮軍の支配下にある烏山《からすやま》市に進攻した。     16  前方から迫撃砲の攻撃をうけた。火力で圧倒する連合軍は、まっすぐ進撃して市の中心街に突入した。乗り捨てた車がいたるところで道路を封鎖していた。周囲の建物から狙撃《そげき》された。対戦車ロケット砲の直撃をうけて装甲車が炎上した。激しい市街戦になった。連合軍は建物を一つ一つ占拠しつつ前進した。  復旧工事中のJR烏山線の起点駅は宇都宮駅である。烏山駅のすぐ北を、鉄道とそうように県道が走っている。県道を西南へ、およそ三十キロメートルいくと、北関東における東北方面軍最大の根拠地、宇都宮市に到着する。  県道をはさんで戦線が膠着した。加賀見部隊の少年兵はトラックで前線に運ばれた。全員が自動小銃を携帯していた。新兵ははじめての戦闘参加だった。海人のからだが小刻みにふるえ出した。それを悟られないよう、奥歯を噛《か》み締めて腹に力を込めたが、ふるえはいっそうひどくなった。  分隊は県道の北側のレストランの二階に攻撃拠点を築いた。敵が撃ってくると、マルコをのぞく全員が、床に伏せて頭を抱えた。 「うちかえせ!」マルコが怒鳴った。  海人は壊れた窓から自動小銃をでたらめに撃った。大子市で徴用された男の子が、しゃがみこんでおしっこをもらした。壁をつらぬいた銃弾がその子の背骨を撃ち砕いた。  正午近く、マルコのトランシーバーに「撃ち方やめ」の連絡が入ったとき、部屋のすみに少年兵四人の死体がよせられていた。交渉がはじまったのだとマルコが言った。少年兵は食糧をなにも持たされていなかった。マルコがレストラン一階の裏口から出ていき、八人分のコンバット・レーション(野戦食)を持ち帰った。  極度の緊張と脱力感が入り混じる静かな午後がすぎていった。交渉がどういう進展を見せているのか、まったくわからないまま、日暮れとともに戦闘が再開した。深夜までにさらに三人の死者が出て、分隊は五人になった。  海人は微妙な変化に気づいた。潮が引くように、ゆっくりと時間をかけて、銃声が遠のいていった。代わりに、言葉では表現しにくい、騒然とした雰囲気が伝わってきた。  唐突に北の方角で砲声が聞こえた。ついで西の方角で。あっという間に砲声が近づいた。砲弾の炸裂音が連続してレストランをゆるがした。上空から機銃掃射の音が鳴りひびいた。これまでと質が異なる戦闘がはじまった。マルコが崩れた屋根へよじ登った。なにか叫んだが、旋回する攻撃ヘリの爆音にかき消された。  分隊はなにも知らされていなかったが、宇都宮軍の支援部隊が、戦車と攻撃ヘリを使って、西と北の二方向から大攻勢をかけてきた。恐ろしい砲弾の嵐にさらされた。誰も撃ち返さなかった。  副隊長の十五歳の男の子が、壁に向かって、わけのわからない言葉をつぶやきはじめた。その子の右手が自分の性器をにぎりしめて、激しくしごくのを、海人は見た。顔をそむけた。はじめて見る光景だったが、なにをしているのか本能的にわかった。すでに腐敗をはじめている死体、焦げた建材の化学合成物質、人間の血と汗、火薬、半壊したレストランの二階に充満するさまざまな臭いに、その異臭が入り混じった。  分隊が最前線に送りこまれたことが、皮肉にも幸いした。宇都宮軍の支援部隊は、味方を誤爆するのを恐れて、県道にそった帯状の地帯を、注意深くさけて攻撃した。未明に静寂がおとずれたとき、精神状態はともかく、五人の少年兵が生き残っていた。  マルコが屋根に登って叫んだ。 「やつらがにげていくぞ!」 「だれが」海人は訊《き》いた。 「おれたちのぶたいが」  海人も屋根によじ登った。二キロメートル北の橋を、軍用車の列が東へ猛スピードで渡っていくのが見えた。宇都宮軍の攻撃ヘリが追撃した。閃光《せんこう》が走り、一瞬、真昼のように明るくなった。橋の手まえと、向こう側で、砲弾が炸裂《さくれつ》して、鉄片や土砂の巨大な煙を空へ噴きあげた。 「おれたちをみすてたんだ」海人は言った。 「いつものことさ」マルコが落ち着いた声で言った。  マルコと海人は床に降りた。マルコがポケットから汚れたハンカチを出して、自動小銃の先に縛りつけた。 「どうするの」海人は訊いた。 「こうふくする」マルコが言った。 「こうふくしたら、どうなるの?」 「たぶん、こんどはうつのみやぐんのへいたいになる」 「おれはいやだ」海人は首を横に激しく振った。 「しぬのがいやなら、おれのいうとおりにしろ。じゅうみんにつかまったら、かくじつにころされるぞ」 「いもうととおとうとがまってる。おれはいえにかえる」海人は強い口調で言った。  マルコがハンカチを下げた自動小銃を窓から突き出した。 「にげるならじゅうはすてていけ。そのほうがあんぜんだ。もしつかまったら、へいたいじゃないといいはるんだ」  マルコの言うとおりだと思った。海人は自動小銃を床においた。シャツとパンツのポケットをひっくり返して銃弾をぜんぶ捨てた。決断に迷いはなかった。長い間、この機会がくるのを待っていたのだ。残りの三人の少年兵は、なにも考えられない顔つきで、しゃがみこんでいた。 「マルコ、いろいろありがとう」海人は言った。 「はやくいけ」マルコが外をうかがいながら言った。  海人は靴音を消して階段を降りた。     17  夜が明けたばかりの街で、宇都宮軍による掃討がはじまっていた。銃声、ロケット弾の炸裂音、装甲車が走りまわる音が、北と西から迫ってくる。海人は路地から路地へ飛び移った。メインストリートを轟音《ごうおん》をあげて装甲車が通過するのが見えた。海人は眼のまえの垣根の隙間へすばやくからだをもぐりこませた。  古い平屋の民家だった。狭い庭先に砲弾がえぐった穴があき、玄関の一部が破壊され、窓ガラスがぜんぶ吹き飛ばされている。背後で銃声が鳴りひびいた。海人は反射的に頭を抱えこむと玄関に駆けこんだ。  洋風の応接間は荒らされていた。物音に神経を集中させて廊下をすすんだ。居間に死体が二つあった。老夫婦のようだった。廊下の突きあたりのドアから、増築された部屋に入った。キッチンとダイニングテーブルがある。そこも荒らされていた。部屋を横切り、つぎのドアをあけた海人は、一瞬おどろいて足をすくませた。  三方の壁に本棚をめぐらし、頑丈そうな大きなデスクとベッドがあった。その部屋から、大人の女を、二人の子供が担ぎ出そうとしていた。 「なにしてるんだ」海人は声を低めて訊いた。 「ママを隠すの」一人の子が言った。 「手伝ってよ」もう一人の子が言った。  二人ともショートカットヘアの女の子で、同じ背丈で、顔がそっくりだった。海人には自分と同じぐらいの歳に見えた。 「なんでかくすの?」海人は訊いた。 「兵隊が死体にひどいことするから」女の子の一人がこたえた。 「はやく手を貸してよ」もう一人が言った。 「そんなひまない。もうへいたいがくる」海人は言った。  双子の女の子は、海人の忠告を無視して母親を部屋の奥へ運んだ。夏のワンピースを着た、ほっそりしたからだつきの母親は、頭から流れた大量の血で顔と首を汚していた。海人は先に奥へ走っていき、半びらきになったドアをあけた。双子がうんうん言いながら母親を運び入れた。  子供部屋だった。部屋の中央のフローリングが、畳半分の大きさに区切られて、ドアのようにひらいていた。そのスペースへ、双子の一人が降りると、頭がすっぽり隠れた。その子が腕をのばして、母親の足をつかんだとき、頭が割れるような銃声がひびいた。海人は、がばっとからだを伏せた。三人の子供と死体の上に照明器具の破片や壁の漆喰《しつくい》のかけらが降りそそいだ。 「動くな!」男の声が聞こえた。  壊れた窓から兵士が一人入ってきて、自動小銃を突きつけた。海人はそろそろとからだを起こして頭の横に両手をあげた。兵士が充血した眼でにらみつけた。無精ひげを生やし、おそらく疲労と恐怖のせいで青ざめた彼の顔には、なぜかひどい脱力感が感じられて、海人にアパートの大家を思い出させた。 「どこの部隊だ」兵士が銃口を海人に向けて訊いた。 「へいたいじゃありません」海人はふるえる声でこたえた。  兵士は近づいて、床下の穴をのぞきこみ、それから、二人の女の子、海人の順に鋭い視線をめぐらした。おれの言葉を信じてないな、と海人は思った。烏山市へ進攻した部隊の少年兵だと見破ったにちがいない。恐ろしい沈黙がつづいた。 「さっさとなかへ入れ」兵士が投げやりな口調で言った。  双子の女の子と母親が床下に消えた。兵士の銃口にうながされて、海人もつづいた。床下の地面に深さ一メートルほどの塹壕《ざんごう》が掘られていた。幅も同じぐらいだった。奥行は五メートルぐらいで、出入り口以外は、地表に鉄板をならべてあった。双子は母親を横たえると、その場にしゃがみこんだ。兵士の靴音はすぐ頭の上から遠ざかった。  正午までにべつの兵士が四回、家に踏み込んできたが、床下の塹壕には気づかずに出ていった。  三人は、嵐がとおりすぎるのを待つ間、ときおり小声でおしゃべりをした。双子の女の子は、海人より一つ歳上で、月田桜子《つきたさくらこ》と椿子《つばきこ》という名前だった。海人には、どちらがどちらなのか、ぜんぜん区別がつかなかった。 「へやでしんでるのはだれ?」海人は訊いた。 「おじいちゃんとおばあちゃん」月田姉妹の一人が言った。 「おとうさんは?」 「ママが九年まえに追い出した」もう一人が言った。 「それは宇都宮の家の話」 「あたしたちはママの実家にもどってきたんだ」 「じゃあ、五にんでくらしてたんだね」海人は言った。  月田姉妹は小さくうなずくと、口をつぐんで顔を伏せた。涙ぐんでいるように見えたが、どちらも声をもらさなかった。 「ママにお洋服を着せたのは、あたしたちなんだよ」月田姉妹の一人が言った。 「意味がわかる?」もう一人がワンピースの上から母親の脚をさすりながら訊いた。 「だいたいね」海人は言った。 「カイトは兵隊なのか」 「ちがう」 「正直に言えよ」 「いいたくない」 「じゃあおまえは兵隊だ」 「ママたちを殺した軍隊の兵隊だろ」 「おれはだれもころしてない」海人はいそいで首を横に振った。 「嘘つき」 「ほんとだ」  海人は、レストランの二階で恐怖にふるえながら、どんなふうに自動小銃を撃ったかを、身ぶりをまじえて、けんめいに説明した。 「まあ、いいさ。おまえを恨んでもしょうがない」月田姉妹の一人が大人びた口調で言った。 「どこからきたんだ」もう一人が訊いた。  海人は、常陸市で二ヵ月まえに武装集団に拉致《らち》されたこと、自分と妹と弟の三人の暮らし、両親のそれぞれの運命、それから家に帰る強い意思を、月田姉妹に問われるままに話した。  塹壕の奥に缶詰や携帯食やミネラルウォーターがたっぷりあった。すすめられた海人は、一度遠慮して、それから素直にうけとった。三人は音を立てないように、口のなかでクッキーやチョコレートを溶かして食べた。トイレは塹壕から這《は》い出て、ひどく窮屈な姿勢ですませた。  午後も、兵士がつぎつぎと家に侵入したが、すぐに出ていき、やがて夜になった。危険なことはなにも起きなかった。あの顔色の悪い兵士に助けられたのだ、と海人は思った。 「おじいちゃんとおばあちゃんを、ここへ連れてくる」月田姉妹が声をそろえて言った。  小さな懐中電灯を点《つ》けて、月田姉妹が塹壕から出ていった。海人もつづいた。苦労して大人の死体を二つ運びこんだ。おじいちゃん、彼女たちのママ、おばあちゃんの順にならべた。それぞれの手に、キャンディとチョコレートの包みをにぎらせ、血まみれのシーツを首の下までかけた。三人は合掌した。 「おれはそろそろいくよ」海人は言った。 「あたしたちも出ていく」月田姉妹の一人が言った。 「カイトの家族が住んでる街へいく」もう一人が言った。 「どうして」海人はびっくりして訊いた。 「カイトの話を聞くかぎり、ここよりは確実に安全だと思う」 「でっかい港がある。海外に脱出するチャンスがあるかもしれない」 「おとうさんがいるじゃないか。そこへいけよ。ぜったいそのほうがいい」海人は言った。「残念でした」月田姉妹の一人が憎たらしそうに言った。 「あたしたち彼にはぜんぜん関心がないの」もう一人が言った。  月田姉妹が食糧をデイパック二つにつめた。海人は、つめきれない食糧をもらって、ポケットに入れた。  怖くて暑苦しい夜だった。  月田姉妹が抜け道を知っていた。三人は裸足《はだし》になると、両手に靴を持って闇から闇へ伝い歩き、誰にも見とがめられずに、那珂川の河川敷に出た。     18  海人を先頭に、三人は漆黒の河川敷を下流に向かって歩いた。浅瀬を見つけ、東岸に渡った。堤防の斜面から烏山市の方角をながめると、街の一部が燃えて、夜空を赤く染めていた。  軍隊や人の気配に注意をはらいながら、まっ暗で石だらけの道なき道をすすむのは、忍耐を強いる行軍だった。距離をたいして稼げないうちに、初夏の太陽がぐんぐん昇りはじめた。 「カイト、もうだめ。休もうよ」月田姉妹の一人が情けない声で言った。 「あたしたち書斎派だから脚力がなくてね」もう一人が言った。  烏山市のあたりから黒煙が昇っているのが、まだ確認できる地点だった。 「じゃあ、あそこできゅうけいしよう」海人は前方を指さした。  深い茅《かや》の原までいき、なかをつらぬく小道をはずれてどんどん分け入り、株と株の間にからだを横たえた。ミネラルウォーターをまわし飲みすると、ばたばたと三人とも寝入った。  海人の頭のなかで、大きな川といえば久慈川だけだった。歩いてきた川が那珂川という名前であり、その東側を久慈川が流れ、二つの川は曲がりくねりながら最後は太平洋へそそいでいることを、彼は知らなかった。月田姉妹の知識と方向感覚の助けがなければ、彼はいまごろ道に迷って、悲惨な運命をむかえていたかもしれない。  内乱がはじまるまえに、月田姉妹は、おじいちゃんとおばあちゃんとママの五人で、大洗《おおあらい》海岸までドライブしたことがあるという。水戸市に入る手まえを常磐自動車道が走っていたから、那珂川を下って高架の道路に出合ったら、左折して、こんどはその道路にそって歩いていけば、久慈川に出て、それを渡ると海人の家族が待つ常陸市に着くはずだ、と月田姉妹は言った。  彼女たちのおおざっぱな計算では、二日ないし三日かかるという。海人は歩くのはぜんぜん苦痛ではなかった。少年兵として従軍した二ヵ月を思えば、三日間はわずかな日数だ。それでもいますぐ、どこかの家で電話を借りて、無事でいること、明日か明後日《あさつて》には家に着くことを、恵と隆に知らせたかった。大家の女房の携帯電話の番号はわかっている。内乱でインフラが破壊されて、市内でも電話が通じないことがたびたびあるが、安全な地帯に着いたら電話をかけてみるつもりだった。 「カイト起きて!」  太陽は真上に昇っていた。月田姉妹の一人が海人の両肩をつかんでゆすぶった。 「桜子が襲われた!」  海人は弾《はじ》かれるように起きて、ぼんやりした頭をぶるぶる振った。 「おしっこにいって、それから顔を洗ってもどってくるときに兵隊につかまったの。あたしだけ逃げてきた」椿子が息を切らせて言った。  群生する茅の向こうで人が唸《うな》る声が聞こえた。海人は手ごろな石をつかむと、声がする方角へ分け入った。 「兵隊は一人だと思うけど、わかんない」椿子がついてきながら小声で言った。  茅の間から男の黒いTシャツの背中が見えた。腰のベルトに弾薬ポーチ。男のからだの下に桜子が押さえこまれている。海人は迷わずに突進して、石をつかんだ右手を振りあげた。足音に気づいた男が海人の方へ首をねじった。ひげを黒々と生やした顔のなかで、充血した眼が見ひらいた。  海人は肘《ひじ》を使って右腕をしならせた。男の額に石が衝突した。石の重量は、重すぎず、軽すぎず、海人の腕力に適合していた。まともに当てれば、一発で致命的な傷を負わせることができたかもしれない。だが海人には殺意がいちじるしく欠如していた。殺すまいとして、彼は目標物のはるか手まえで力を抜いた。それでもかなりの衝撃はあった。鈍い音がして、男の額が縦にぱくりと割れた。鮮血を噴き散らしながら、男は恐ろしい形相で腰から拳銃《けんじゆう》を抜いた。椿子が悲鳴をあげた。海人は視界のすみに自動小銃をとらえた。茅の株の根もとに寝かせたそれに飛びついた。M16だった。海人は、M16、AK、89式も自在に扱うことができた。男は脳しんとうで上体をふらつかせ、でたらめに拳銃を撃った。海人はハンドルを引き下げて初弾を薬室に送りこんだ。一連の動きはなめらかで無駄がなかった。M16をかまえ、親指でセーフティをはずし、弾丸を男の胸に連続して命中させた。  男がどおと倒れると、その下から桜子が這い出てきた。顔も服も泥にまみれていた。桜子は、膝《ひざ》まで脱がされたパンツをいそいで引きあげ、海人に礼を言った。 「カイト、ありがとう」  海人はM16をかまえて周囲に鋭い視線をめぐらした。 「ほかに兵隊は」海人は訊《き》いた。 「こいつ一人だよ」  烏山市の戦場から逃げ出した敗残兵だなと思った。男の左腕は不自然にねじ曲がって、背中の下にはさまれていた。割れた額と胸からまだ血が噴き出しているのを、海人は見た。この男は生き返らないだろうと思った。ふいに悲しみが胸にせりあがってきて、海人は泣き出した。M16を放り捨て、地面に膝をつき、大声で慟哭《どうこく》するように泣いた。 「カイト、泣くなよ、おまえは正しいことをしたんだ」椿子が言った。  桜子が海人をそっと抱いた。海人は彼女の肩に額をつけて、おうおうと泣いた。 「はやくこの場所を離れた方がいい」桜子が海人の背中をさすった。  桜子の言葉を理解した海人は、顔を空へ向け、しゃくりあげながら、ふらふらと歩き出した。 「ちょっと待って」椿子が言った。  月田姉妹が男の衣服をまさぐって現金と拳銃と弾薬を奪った。 「これはカイトが持ってて」桜子が追いついて拳銃を海人の手ににぎらせた。 「いやだ」海人は邪険に腕を振って拒否した。 「銃の扱いがうまいじゃないか」椿子が言った。 「いやだ。おれはひとをころしたくない」 「ねえ、カイト、お願い、これであたしたちを守って」桜子がまた拳銃をにぎらせようとした。  しばらく押し問答があった。けっきょく海人は拳銃を所持することに同意した。家に着くまで、まだなにが起きるかわからないのだ。 「じゃあ、やくそくしてくれ」海人は泣きはらした赤い眼を手の甲でこすって言った。 「なんでも約束する」月田姉妹が声をそろえて言った。 「いまあったことをだれにもしゃべらない」 「わかった。誰にもしゃべらない」 「メグとリュウにはぜったいしゃべらない」 「ぜったいしゃべらない」月田姉妹が励ますように力強く言った。     19  胸が息苦しいほど高鳴り、よろこびで足がもつれた。六十五日ぶりの帰還だった。敗残兵を殺した翌々日の午前十一時すこしまえ、海人は月田姉妹を連れて、懐かしい路地に小走りで入った。昨日、JR水郡線の上菅谷《かみすがや》駅からかけた電話が通じて、海人が無事に家に向かっていることを、全員が知っているはずだった。 「ただいま」海人はいつものように快活な声で言った。  だが大家の店は板と垂木《たるき》で封鎖されていた。母屋のはずれから庭に入った。軽トラックはない。大家の女房は得意先をまわっている時刻だ。海人は妹と弟の名前を叫びつづけながら、廃材をでたらめに打ちつけたような、だがなににも替えがたい我が家に突進した。恵がばたばた音を立てて出てきた。二人は抱き合って大声で泣いた。恵が泣くのを海人が見るのは、母親が帰ってこなかった内乱二年目の夏の日以来だった。 「リュウを呼んでくる」恵が泣きはらした眼を光らせて言った。 「どこにいるの?」 「学校よ。カイト、ちゃんとここにいて。ぜったいどこにもいかないで」恵はそう言い残して駆け出した。  月田姉妹を家のなかへ案内した。粗末な部屋を見た彼女たちは、同時に、うひゃっと奇妙な声を出し、すぐに、居心地がよさそうじゃないのと言いそえた。部屋は蒸し暑いので、アパートの日陰に入って、恵と隆の帰りを待つことにした。 「おまえの妹、すごく可愛いね」月田姉妹の一人が言った。 「おまえよりぜったいに賢そう」もう一人が言った。 「でもメグはきびしい」海人は言った。  月田姉妹がくすくす笑った。途中なんども衣服を着たまま那珂川で水浴びをしたので、どちらが桜子でどちらが椿子なのか、また判別ができなくなっていた。  数人の元教師が、大みか町の民家を借りてほそぼそと運営している学校まで、早足で往復三十分はかかる。恵は隆を連れて十九分ちょうどで帰ってきた。三人は家のまえで抱き合い、泣きながら、しゃべりたいことを早口で勝手にしゃべり合った。 「おれは、いっかいも、くいもんにもんくいわなかった」隆が言った。 「おばちゃん家賃とらなかった」恵が言った。 「メグはがっこうへいかなかったんだぜ」隆が言った。 「どうして」海人は訊いた。 「残飯あつめたり、支援物資をもらうのにならんだりして、すっごくいそがしかったの。明日からちゃんといく」恵がこたえた。 「ごめん、おれがわるかった」  海人は妹と弟にすまない思いで、いっそう声をふるわせて泣いたが、ふいに走り出した。 「どこいくの?」恵がびっくりして訊いた。 「根本食堂!」  海人はどんどん走っていった。路地をめぐり、六十五日まえの早朝、草色の幌《ほろ》付きのトラックがとまっていた地点を通過した。坂道を駆け降りて歓楽街に入った。  根本食堂は昼飯をとる人で混雑しはじめていた。海人の顔を認めると、根本は自分から近づいて海人を抱きとめ、店の外へ連れ出した。海人は、まず突然姿を消したことを詫《わ》び、それから巻き込まれた経緯と事情を話した。 「新しい子が入ったんだ」根本が言った。「そいつも、そいつの家族も、食っていかなくちゃならない。おまえには悪いが、そいつを追い出すことはできない」 「よくわかります」海人は言った。 「おれの店はたいして儲《もう》けがない。だから子供を雇ってる。三人の子を四人に増やしたら、おれの家族の生活も苦しくなる」  根本は退職金代わりだと言って、おカネをすこしくれた。海人は一度断り、二度目にうけとって、これまで世話になった礼を心から伝えて、根本食堂から去った。  煙草売りの元締めの事務所へいき、事情を話して、また仕事をさせてほしいと頼んだ。こっちの方はすぐ話がまとまった。だが煙草売りだけでは家賃を払えない。  海人は歓楽街をふらふらと歩いた。鈍く光る瓦《かわら》をのせた本格的な和風建築のまえにきた。看板をぼんやりながめた。〈すし・バー〉とある。その下に数ヵ国語で文字。建物からモーターの唸る音が聞こえる。海人はポーチにあがってなかをのぞいた。数人の内装職人がはたらいていた。大工の棟梁《とうりよう》の姿を捜したが見つからなかった。  このままでは家に帰ることはできない。海人はまた歩き出した。彼が不在の間、恵が残飯をもらっていたレストランへいき、礼を言い、仕事はありませんかと訊いた。だめだった。歓楽街の店を一軒一軒まわって仕事を捜した。どこも反応は似たようなものだった。 「よかったじゃないか。仕事が見つかるといいね」人々はそんなことを言った。  いくつかの店で残飯をもらった。それを担いで家に帰ったとき、路地は薄暗くなっていた。 「心配したじゃないの。またどこかへ連れていかれたんじゃないかって思うじゃないの。帰ってきた日ぐらいゆっくりすればいいじゃないの」恵が怖い眼で言った。  隆は家のすみで、月田姉妹にプロレスの関節技を決められて泣いていた。姉妹をまだ紹介してないことに気づいて、海人が事情を話そうとすると、恵が言った。 「だいたい話は聞いた。彼女たちはカイトの命のおんじん。あたしたちの大切なお客さまよ」  恵が石油コンロを持って共同炊事場へいき、夕食の準備をはじめた。大家の女房が大きな皿に山盛りの天ぷらを持ってきた。 「おばちゃん、ただいま」  海人が、家賃を溜《た》めたことを詫び、経緯をしゃべり出すと、大家の女房はにこにこ笑いながらさえぎった。 「カイト、落ち着いたら、話をぜんぶ聞かせてもらうね」  海人は月田姉妹を大家の女房に紹介して、一晩泊める許可をもらった。明日、彼女たちをNGOの事務所へ連れていき、身分証明書を発行してもらうという話もした。それで彼女たちの生活がどうにかなる保証はまったくなかった。月田姉妹の事情に関して、大家の女房は分別ある大人の態度をとった。つまりその話に立ち入らなかった。 「今夜は、おばちゃんの天ぷらを食べて、たっぷり眠るんだよ」とだけ言った。  大家の女房が母屋の方へもどっていった。 「二週間まえに、大家が強盗に入られたって聞いた?」月田姉妹の一人が言った。 「知らない」海人はびっくりして言った。 「店番の亭主が拳銃《けんじゆう》で撃たれて入院してる」もう一人が言った。 「はんにんはガキのグループ。おじちゃんをバンてうって、カネとセッケンとジュースをかっぱらった」隆が言った。  海人は言葉を失った。大家の女房の表情が、どこか疲れているように見えたのはそのせいだと思った。  雑炊と天ぷらの夕食がはじまった。天ぷらは野菜のほかに蒲鉾《かまぼこ》と鰯《いわし》と海老《えび》もあった。月田姉妹は、うまいうまいと言って食べた。雑炊のお代わりもしたので、これには恵がよろこんだ。  海人も腹いっぱい食べた。ふとめまいがした。ばたんと倒れると、意識が遠のいていった。  翌朝、恵が海人の代わりに月田姉妹をNGOの事務所へ連れていった。彼女たちが出ていくときも、意識はもうろうとしていた。恵は帰ってくると、大家の女房から体温計を借りた。微熱だった。 「さくらこと、つばきこは?」海人は訊いた。 「NGOの人にいろいろ相談してる」恵が言った。  海人は起きようとしたが、力がぜんぜん入らず、頭を数秒間持ちあげているのが精一杯だった。ときおり水を飲むだけで、なん日も眠りつづけた。月田姉妹は顔を見せなかった。五日目の朝、がばっと起きて、靴をはこうとして、また倒れこんだ。恵が、スープをさらに薄めたような雑炊をつくってくれた。回復のさせ方を、大家の女房から教わったのだと恵は言った。三日間かけて、スープを濃くしていき、もとの食事にもどした。 「桜子と椿子をNGOに連れていって、もどってきて掃除してたら、これを見つけたの」恵が言った。  ハンカチにくるんだ四角い形のものだった。海人はあけた。手帳を破いた紙と、米ドル紙幣の束が出てきた。那珂川の茅の原で殺した兵士のカネだと思った。月田姉妹が三等分しようと言い、海人はうけとることを拒否したのだ。  紙にはきれいな筆跡で、難しい文字が書いてあった。 〈一宿一飯の恩義忘れじ難き候〉 「なんていみ?」海人は訊《き》いた。 「学校の先生にきいてみたの。もちろんおカネの話はしないでね。一晩泊めて食事をふるまってくれたご恩は忘れません、というような意味だって。わかる?」恵が言った。 「だいたいね」 「すごいおカネよ。どうする?」  武装勢力の兵士は、略奪品を現金化するとすぐ、戦場の地下銀行をつうじて家族に送金したり、自分の秘密口座に振りこむ。その残りのカネだから、ふつうのアパートの部屋を借りれば、一、二ヵ月で消えてしまう額である。だが、恵や海人たちにとっては大金だった。  海人は迷いのない口調で言った。 「ためたやちんをはらおう。おれのしごとがすぐみつからなければ、そのなかからやちんをはらおう。しかたないよ。のこりは、てをつけないで、メグがもってる。さくらことつばきこが、こまるときがくるかもしれないから」  恵はしばらく考えて、しっかりした声で言った。 「カイトが言うとおりにしよう」 「とにかくたすかった」 「でもあの子たちへん」 「うん、へんなとこある」 「一宿一飯のおんぎって、ばくち打ちの言葉なの」 「ふうん」  恵の口から拳銃の話は出なかった。恵に見つかるとまずいので、家に着くまえに月田姉妹のデイパックに隠したのだが、彼女たちはそのまま拳銃を持っていったらしい。  月田姉妹の消息はとだえた。NGOの人に訊いてみたが、彼女たちはこの街に住みついたのか、どこかへ流れていったのか、なにもわからなかった。     20  大家が店番中に撃たれた事件は未解決のまま放置された。  犯人は一見して路上生活者とわかる身なりの、小学生ぐらいの男の子二人組で、店先にあらわれると無言でいきなり二発撃ったという。弾丸は大家の左肺と肝臓の一部を引きちぎって背中へ抜けた。奪われたのは、わずかな売り上げと、男の子二人のポケットにつめ込めるだけの、ガム、チョコレート、石鹸《せつけん》、缶ジュース、そんな類《たぐ》いの商品だった。  その事件が人々の心におよぼした影響の深刻さを、海人は、日が経つにつれ、身にしみて感じるようになった。  大家の息子はショックで学校へいかなくなった。街へ出るのも店に近づくのも怖れて、母屋のいちばん奥にある祖父母の部屋に閉じこもった。  恵も隆も、兄の突然の失踪《しつそう》につづく強盗傷害事件の発生にひどくおびえた。海人が不在の間、隆は恵につきそわれてどうにか学校にかよった。恵はかならずアパートの住人といっしょに川に洗濯に出かけるようにした。それでも安全とはほど遠い環境であり、海人が帰ってきたからといって、その環境が劇的に好転するわけではない。  すでにじゅうぶんに傷ついている恵と隆に、この街の外に広がるもっと惨《むご》い、強盗傷害事件とは比較にならない、地獄のような世界について伝えねばならないのは、辛《つら》いことだった。海人は、煙草売りと仕事捜しの日々の合間に、すこしずつ、慎重に言葉をえらんで、自分が経験したことを話した。恵はいつも胸に手をそえて聞き入り、隆はその話になるとなぜか正座をした。  意図してふれなかったエピソードもたくさんあった。たとえば、林檎《りんご》の木に縛りつけた死体への突撃訓練、トラック二台分の娼婦《しようふ》の群れ、大子市で夜も昼も聞こえていた女の悲鳴、第4分隊の消えた男の子、烏山市のレストランの二階であったことのほとんどぜんぶ、それから那珂川の茅《かや》の原での敗残兵殺し。  海人は市の北のはずれの方まで歩きまわったが、七月に入っても仕事は見つからなかった。大家はいったん退院したのち、十数日後、傷口が化膿《かのう》したために、また病院に担ぎ込まれた。  ある日の夕方、煙草売りの元締めの事務所で精算をすませ、歓楽街をとぼとぼと歩いていると、すし・バーのドアがひらき、黒っぽいスーツを着てネクタイを締めた男が出てきた。 「やあ」男が言った。 「だいこんのおじちゃん」海人は言った。 「イカと大根のおじちゃんだ」男は破顔して、いくらか外国|訛《なまり》のある日本語で言った。 「ひさしぶりです」  男はなにかを思い出そうとする眼差《まなざ》しになった。 「メグは元気か」男が訊いた。 「げんきです」海人は言った。 「そりゃあよかった。おまえの話はいろんな店で聞いてる。たいへんだったな。仕事は見つかったか?」 「まだです」 「煙草といっしょにマリファナを売るってのはどうだ。いくらでも卸してやるぞ」 「おれにみつばいしろっていうんですか?」 「嫌なのか」 「いやですよ」 「メグに叱られるから?」 「メグにしかられます」  男はのけぞって笑った。それから真顔になると、海人の肩に手をおき、しばらく沈黙した。 「どんな仕事が得意だ」男が訊いた。  海人は根本食堂でこなしていた仕事の一つ一つを数えあげた。外は暑いからなかへ入ろう、と男が言った。二人は裏口からすし・バーの事務所に入って、冷房の吹き出し口の下に椅子を二つならべた。大工の棟梁《とうりよう》はいまどうしているのかと海人は訊いた。男の紹介で極東シベリア共和国のサハリンに渡り、日本の伝統建築の高級レストランを、現地の職人を指導しながらつくっているという。それから本題に入った。海人は、加賀見部隊でおぼえた銃器の手入れの話を詳細に語った。 「マフィアの暗殺部隊に入れ。準備班で使える。俺がすいせんしてやる」男が言った。 「だめです」海人は強い口調でさえぎった。 「ジョークだ」  男は笑って立ちあがると、掃除用具のロッカーをあけて、バケツと雑巾《ぞうきん》とブラシとスプレー式の容器に入った洗剤を、海人に持たせた。 「おまえがどれくらい仕事ができるか見せてみろ」  店のトイレは男女に分かれていた。海人は紳士用トイレの便器の掃除にとりかかった。液体洗剤を、要所に適量、吹きつけた。ブラシで、死角になっている場所もていねいに、すばやく洗った。つぎに水に濡《ぬ》らした雑巾を固く絞って汚れをふきとった。最後に乾いた雑巾で陶器と金属のパイプをぴかぴかに磨きあげた。 「すばらしい」男が腕時計に眼をやって言った。 「みずもせんざいもむだにつかってません」海人はちょっと誇らしげに言った。 「あとはおまえの考えしだいだ」 「かんがえって?」 「俺の店のトイレ掃除はまかせてもいい。それだけじゃ稼ぎが足りないだろ。ほかの店のトイレ掃除も請け負うんだ。やってみなくちゃわからないが、閉店時間にズレがあるから、けっこう稼げるかもしれない」 「ああ、わかります」 「信用してもらいながら、すこしずつ便器の数を増やしていく。時間はかかるが、それがビジネスの本来の姿だ。どうだ」 「すばらしいかんがえだとおもいます」 「明日の、朝五時に、事務所にこい。まず俺の店の便器からはじめろ」  歓楽街のイルミネーションが輝きを増す美しい時間帯だった。浜風が涼しげに吹きぬける街を、海人は駆け足で家に帰った。  庭にとめた軽トラックの陰で、大家の女房が煙草を吸っていた。 「おばちゃん、ただいま。しごとがなんとかなりそうです」  海人は、笹の絵柄が浮き彫りになっている名刺を見せた。〈すし・バー『碧《みどり》』 総支配人ファン・ヴァレンティン〉とある。 「なに人だい?」大家の女房が訊いた。 「かおは、だいたい、にほんじんです」 「シベリアの方の少数民族かね」 「わかんないけど、すごくしんせつなひとです」  海人は、ファンとの出会いと再会の場面を話した。女房は愉《たの》しそうに耳をかたむけた。 「就職祝いしてあげる」女房が言った。 「いえ、けっこうです」海人は断った。 「遠慮するなよ」 「なにもいりません」 「デイトしようか」 「はあ」海人はまぬけな声を出した。 「カイトは秘密守れる?」 「ひみつって?」 「だっておばちゃん人妻なんだよ」  大家の女房は煙草の煙を海人の顔に吹きかけた。     21 「イカとだいこんのおじちゃんに、ばったりあったんだ。まえにはなしたろ、だいくのとうりょうといっしょにいたひとだよ」  海人は大家の女房に教えられたとおりに説明した——その男はすし・バーを経営しており、トイレ掃除をまかされた。仕事は明日の朝の五時からだが、ほかの店を紹介してもらうので、夕食がすんだら、もう一度男と会わねばならない——ファン・ヴァレンティンのしゃれた名刺も見せた。  海人の報告に恵と隆は歓声をあげた。薄闇のなかで雑炊を食べているときに、恵がふと納得がいかない顔つきになるのを、海人は見た。だがけっきょく、恵の口から疑念が表明されることはなかった。  食事がおわると、恵は、大家の女房が予想したとおりのことを言った。 「お店を紹介してもらうんだから、シャワーをあびてきて。服もぜんぶ着がえなくちゃだめよ」  加賀見部隊に拉致《らち》されてから、一度もシャワーをあびていなかった。海人はいつもよりたんねんにからだを洗った。着替えて、シャワールームの鍵《かぎ》を大家の女房に返しにいった。なぜか彼女は、いつもとちがって不機嫌な顔で鍵をうけとった。  夜の街へ出た。意識せずとも足の運びはのろかった。いくらか膝《ひざ》がふるえた。大家の女房から詳しい説明はなかった。デイトの内容に想像がついたわけではなく、それを秘密にせよと彼女が厳命し、恵と隆に嘘をついたことが、海人に緊張を強いた。歓楽街の方へ坂道を下っていると、背後から荷台に保冷庫をとりつけた軽トラックが近づいてきた。海人は助手席にすばやく乗った。すべてが打ち合わせどおりにすすんだ。  軽トラックは歓楽街を北へ抜けると、左折して山の方角へ向かった。大家の女房が髪を束ねたゴム紐《ひも》をはずした。運転席の窓から吹き込む風が彼女の髪を首に巻きつかせた。どちらもしばらくの間、口をきかなかった。海人はそっと彼女の横顔を見た。眉《まゆ》も眼も吊《つ》りあがって、怒っているような表情だった。 「水があるよ」女房が助手席の足もとを顎《あご》の先で示した。 「あ、はい」海人はひどく喉《のど》が渇いているのに気づいた。  海人の足の間におかれた布製の手提げ袋から、五百ミリリットルのペットボトルが二つ、のぞいていた。一本をとり、喉を湿らせるていどの量の水を、口にふくんだ。 「おばちゃん、スカートなんてめずらしいね」海人は言った。 「デイトだからさ」女房が、それまでの怖い顔つきを崩して、ちらと微笑みを投げた。  彼女は、木綿の、カジュアルな、灰色の夏のワンピースを着ていた。 「どこいくの」海人は訊《き》いた。 「怖い?」 「こわくないよ」  軽トラックは丘陵地帯の住宅街を抜け、高速道路の高架の下をくぐり、細い山道を登りつめた。森のなかへバックで突っ込み、しばらく走ってとまった。女房はトラックから降りて、保冷庫の後部の両びらきのドアを全開にした。助手席から布製の手提げ袋を持ち出し、二人は荷台にならんで腰をかけた。ほら、と彼女が指さした方角に、港と歓楽街の明かりが、宝石を散らしたように輝いていた。 「きれいだろ」女房が言った。 「うん、きれい」海人は言った。 「べとべとに溶けちゃってるけど、チョコレート食べる?」女房が手提げ袋に手を入れた。 「おれ、みずもらいます」  二人はそれぞれペットボトルを手に水を飲んだ。海の方から心地好い夜風が吹きよせていた。女房のワンピースのスカートが、風をはらんでぱたぱたと音を立て、両方の膝がむき出しになった。きゃっ、と彼女が短い悲鳴をあげた。思わず眼をそむけた海人の脳裏を、青い月の光に照らされた彼女の膝の白さがよぎり、その残像に心を奪われていると、肩をぽんと突かれて背後へ倒れた。彼は生まれつき反射神経がよく、軍事訓練中に急斜面を転げ落ちても決して頭を打たなかった。だがそのときの彼は、無防備だったという以上に、心のすみで彼女に押し倒されるのを望んでいたのかもしれない。海人の後頭部が保冷庫の床の鉄板に衝突して鈍い音を立てた。 「ごめん」  女房はそう言ったあとで、声をあげて短く笑った。それからまた怖い顔つきになり、からだを起こそうとする海人を押しもどすと、底のすり減ったスニーカー、パンツ、トランクス、胸ポケットつきの半袖《はんそで》の開襟シャツを、つぎつぎと脱がせて保冷庫の奥へ投げ捨てた。海人は全裸にされた。彼女は自分も黒いスニーカーを脱ぎ、海人のかたわらに膝を崩して尻《しり》をついた。 「戦争にいったから、もう女は経験してるんだろうね」女房が海の方角へ視線をそらして訊いた。 「まだです」海人は言った。 「嘘」 「ほんとです」  女房が首をねじり、上から海人の顔をのぞき込んだ。頬を両手ではさみつけた。それから指先を、唇、首すじへと這《は》わせていき、胸を手のひらで押さえた。 「自分でしたことはあるんだろ?」女房が訊いた。  海人は素直にうなずいた。戦争から帰ってきて、彼は自分で慰めることを経験したのだ。海人の視線のなかで、女房の右手が胸から腹へと下がっていき、五本の指がそれをにぎりしめた。海人はそっと息を吐き出した。 「悪い女」女房が言った。 「だれが」海人は訊いた。 「あたし」 「どうして」 「だって犯罪なんだよ。大人が十三歳の男の子にこういうことをしちゃいけないの」 「おばちゃんはちっともわるくない」  月の光を背にうけて、女房の顔は薄暗かったが、口もとに笑みがうかんだのがわかった。 「そのおばちゃんていうのやめてくれないかな。ぜんぜん気分が出ない。ちょっとさ、名前を呼んでみて」女房が言った。 「たけうちさん」海人は言った。 「竹内里里菜さん」 「たけうちりりなさん」  女房はのけぞって笑った。 「やっぱりへん。里里菜さんだなんて」 「どこがへんなの?」 「おばちゃんは魚屋だよ。日焼けして、まっ黒で、染みだらけで、毎日魚の腸《はらわた》つかんで、魚の生臭い臭いをぷんぷんさせてる女だよ。それが里里菜さん。どう考えたってへんだろ」 「そんなことない。おばちゃんはびじんだ」 「うれしい」女房が破顔した。  海人の言葉は的はずれではなかった。かくべつの美人というわけではないが、感情豊かで生気あふれる彼女の顔は、しょっちゅう街の男の視線を引きよせる。 「キスする?」女房が言った。 「うん」海人は言った。  女房が上体をかがめて、海人の顔におおいかぶさった。女のやわらかな唇のはじめての感触を、海人は自分の唇でうけとめた。短く、くり返し、唇を吸われる音が保冷庫のなかにひびいた。海人の裸の脚のつけ根で、まだしっかりにぎっている彼女の手が、リズミカルに動きはじめた。海人の口から甘い吐息がもれた。彼女の顔が離れていき、手提げ袋のなかをまさぐるあわただしい物音がつづいた。海人の性器になにかがかぶせられた。スカートをたくしあげながら、彼女が海人のからだをまたぎ、腰の位置をゆっくりとさげた。灰色の木綿のスカートのなかで、海人の性器は、まだふれたことも見たこともない密《ひそ》かな場所へ、なめらかに導かれた。そこはほどよい温かさと湿り気があった。腰から上をまっすぐに立てた姿勢のまま、彼女がそっと体重をかけると、海人の性器は根元まであますところなくおさまった。 「誰にもしゃべっちゃだめだよ」彼女が強い口調で言った。 「うん」  彼女はゆるりと腰をグラインドさせた。 「どうなの」 「いい」 「気持ちいい?」 「きもちいい」 「今夜だけだよ。もう二度としないからね。したくなっても、カイトは我慢しなくちゃだめ」 「わかった」  彼女の指がワンピースの胸のボタンにかかった。あらわにされていく白い胸を、海人は息をひそめて見つめた。彼女がワンピースを肩から脱ぎ、ブラもはずして、上半身をさらした。 「これ以上はぜったい脱がないからね」彼女は怒った声で言った。  海人は言葉の返しようがないので黙っていた。彼女が上体を倒して海人の頭の両脇に手をついた。首をのばせばとどく位置で、彼女の双つの乳房が重く垂れた。 「乱暴に扱っちゃだめだよ」彼女が言った。  海人は両腕をのばして、下からささえるように手のひらで包みこんだ。想像していたとおりの、やわらかさとたしかな量感があった。夕暮れの庭にしゃがんで煙草を吸う、彼女の襟元から垣間見えたものが、いま現実に自分の手のなかにあるのだということが、海人には信じられなかった。 「名前を呼んで」彼女が言った。 「りりなさん」海人は言った。  彼女は腰のグラインドに上下動をまじえた。 「おばちゃんて言ってみて」 「おばちゃん」  彼女はふいに動きをとめ、海人を見下ろして、微笑みをうかべた。彼女自身について考えているような、短い沈黙があった。 「やっぱり名前にしよう」彼女が言った。 「どうして」海人は訊いた。 「おばちゃんの方がなんかイヤらしい」 「よくわかんない」 「いいからあたしの名前を呼んで」 「りりなさん」  彼女の腰は上下動に専念した。吐息のリズムが速まり、辛《つら》そうな声がかすかに混じりはじめた。海人は上体を引き起こされて彼女と向き合った。顔のまえで乳房がゆれた。海人は左右の乳首を交互に口にふくんだ。 「魚臭くない?」彼女がおもしろがる口調で訊いた。 「ぜんぜん」海人は生真面目にこたえた。  彼女は海人を胸に抱きしめると、動きに激しさをくわえた。息苦しくなった海人は乳房から顔をあげた。名前をくり返し呼べと彼女が言った。海人はそうした。彼の性器が彼女の内部で、なにかを泡立たせ、奇妙な音をリズミカルに刻んだ。それが彼女の発する辛そうな声と共鳴した。十三歳の海人に耐えられるはずもなかった。 「でちゃった」海人は大罪を犯した人の声で言った。  姦淫《かんいん》がなされた夜から十一日後の、七月二十四日、ひたち総合病院外科病棟のナースステーション脇の床に敷かれた薄汚いマットの上で、大家が死んだ。享年三十六。死因は肺炎だった。 [#改ページ]   第3章 海人、おまえは闘う家長だ     22  海人が戦争と女性を初体験した年の夏のおわりに、内乱のせいで中断していた常陸港の浚渫《しゆんせつ》や埠頭《ふとう》の拡張をふくむ整備工事が再開され、仕事をもとめる国内難民が流入して人口が急増した。 「いったい誰がカネを出してるんだろうね」と竹内里里菜は港の大規模な整備工事をいぶかった。  国庫は空っぽである。そもそも政府は、アメリカ軍が支援する〈国内最大の武装勢力〉と言った方が実態に近い。内乱突入時の首相と天皇家はすでにロンドン生活が長い。権力を掌握した軍事評議会は、憲法を廃止して、議長令と武力による強権政治をおこなっていた。軍事評議会の国際的な信用はゼロに等しい。そんな政権に政府開発援助などありえない。地下資源に乏しく、天然ガスのパイプラインの通り道でもない日本に、国際的な石油会社が先行投資するはずがない。となると、港の整備工事をはじめたのは、いったいなに者か。  海人の問いにこたえて、ファン・ヴァレンティンが言った。 「立案、資金調達、工事の受注、ぜんぶ俺たちが仕切った。東京の政府とヤンキーには話をつけてある。資金はドラッグでなんとか回収できる。これは未来への投資でもあるんだ」 「みらいへのとうし?」海人は訊《き》いた。 「イカれた日本人もいつか眼をさます」ファンが確信にみちた声で言った。 「そうなればいいですね」 「そうなれば、自動車、エレクトロニクス、研磨だの金型だのといった特殊技術、そういう分野は世界トップクラスの地位をとりもどせる。もちろんずいぶん気の長い話で、でかいリターンがあるころには、俺はインポテンツのじいさんに、カイトは腹の出たおやじになっちまうかもしれない。だけど、この内乱のさなかに投資できるような冒険心を持ってなくちゃ、真のビジネスマンとは言えない。わかるな、未来の大富豪」     23  海人が十五歳になって間もない応化十年九月下旬のある日、常陸港から連隊規模の政府軍兵士が戦車や装甲車とともに上陸した。海人は噂を聞きつけて整備工事が完了した第六埠頭へいき、よく訓練された重装備の兵士が行軍するのを見物した。戦車隊のトランスポートが眼のまえを通過しているとき、海人は肩をぽんと叩《たた》かれて、背後へ頭をめぐらした。 「どうしてたの?」海人の声は、おどろきとうれしさで裏返った。 「カイト、元気そうじゃないか」月田姉妹の一人が言った。 「ずいぶん男まえになったな」もう一人が言った。  月田姉妹の消息がとだえて一年と数ヵ月が経っていた。姉妹の一人が手のひらで自分の頭と海人の頭の位置を比較した。海人の眼線の高さに彼女の頭のてっぺんがあった。 「背がのびたな」彼女が言った。 「筋肉もついてる」もう一人がシャツの上から海人の胸をさわった。 「どっちがさくらこで、どっちがつばきこなの?」海人はくすぐったくて肩をくねらせながら訊いた。  彼女たちは、背丈もほっそりしたからだつきも同じだった。男の子のように短かった髪は、二人とも、肩に軽くふれる長さにのばして、栗色に染めていた。小さなピアス、淡いブルーのブラウス、その上にかけた薄いショールのような白いカーディガン、ブラウスと同系色の細身のパンツ、灰色にブルーのラインが入ったスニーカー、身につけているものも同じだった。 「桜子」右側が言った。 「椿子」左側が言った。 「メグとリュウはどうしてる」桜子が訊いた。 「げんきだよ」海人はこたえた。 「天ぷらごちそうしてくれたおばちゃんは」椿子が訊いた。 「げんき。でもね、ほら、けんじゅうでうたれたおおやさんは、死んじゃったんだ」 「ああ、人間てやつはころっと死ぬから、しょうがないよ」桜子がため息まじりの声で言った。 「生きてる間はたのしくやらなきゃ」椿子が陽気な声で言った。 「ほんとだ」海人はおうじた。  三人は見物人の群れから離れた。政府軍の行進はまだつづいていた。海人は、月田姉妹に問われるままに、現在の暮らしを話した。  昼間はときどき工事現場で運搬や片づけをする。きょうも寄せ場にいったが、仕事が見つからなかった。深夜から朝にかけては、歓楽街の二十一軒の店と契約して、トイレ掃除を請け負っている。その仕事をはじめるにあたって世話になった、ファン・ヴァレンティンというロシアマフィアの幹部が、海人たちの母親の情報を、いわき市のマフィアや売春業者をつうじてあつめてやると約束してくれたが、いまのところ手がかりはない。恵と隆は風邪も引かず、二人とも学校の成績がいい。海人は最近、恵に読み書きと算数を習いはじめたが、疲れているのと、もともと頭が悪いせいで、なかなか先へすすめない。 「でもメグは、どういうわけか、べんきょうのことでは、おれをしかったりしない」海人は言った。  雑踏にもまれているうちに、また桜子と椿子の区別がつかなくなった。 「メグは厳しいけど優しい」月田姉妹の一人が言った。 「メグは教育者になるといい」もう一人が言った。 「おれんちへいこう。きみたちをつれていけば、メグとリュウがぜったいよろこぶ。すっごいしんぱいしてたんだから」海人は言った。 「うれしい」 「メグとリュウに会いたい」 「じゃあきまりだ」海人は言った。 「でもきょうはだめ」 「どうして」海人はがっかりした声を出した。 「仕事の予約が入ってる」 「なんのしごと?」海人は訊いた。 「人には言えない仕事」 「カイトには口が裂けても言えない」 「ばいしゅん?」海人は言った。  あっさり出たその言葉に、月田姉妹が、そして海人自身も、とまどっているような沈黙が落ちた。海人を彼女たちが両側からはさみ、三人はならんで歩きはじめた。海人は交互に彼女たちを見た。どちらの横顔にも微笑みがうかんでいた。海人の両手の指が、彼女たちの指とからみ合った。三人は、ごく自然に手をつないで、ゆるやかな坂道を昇りはじめた。 「なんでわかった?」右側が訊いた。 「おやのいないおんなのこは、ふつうのやりかたじゃあ、いきていけない」海人は言った。 「頭が悪いかと思ってたよ」左側が言った。 「やっぱりメグの兄きだ」 「お茶する時間はあるから、どっかで話さないか」  久慈川の河口を望む台地の上に、マフィア幹部や武装集団の司令官クラスの家族が住む高級住宅街がある。その地区に建ちならぶ豪邸と高層マンションを、人々は〈内乱御殿〉と呼んでいる。海人は、月田姉妹に連れられて、台地の端にある高級レストラン〈オステリア・レ・ファテ〉に入った。爪先にでかい穴があいた海人のスニーカーが、磨かれたフローリングを叩いてぺたぺた音を立てた。店内をとおり抜け、秋の陽の光がそそぐテラスに出て、テーブル席についた。 「うーっ、きんちょうする!」海人は椅子に腰を降ろすと言った。 「なんで?」月田姉妹が笑いながら声をそろえて訊いた。 「おれ、こんなみせはじめてだし、きたねえかっこしてるから」 「おカネはらえば誰も文句は言わないよ」右側が言った。 「二人ともまだ十五だろ」 「夏で十六歳になったんだよ」左側が言った。 「どっちにしたって、こんなとこでおちゃしていいとしごろじゃないとおもうけど」 「それもカネ次第」右側がこたえた。  黒服の背の高いボーイが優雅な身のこなしであらわれてメニューを見せた。月田姉妹はチョコレートパフェとアイスティーを、海人はコーラを注文した。 「いまどこにすんでるの?」海人はボーイが去ると訊いた。  市の北端の海に近い街の名前を、彼女たちが教えてくれた。二人はそれぞれ携帯電話を持っていた。その番号をメモしてくれた。 「ああ、おもいだした。アメリカのドルをおいてったろ。やちんをためてたんで、すこしつかったけど、ほとんどてをつけないで、メグがちゃんともってる」海人は言った。 「カイト、おまえもメグも、くそ真面目なやつだな、感激しちゃう」右側が言った。 「ぜんぶ使っちゃっていいんだ。あたしたちはおカネいっぱい持ってる」左側が言った。 「こまるときがくるよ」海人は言った。 「そのときは」  月田姉妹は同時に、右手の人差し指を自分のこめかみに突きつけて、眼を閉じた。 「バン」 「バン」  ボーイがチョコレートパフェとアイスティーとコーラを運んできた。三人はしばらく飲んだり食べたりした。 「へいたいからうばったけんじゅうはどうした? まだもってる?」海人は訊いた。 「部屋に隠してある。あれであたしたちは自分たちの身を守ってきたんだ」右側が言った。 「でも外を出歩くときには、あの拳銃《けんじゆう》はちょっとでかすぎる」左側が言った。  月田姉妹は、カーディガンの胸に手をのばした。一ヵ所だけとめたボタンをはずして、カーディガンのまえをひらくと、つぎにブラウスのボタンを上から順番に三つはずした。ブラウスの淡いブルーの生地に重ねられた、より鮮やかなブルーの下着がのぞき、胸の谷間がはっきりと見えた。海人は眉《まゆ》をひそめ、さりげなく周囲へ視線をめぐらした。テラスに人影はなかった。 「お客さんを捜すときはこれくらい露出してる」右側が言った。 「よせてあげて、パッドを入れてる」左側がうれしそうに言った。 「可愛い双子の女の子が声をかけてくるんだ。こっちに一人、こっちにも一人。男の夢だ。そうだろカイト」 「頭にちょっと思いうかべるだけ、百パーセント、男は舞いあがっちゃうね」  月田姉妹はブラウスのボタンをぜんぶはずした。鮮やかなブルーのブラ。透きとおるような薄い皮膚の腹。くびれた細すぎる腰。臍《へそ》のあたりから腸骨にそわせて差しこんだ小型の自動拳銃。彼女たちは海人に見せると、すぐブラウスのボタンをぜんぶとめた。 「よくわからない」海人は慎重に言った。 「昏睡《こんすい》強盗」右側が言った。 「ホテルに入ったら、睡眠薬で眠らせて、財布をかっぱらう」左側が言った。 「最近はこの街ではやらない。双子って目立つからね」 「長距離バスに乗って水戸やいわきまでいく。東京にもいったことがある」 「なんてこった」海人はため息をついた。 「二人でいろいろ話し合ったんだ」右側が言った。 「結論を出した」左側が言った。 「とりあえず適応してみよう」 「適応するためには道を踏みはずさねばならない」 「わるいことをするってこと?」海人は訊《き》いた。 「あたしたちにとって、それはかんたんなことなんだ」右側が言った。 「どうしてかんたんなの?」海人は怒った口調で訊いた。 「おじいちゃん、おばあちゃん、ママが死んだ。失うものはなにもない」左側が言った。 「でもカイトはそういうわけにはいかない。守るべき家族がいる。養ってもいかなくちゃならない。そのうえで労働のモラルを妹や弟に示さねばならない」右側が言った。 「カイト、おまえは闘う家長だ」左側が言った。 「かちょうって?」海人は訊いた。 「メグとリュウの親代わりって意味さ」右側が言った。 「おまえはほんとうの男だ。尊敬してる」左側が言った。  ちっともうれしくなかった。月田姉妹が平然と強盗をはたらいているという事実に、海人は胸を痛めた。彼女たちが交互に、チョコレートパフェをスプーンですくって、海人に食べさせてくれた。それでも気持ちは晴れなかった。店内の方がざわついた。ボーイが数人の男女をテーブルに案内しているところだった。やばい、と月田姉妹の右側が言った。もう一人が、テーブルに紙幣を投げ捨てると、あとは頼むと言った。二人はレストランの庭を横切って植え込みの陰に消えた。海人は、テーブルについた四人の男女へ、ぼんやりした視線を向けた。たぶん、あのなかに、月田姉妹の昏睡強盗の被害者がいるのだろうと思った。     24  海人は庭にとめた軽トラックの陰で竹内里里菜に言った。 「おばちゃん、ふたごのおんなのこ、おぼえてるよね。きょう、みなとで、ばったりあったんだ」  桜子も椿子もすごく元気で、おそろいのきれいな服を着て、口はあいかわらず達者で、市の北端の海辺に住んでいて、やっぱりどっちがどっちなのかすぐわからなくなる、というような話をした。 「二人はどうやって食べてるの」里里菜が訊いた。 「おしえてくれなかった」海人は小さな嘘をついた。 「ふうん」  あの娘たちはろくでもない仕事で食べてるのだろう、と里里菜は察しがついたようである。だが詳細を知ったところで彼女たちを救えるわけではない。そういう無力感を、海人も里里菜も共有していたから、すぐに話題を政府軍の上陸に切り替えた。 「もうすぐ大きな戦争が起きそうな気がする。なんだか嫌だね」里里菜は言った。  二人は、薄闇が迫る庭で、以前と変わらない調子でおしゃべりを愉《たの》しんだ。  青い月が煌々《こうこう》と輝いていたあの夜、軽トラックの荷台の上で、二人が犯した姦淫《かんいん》の大罪は誰にも明かされなかった。罪が重ねられることもなかった。もちろん海人に、里里菜の灰色のスカートのなかで体験した歓喜の再現を、期待するところがなかったわけではない。それはおおいにあった。だが約束は守らねばならないと海人は心に誓った。あれは、一生のうちに一度あるかないかという、神様がくれた奇跡の時間である、と自分に言い聞かせた。そして彼はどうにか里里菜を断念することに成功してきた。彼女のまえで欲望を口にしたり、欲望のこもる眼差《まなざ》しを彼女に向けたこともなかった。  そんな海人の態度について、里里菜がこんなふうに言ったことがある。 「カイト、おまえにはたしなみがある。感激しちゃう」  里里菜の方も同様だった。亭主が死んだあとも海人を誘わなかった。誘うような気配を見せたこともなかった。  海人の名を呼ぶ隆の声が、里里菜とのおしゃべりを中断させた。海人は我が家に入ると、きょうの午後、月田姉妹とぐうぜん出会った話をした。 「呼んできてくれよ、こんどはぜったいやっつけてやる」隆は両手でこぶしをつくり、ファイティングポーズをとった。  プロレスの関節技で月田姉妹に泣かされたときの屈辱を、隆はよくおぼえていた。彼は九歳になり、この一年と数ヵ月で、骨格が眼に見えてしっかりしてきた。十一歳の恵は、月田姉妹の無事を聞いて素直によろこんだが、それはほんの短い時間だった。 「おばちゃんに先に話したでしょ」恵の声には明らかにトゲがあった。 「うん」海人は警戒して短くこたえた。  時期ははっきりしないが、あるときから、軽トラックの陰で里里菜と愉しそうにおしゃべりすると、恵が不機嫌になることに、海人は気づいた。彼はそっちの方は鈍感なたちなのだが、恵のいらだちは、胸にびしびしと伝わった。 「桜子と椿子はカイトの命の恩人なんだし、おカネの件もあるし、元気でやってるってわかったんなら、まずあたしに話してほしかった」恵は厳しく言った。 「ああそうか、そうだね」海人は言った。 「ねえ、あたしの気持ち伝わった?」 「つたわったよ」 「ほんとかな」 「しんじたくないなら、しんじなければいいさ」海人はちょっと言い返した。 「なに怒ってるのよ」 「べつに」 「けっこう愉しそうだし」 「なにが」 「おばちゃんとおしゃべりするの。カイトの声、やけにはずんでる」 「たのしいよ」 「感じ悪い」 「おばちゃんがいいひとだから、たのしいんだよ。おばちゃんだって、いのちのおんじんじゃないか」海人は強い口調で言った。  恵がめずらしく言葉につまり、ふいに背中を向けると、石油コンロを持って共同炊事場へばたばたと立ち去った。彼女はもどらなかった。隆が様子を見にいき、やべえよ、メグのやつ泣いてる、と報告した。  三人は気まずい雰囲気のなかで雑炊を食べた。いただきます、ごちそうさま、その二言しか言わなかった。海人はボロ毛布にくるまって横になった。恵は食事の片づけをすませると、海人の背中にからだをぴったりよせて寝そべった。 「カイト、ゆるして」恵が耳もとでささやいた。  その一言で、海人は思いがけず涙ぐんだ。戦場から命がけで逃げ帰ってきて、兄妹弟《きようだい》の三人で抱き合って大声で泣いたあの日以来、仕事が見つからなくて途方に暮れたときも、泣いたことはなかった。だが、堪《こら》えても堪えても涙があふれてきて、海人はついに声を押し殺して泣いた。そんな兄の肩を恵が背後からそっと抱いた。 「おまえたちイヤらしい!」隆が部屋のすみで叫んだ。     25  理性の人である恵は、海人が竹内里里菜と庭でおしゃべりを愉しむのをうけ入れたが、感情が反発するのを完全に抑制することはできなかった。恵のいらだちは、ときおりふいに噴火して、海人をあわてさせた。それでも冬の厳しさが本格化するころになると、すくなくとも表面上は、その問題は鎮静化した。  里里菜の義父の痴呆《ちほう》がすすんだ。義母は介護の手を抜けず、路地に面した雑貨店は閉じられたままだった。よき兆候もあった。里里菜の息子が、同学年の恵に誘われて、週に一度か二度、学校へいくようになった。  海人は、工事現場の片づけの仕事で市の北端へいったとき、月田姉妹の家を捜してみたが、見つからなかった。  大人なみの賃金とはいかないが日雇いの仕事がけっこうあった。トイレ掃除の方も順調で、かくだんに収入が増えた。母の消息はいぜんとしてつかめなかったが、半分はあきらめていることなので、とくに落胆はしなかった。里里菜との姦淫の光景がくり返し甘美な白昼夢としてあらわれて、海人を慰めた。ようするに彼が屈託のない日々をすごしていた十二月十九日の夕方、プーシキン通りにできるカジノの基礎工事の日雇い仕事からアパートに帰ると、あるべきところにあるべきものがなかった。  海人は混乱して、一瞬なにも考えられなくなった。アパートの外階段の下にぽっかりと空間ができて、その薄暗がりに、材木の切れ端やボロ布やトタン板が、でたらめに折り重なっている。 「カイト、カイト、こっちよ」  里里菜が呼ぶひそやかな声が耳にとどいた。海人は大家の家の明かりを消した玄関の方をうかがった。すこしひらいたドアから、里里菜が唇に指を一本立てて声を出すなと告げ、もう片方の手で招きよせた。海人は玄関へいった。彼女は首をのばして庭を見わたすと、海人を玄関のなかに入れて、ドアをロックした。 「メグとリュウはなかにいる。靴は持って入って」里里菜が声を低めて言った。  海人は脱いだ靴を手に持ち、彼女のあとについて、廊下をすすんだ。 「五、六人の男がきて壊したの。あたしは見てないけど。メグがぜんぶ知ってる、いろいろ事情があって軍のパトロール隊には電話してない」里里菜が言った。  西側の納戸に恵と隆がいた。二人とも落ち着いている様子だったので、海人はすこし安心した。明かりを点《つ》けず、部屋を暗くしたまま、三人は声をひそめて話をした。  学校帰りに青い大型の乗用車が近づいてきたという。乗っていたのは二十歳前後の四人の男。後部座席の窓が下がると、サングラスの男が顔を出して、きれいな服を買ってあげるから車に乗りなよ、と声をかけた。 「あたしが目的だったの」恵が言った。  その日、里里菜の息子も登校して、三人で帰るところだった。恵の指示で、三人は車の男たちを無視して、さりげなく狭い路地に入った。すると男が二人、車を降りて追いかけてきた。子供たちはいっせいに逃げ出した。男二人はタフでスピードもあった。恵は教科書や辞典の入った重いデイパックを背負っていたこともあって、けっきょくつかまった。里里菜の息子は自分の家へ逃げ帰ったが、隆は姉を助けるためにもどった。  恵は路地から引きずり出された。表通りで青い車が待っていた。メグをはなせ、と隆が叫ぶと、後部座席からサングラスの男が降りてきて、弟かと訊いた。そうだと隆はこたえた。お姉ちゃんに服と靴を買ってあげるだけだよ、すぐに帰してやる、おまえもこれでなにか買え、とサングラスの男が紙幣を出した。隆は隠し持っていたナイフでいきなりそいつの下腹を刺した。 「キンタマをねらった」隆が薄闇のなかで眼を光らせて言った。 「だからおばちゃんはパトロール隊に連絡しなかったの」恵が厳しい声で言った。  海人は小さくうなずいて、話のつづきを聞いた。  恵をつかまえていた二人の男のうちの一人が、隆のナイフを奪おうとした。隆はもぐりこんで、そいつのたぶん左脚の膝《ひざ》の上あたりを刺した。そのすきに恵が男の腕から逃れた。恵と隆は全力で走り出した。迷路のような地区に逃げ込み、よその家の庭を突っ切り、そのさいに恵は邪魔になるデイパックを植え込みのなかへ放り捨て、どうにか無事に帰ってきた。 「振り切ったつもりだったけど、たぶんあとをつけられたんだと思う」恵が暗い声で言った。  恵の推測によれば、連中は、一人が車で二人の怪我人を病院へ運び、残る一人が恵たちを尾行した。そして、家を確認した男は仲間のところへもどり、報復する計画を話し合ったと思われる。  午後四時すこしまえ、恵と隆は自分たちの家にたどり着いた。それからおよそ一時間後、二台の車で男たちがあらわれた。警戒していた恵と隆は、貴重品を入れた布袋を抱えて逃げ出した。男たちは金属バットで我が家をめちゃくちゃに破壊した。 「カイト、ごめん」恵が言った。 「カイト、ごめん」隆も言った。 「あやまるひつようなんてない。リュウ、おまえはよくやった」海人は言った。 「でも家が」恵と隆が声をそろえた。 「たてなおせばいい」海人は強く言った。 「あいつらまた壊しにくるかもしれない」恵が言った。 「そんときはおれがオトシマエつけてやる」隆が言った。 「ナイフまだもってるのか」海人は訊《き》いた。  隆がポケットからナイフを出した。刃の長さは十センチていど。刃先が鋭く、にぎりのしっかりした高級そうなナイフだった。隆の力があれば人を殺せる、と少年兵の戦闘力を知っている海人は思った。 「かっぱらったんじゃない、ひろったんだ」隆は自分の方から言い、すぐにポケットにしまった。  恵の性格からすれば、ナイフを隠し持っていたことをとがめ、とりあげて海人に渡すはずだが、隆になにも言わなかった。里里菜が夜の食事を運んできた。白い飯のおにぎりと油揚と白菜の煮びたしとカボチャの天ぷらだった。 「おばちゃん、おれたちほかにいくばしょがないんで、あそこにまたいえをたてさせてください」海人は言った。 「わざわざお願いするみたいに言うんじゃないの。できたら、おまえたち三人にずっといてもらいたいんだから」里里菜が言った。 「あした、ひやといのしごとはやすんで、いえをたてます」海人は言った。  三人は腹いっぱい食べた。布団を借りて、恵と隆はその部屋で寝た。  海人は深夜、トイレ掃除にでかけた。途中で、恵が民家の庭の植え込みに投げこんだデイパックを拾った。泥で汚れただけで、なかみは無事だった。掃除をする店の順番は決まっていた。ファン・ヴァレンティンの〈碧〉は九番目だった。ファンに事情を話して、対策を相談したかったのだが、大事な客を接待しているというので、その夜はあきらめた。  朝、トイレ掃除をおえ、残飯を担いで帰ると、恵と隆がトタン板や材木の下から荷物を引っ張り出そうとしていた。 「アパートの人には、家を建てなおすので、音がうるさいと思いますが、よろしくお願いしますって言ってあるからね」恵が言った。  石油コンロが無傷で出てきた。恵が朝食の準備をする間に、海人は隆に手伝わせて、建材を種類べつにわけた。クギ抜き付きのハンマーを一つ持っていた。それでまず古クギを抜いた。角材に打ちこまれた太いクギに悪戦苦闘していると、里里菜がバールと折りたたみ式のノコギリを持ってきてくれた。 「自分たちでできるかい?」里里菜が訊いた。 「だいじょうぶです。いろいろしごとしてますから」海人は言った。  事実そのとおりだった。お父さんの遺伝かもしれない、と恵が言ったことがある。海人は、もともと手先が器用だったし、道具の扱いに慣れていた。日ごろから建築物の構造に対する関心もあった。  柱の一本の根もとに近い部分が腐っていた。その部分を切り落として、もう一本の柱を同じ長さに縮めた。片流れの屋根の傾斜がきつくなるが、頭がつかえるほど低くはならないという計算を立てた。  里里菜の息子の朋幸《ともゆき》は、死んだ父親に似て、無口で愛想のないやつだが、昼すぎから手伝ってくれた。ガラスはぜんぶ砕けていた。壊れた桟は補修して、ガラスの代わりに透明のビニール袋を張りつけた。壁板が足りなくなると、見かねた近所の人が廃材の束を庭に放り込んでくれた。抜いた古クギは使えるやつはぜんぶ使い、足りない分を買いにいった。  薄暗くなるまでに、どうにか住める家を完成させた。魚の引き売りから帰ってきた里里菜が、家を見て、朋幸といっしょにぱちぱちと拍手した。  ファン・ヴァレンティンと会えたのは、翌日の夕方だった。カジノの基礎工事の仕事の帰りに〈碧〉の事務所をたずねて、海人はファンに事情を話した。 「リュウがさしたやつらが、ひどいけがをしてたら、またメグがねらわれるんじゃないかっておもうんです」海人は大人びた口調で言った。  ファンが青い車の男四人の人相をたずねた。海人は恵から聞いた特徴を詳しく話した。 「調べてみる」ファンが言った。  歓楽街から家に向かう海人を不安がつかまえた。相談している間、ファンはずっと深刻そうな顔つきで、なにか知っているような感じだった。小雨が降ってきた。海人は走り出した。  我が家はちゃんとそこにあった。恵は共同炊事場にいた。隆は薄暗い部屋のなかで算数の宿題と格闘していた。海人はもうすこしで涙をこぼしそうになった。  煙草を売っていたときは、疲れると、てきとうにからだを休めることができた。工事現場ではそうはいかなかった。朝早い時間にトイレ掃除からもどって、朝食をとり、その一時間後には、港に近い寄せ場へいき、仕事を捜す。運よく仕事が見つかれば、夕方帰宅するころには、ばたんと倒れこみそうなほど疲れている。その日がそうだった。海人は頭がぼうっとしてなにも気づかなかった。 「そとの様子がへん」恵が雑炊を食べているときに押し殺した声で言った。     26  彼らの小さな家の窓枠が打ち砕かれ、裂けた木片が部屋のなかに飛び散るのとほとんど同時に、炎の固まりが放り込まれた。短い垂木《たるき》の先に布を巻きつけ、オイルを染みさせて火を点けた松明《たいまつ》だった。不穏な気配を察した恵の言葉を、頭のすみでぼんやり聞いた海人だが、襲撃がはじまるとすばやく反応した。アパートの外壁の方へ逃げた隆の肘《ひじ》をたぐると、松明を外へ投げ返している恵に告げた。 「リュウをはなすな!」  海人は隆を恵の方へ押しやった。その間もつぎつぎと松明が放り込まれ、ボロ毛布に火が点いた。狭い空間に煙が充満した。外で歓声があがる。緊急時にそなえて貴重品をデイパック一つにつめ込んであった。海人はデイパックを胸に抱えた。 「がっこうでごうりゅうするぞ! こっちだ!」  海人は戸口とは反対側の壁へ体当たりした。自分でぜんぶつくった構造物だから、強度がどのていどのものか、だいたいわかっていた。横に一本渡した細い垂木をへし折り、つぎはぎした板や薄いベニヤの壁を突き破って、海人は外へ転がり出た。恵が隆の手を引いて海人を飛び越え、アパートとブロック塀の間を隣の家の方へ逃げた。  ぶんと空気をふるわせる音がした。走り出した海人の腰を、金属バットの先端がかすめ、地面を激しく打った。いくつもの靴音と怒声があとを追ってきた。隣の家の生垣に子供一人がとおり抜けられる穴がある。海人はすばやくもぐり込んだ。庭の暗がりで恵と隆が待っていた。襲撃した連中は穴を見つけるのにいくらか手間どった。その差が兄妹弟の逃走を助けた。  恵が隆の手を引き、全速力で路地を抜けながら、学校の方角をめざした。海人は最後尾を走った。どこかで消防車のサイレンが唸《うな》りをあげた。住民が消防組織をつくり、マフィアに資金を提供してもらって、気休めていどであるが消防車や防火施設を管理していた。  追いかけてくる靴音が聞こえなくなっても、しばらく走りつづけた。恵と隆が通う学校の近くまできて、三人はようやく足をとめた。海人は背後を振り返った。炎が夜空を照らしているのが遠くに見えた。 「アパートに火が移ったのよ」恵がふるえる声で言った。  おばちゃんの家はだいじょうぶだろうか、と海人は思った。消火活動を手伝うべきだが、連中がまだ現場でうろついている可能性が高い。それに危険な夜の街に恵と隆を残して、海人一人がもどるわけにはいかなかった。  雨が本格的に降り出した。家のなかは外気温と変わらない寒さだったから、彼らは厚着をしていた。だが、靴をはいて逃げる余裕がなく、二枚重ねてはいた靴下は、路面を流れる雨でぐしょ濡《ぬ》れになった。足がどんどん冷えて、切れるような痛みを感じた。  家から遠く離れた市場へいき、月田姉妹からもらったドル紙幣を交換して買い物をした。靴、靴下、着替えの衣服、傘、デイパック。店のトイレで着替えた。三人で食堂に入り、熱い水餃子《すいぎようざ》を食べた。そんな贅沢《ぜいたく》は孤児になって一度もなかったので、家を焼かれてあてのない逃走をはじめたばかりだというのに、三人の表情はつかの間なごみ、口もとから微笑みさえこぼれた。  食堂の電話を借りて月田桜子の携帯電話にかけた。事情を説明して、緊急避難させてもらう了解をえた。三人は傘をさして北へ歩き、警戒心から国道6号線の二つ先のバス停留所までいった。バス停にいると目立つので、すこし離れた建物の陰でバスがくるのを待った。 「リュウ、おまえ、眼がおかしい」恵が隆の傘の端を持ちあげて言った。 「え、なんで?」隆が意味がわからないという顔を向けた。  恵は隆の眼をのぞきこみ、短い時間なにかを考えたが、けっきょくそれで言葉がとぎれた。バスはなかなかこなかった。北西の風が雨を舞わせ、傘をさしていても足もとが濡れ、腰から下が冷え込んできた。 「リュウ、やっぱり眼がおかしい」恵がまた言った。 「へんなこと言うなよ」隆が口をとがらせた。 「おまえ、あいつらのこと憎んでるでしょ」 「ああにくんでるさ、ぶっ殺してやる」  そこでようやく海人も、隆の凍りついたような眼差《まなざ》しに気づいた。 「そんなめをするな」海人は隆を抱きよせた。  満員のバスがきた。自家用車を持てる人はすくない。鉄道の発着は不定期で、いつどこでストップして降ろされるかわからない。そういう時代ではバスが人々を輸送する主役であり、長距離バスの路線も発達していた。  三人は一時間ほどバスにゆられた。市の北端のバス停留所で降りると、月田姉妹が笑顔で待っていた。  漁港を望む丘の上に、いまにも崩れ落ちそうな八階建てのマンションがあった。エレベーターが不安な機械音を立てて上昇した。月田姉妹は最上階の、ドアが三重になった部屋に住んでいた。  家具はほとんどなく、打ちっぱなしのコンクリートの壁は薄汚れていたが、広いLDのほかに三部屋と、バスルームにはバスタブがあった。バスタブに湯をためて、まず恵と隆を入れた。その間に、海人はなにが起きたのかを月田姉妹に詳しく話した。 「おれはようすをみにもどる。けんじゅうをかしてくれないか」海人は言った。  月田姉妹の一人がベレッタM21を持ってきた。海人はうけとると、マガジンを抜き、弾をいったんぜんぶとり出した。各パーツにばらし、錆《さ》びつきを調べながら、歯ブラシとハンカチと薄い石鹸《せつけん》水で、ざっとクリーニングした。組み立て、弾をフル装填《そうてん》して、ベルトに差しこんだ。 「ケータイを一台持っていけよ」月田姉妹の一人が言った。  海人は携帯電話をパンツのヒップポケットに突っ込んで部屋を出た。     27  雨は降りつづいた。バスを長い時間待ち、夜の十一時すぎ、常陸港を望む地区にもどった。  車のヘッドライトに、プレハブのアパートの鉄骨がうかんでいた。海人は警戒しながら近づいた。消火活動はおわったようだった。アパートの住人が、使えるものはないかどうか調べるために、蒸気が立ち昇る焼け跡をうろついていた。隣の家と大家の家は無事だった。海人は庭の軽トラックを見た。フロントガラスが砕け、ボディは黒焦げだった。海人は胸を締めつけられた。そこでふいに背後から腕をとられ、思わず声をあげかかった。 「黙ってついてきて」里里菜が耳もとで言った。  一本の黒い傘の下で、二人は腕を組み、庭を北へ横切ると、母屋の裏へまわった。里里菜は腕を放し、庇《ひさし》の下に入った。 「メグとリュウは」彼女が低い声で訊《き》いた。 「げんきです」海人はこたえた。 「どこにいるの?」 「ふたごのおんなのこのいえ」 「ああ、それなら、よかった」 「おばちゃんのほうは」 「全員無事よ」 「アパートのひとは」 「あの人たちもだいじょうぶ」 「おばちゃん、ごめんなさい」海人は声をつまらせた。 「なんでそんなこと言うの」里里菜が怖い眼で言った。 「けいトラも」海人は泣き出しかねない声で言った。 「おまえのせいじゃないよ。あいつらが火を点《つ》けたんじゃないか」 「アパートのひとたちにも、すまなくって」 「その話はストップ。ね、今夜も仕事にいくの?」里里菜が心配そうに訊いた。  海人はちょっと眉《まゆ》をひそめた。 「ようすがわからないんで、ファンのおじちゃんにそうだんしてみます。せいふぐんはあてにならないし」 「そうね」  海人は月田姉妹の携帯電話の番号を教えた。里里菜は、パンツのポケットから商売で使っているメモ帳とボールペンを出して、番号を書きとめた。それから彼女は庇の下から出て、海人の傘のなかに入った。いまでは海人の方が、こぶし二つ分ほど背が高かった。彼女は両手で海人の頬をはさみつけると、ひょいと背のびして、口づけをした。ぶちゅっと一回だけ。それだけのことだが、海人に勇気を与えた。短く別れの言葉を告げた。彼女が微笑みを返した。海人は母屋の裏から出て、傘で顔を隠しながら、きびきびと庭を突っ切った。     28  ファン・ヴァレンティンは海人の連絡を待っていたようだった。携帯電話にかけると、ファンがすぐ出て、海人がなにか言うまえに、外で会おうと言い、常陸港から国道6号線へ向かう道路ぞいにある、スーパーマーケットのパーキングを指定した。  海人が着いてすぐ、白いステーションワゴンがパーキングに入ってきた。助手席のドアがひらいた。海人は乗りこんだ。 「メグとリュウは」ファンが里里菜と同じように訊いた。  月田姉妹の家に避難させたことを海人は話した。では一安心だ、とファンは言い、車を発進させた。 「メシ食ったか」ファンが訊いた。 「たべました」海人はこたえた。  車は国道6号線へ向かった。 「俺にもどうにもならないことがある。残念だが、今回の件もその一つだ」ファンが言った。 「はい」 「リュウが刺したサングラスの男は、高桑将太《たかくわしようた》って名前で、常陸TCのボスの甥《おい》っ子だ」  その一言で、海人は、自分の家族が巻き込まれた事件の深刻さを理解できた。常陸市を共同管理するマフィア四派連合のうち、最大の組織力を持つのが、日本系マフィアの常陸TC(=トレイディング・カンパニー)だった。  日本の暴力団は基本的に、外国マフィアとの抗争に敗れて、壊滅するか、外国マフィアに下部組織として吸収された。そうした旧暴力団の解体の流れとはべつに、日本系のマフィアがいくつか生まれた。首都圏を拠点に全国に勢力をのばしている東京UF(=ユナイテッド・フロント)もその一つである。常陸TCは、東京UFの北関東における最前線の拠点であり、内乱|勃発《ぼつぱつ》以来、一貫してロシア系マフィア三組織と協調路線をとっていた。 「高桑将太はまだ入院してる」ファンが言った。「腹じゃなくて、股《また》の付け根の筋肉を切られた。死にはしない。キンタマも無事だ。だが、ガキにやられたのがどうにも我慢できないらしい。けちな野郎だ。やつはプーシキン通りで売春クラブを二つまかされてる。兵隊が十人ばかりいて、そいつらに、おまえたち兄妹弟《きようだい》を襲わせた。いまも捜してる。俺の店にもきた」 「ファンおじちゃんのみせにも」海人はびっくりして言った。 「俺とおまえの仲をどこかで耳に入れたんだろう」 「そうか」 「俺のボスが、常陸TCと戦争をはじめると言えば、なんの問題もない。おまえたちをぜったい守ってやる。だが争いはするな、ときつく言われてる。一年先、あるいは半年先は、どうなるかわからない。だがいまのところは常陸市の共同管理が組織の方針だ」 「わかります」 「プーシキン通りにはぜったい近づくな」 「はい」 「トイレ掃除はあきらめろ。契約してる店には俺の方から事情を説明しとく」 「ごめいわくかけます」  海人の股の間になにかが落ちた。輪ゴムでとめたドル紙幣の束と高価な衛星携帯電話だった。 「電話代は俺が払うから、好きなだけ使え」ファンが言った。 「おじちゃん、ごめん」海人は言った。  車は国道6号線を右折して北へ向かった。最終バスが出る時刻はすぎていた。 「双子の家まで送ってやる」 「くるまをとめてください。あるきます」 「ばか言え、双子は川尻《かわじり》に住んでるんだろ」 「あるきます」 「半日かかるぞ」 「だれかにみられるかもしれません。おじちゃんにめいわくかけたくないんです」  ファンは無言でしばらく車を走らせた。それから路肩にとめた。海人は助手席から降りると、ドアに手をかけて言った。 「おれ、どうしてもあいつらを、ゆるせない」  ファンは小さくうなずき、それから海人に微笑みを投げた。 「なにかあったら連絡しろ」 「おじちゃん、ありがとう」  海人はドアを閉めた。ファンの車が走り去った。雨はまだ降っていた。傘をひらき、海人はしっかりした足どりで歩き出した。烏山市から、月田姉妹といっしょに歩いて帰ってきたときのことを考えたら、どうってことない距離だった。それに海人には、血が昇った頭を冷やす時間が必要だった。誰かに、なにかを、胸のうちで重苦しく問いかけながら、歩きつづけ、夜が明けるころに月田姉妹のマンションに着いた。     29  防犯上の理由から、ベランダはなく、すべての窓に鉄格子がはまっていた。月田姉妹のマンションの南に面した二つの部屋の東側を、海人たち兄妹弟は使わせてもらった。  恵は部屋のすみに和菓子の紙箱をおき、その上に、両親の形見と写真と、彼女の宝物である淡いブルーのケース入りの石鹸を飾った。両親の形見は、赤いゲートルの切れ端と口紅のスティックである。写真は三枚あった。一枚はそろいの黄色いアロハシャツを着た両親のツーショット。それから父の粋《いき》な鳶《とび》職人姿。もう一枚は、寒そうな浜辺を背景にした家族五人全員の写真だ。父に抱かれた隆は、たぶん生後五ヵ月前後で、びっくりした眼でレンズを見ている。 「不良少年と不良少女のカップルだな」月田姉妹の一人が両親のツーショットを見て言った。 「カイトとリュウはお母さんそっくり。メグはお父さんそっくり」もう一人が言った。  恵はときおり、両親の写真と形見と自分の宝物のまえにすわって、例の謎の微笑をうかべた。そんなおだやかな時間を、彼女がすごしたのも、ほんの数日間だった。  同居をはじめて四日目、クリスマスイブの日の朝、月田姉妹は仕事にいくと言って出かけ、深夜になっても帰ってこなかった。隆を寝かせつけたあとで、海人と恵は、LDで姉妹の帰りを待った。 「桜子と椿子はどんな仕事をしてるの?」恵がやけに暗い声で訊いた。 「しらない」海人は言った。 「知らないってどういうこと」 「きいても、あいつらおしえてくれない」 「彼女たちの部屋を見た?」 「なんで?」 「おっきな拳銃《けんじゆう》がベッドに」 「ごしんようだろ。しかたないよ」 「嫌らしい下着がいっぱい干してある」恵が眉をひそめて言った。  うかつにも、海人はその言葉に思わずにやっと笑ってしまった。恵はあからさまな軽蔑《けいべつ》の視線を投げかけると、LDから出ていった。翌々日の正午すぎ、月田姉妹がたくさんの紙袋を抱えて帰ってきた。海人、恵、隆の三人それぞれに、新品のオーバーコートや、ブルゾン、セーター、シャツ、パンツ、下着、靴下、スニーカーなどが手渡された。 「クリスマス・プレゼントだよ」月田姉妹が言った。  恵は怖い顔つきでただちに自分の分を姉妹の部屋へ投げ返した。それから走って東側の部屋に入ると、ドアをばたんと閉めた。  海人と隆は月田姉妹に謝った。 「ごめん」海人は言った。 「女はしょうがねえよ、わがままなんだ、かんべんしてくれ」隆が言った。  月田姉妹は微笑みを返した。 「メグの気持ちは痛いほどわかる」姉妹の一人が言った。 「リュウ、ちょっともんでやるからこい」もう一人が手招きした。  月田姉妹は隆を自室に誘うと、一人がフルネルソンを、もう一人が裏返しのヒールホールドを決めた。隆はかんたんにギブアップした。三人はしばらくじゃれ合った。それからダブルベッドで、隆は姉妹にはさまれて昼寝を愉《たの》しんだ。  夕方、恵が厳しい表情で部屋から出てきた。海人と隆は、LDのTVで、東京のキー局が流す不鮮明な画面のアニメを見ていた。 「メグ、そろそろ腹へったな」隆が声をかけた。  恵は返事をせず、兄弟には眼もくれず、月田姉妹の部屋に入ると、ドアを閉めて、長い時間、話し込んだ。隆がドアに耳をあてたが、内容はまったく聞きとれなかった。やがて恵がLDに出てきた。海人と隆は、恵が新品の衣服に着替えているのに気づいた。黒いセーターの上に、明るい灰色の暖かそうなパーカー、ほっそりした脚を強調する黒いスパッツ、紫と黄の縞《しま》の靴下という装いだった。恵は厳しい顔つきを崩さず、夕食の準備をはじめた。海人と隆は声をかけられなかった。  隆が月田姉妹から事情を訊《き》き出そうとしたが無視された。海人はなにもたずねなかった。女の子三人の間でどんな話し合いがあったのか、恵はなぜプレゼントの衣服を着る気になったのか、そういう点はけっきょくわからないまま、応化十年の師走《しわす》の日々があわただしくすぎていった。  プロパンガスをそなえたキッチンで、恵が一日三回、食事をつくった。食材は、海人が帽子とサングラスで変装して、夜の間に、近くの市場で買ってきた。  年内に、ファン・ヴァレンティンが一度、海人の携帯電話にかけてきた。 「高桑将太が必死になっておまえたちを捜してる。寄せ場にはぜったい近づくな。トイレ掃除もするな。残飯あつめもいまは我慢だ。カネが必要なら言え。危険が迫ったらかならず連絡しろ」  竹内里里菜からは数日おきに電話があった。彼女は精力的に生活を立てなおしていた。土地を担保にカネを借りて、すぐ中古の軽トラックを買い、年内に新しいアパートも完成させた。 「おばちゃんはうしろをふりかえらないんだよ」海人はみんなに報告した。 「装甲戦闘車みたい」月田姉妹の一人が言った。 「あんなにセクシーなのに」もう一人が言った。  恵は、厳しい現実を指摘するというよりも、自分たちが里里菜の家族を巻き込んだ事件の悲惨さに胸を痛めている口調で言った。 「でもつぎになにかあれば、おばちゃんはこんどは土地を失う」     30  年が明けた応化十一年一月八日、マンションの大家が部屋の点検にきて、住人が増えたことに気づいた。月田姉妹は、両親を戦争でなくした従兄弟《いとこ》が身をよせているのだと説明した。強欲な大家が部屋代の割り増しを要求し、姉妹との間で激しい口論がはじまった。海人が割って入り、大家と交渉して、家賃をいくらか上乗せすることで手を打った。  恵と隆は家から一歩も出なかった。海人もファンの警告を守り、仕事や残飯をもとめて街をうろつくことはしなかった。必要なときだけ、夜をえらんで買い物にいくほかは部屋にこもり、恵もそれを強く望んだ。  一月中旬、北西の強い風が吹き荒れたある日、五人がLDでお茶を飲んでいると、突然の訪問者があった。隆と女の子三人は部屋に隠れ、海人はベレッタを腰の後ろに差して、インターホンに出た。相手は政府軍だと名乗った。海人は三重のドアをあけた。真新しい軍服を着た二人の政府軍兵士が立っていた。一人は自動小銃を肩に担いで廊下に残った。もう一人が玄関で書類を広げた。 「怖がらなくていい。かんたんな住民調査をしてるんだ。もうすぐ政府もちゃんとした仕事をはじめる。その準備だ。きみたちは全員孤児だね」  マンションの大家から事前に話を聞いているようだった。五人全員の、出生年月日、性別、出生地、現在の生活などを訊かれた。海人は月田姉妹を呼び、NGOが発行した五人の身分証明書を見せ、いくらか作り話をまじえて質問にこたえた。兵士は書類に書き込むと、ごくろうさんと言った。姉妹が慣れた手つきでドル紙幣をつかませた。兵士たちは笑顔で帰った。東側の部屋で、隆が顔面を蒼白《そうはく》にしてナイフをにぎりしめていた。海人は隆に事情を説明してやった。 「でもいつか、かならず、ひたちTCのやつらがくる」隆が言った。 「かくれていれば、もんだいはないよ」海人は安心させる口調でこたえた。 「せいふ軍から、じょうほうがもれるかもしれないじゃないか」 「かのうせいはなくもないけど」 「なあカイト、おまえも男だろ」 「うん、おとこさ」 「やつらに復しゅうしようぜ」隆が言った。  隆の瞳《ひとみ》の奥に燃えあがる廃材の小さな家が見えた。海人は言葉につまり、恵が隆を強く抱きしめた。  その事件で冷や汗を流してから、恵は菓子箱の上の両親の写真と形見と石鹸《せつけん》をデイパックにつめ、いつでも持ち出せるようにした。  生活は切りつめた。それでもドル紙幣は確実に減っていった。悩みはたくさんあった。隆の瞳から消えない憎しみの光。失った収入源の再確保。実現のめどが立たない学校への復学。もっとずっと先の、誰もそんなことを一度も口にしなかったが、将来へのおおいなる不安もあった。  潜伏生活にいずれ終止符を打たねばならない。だが自力で道を切りひらくには、彼らはいかにも幼すぎた。日を重ねるごとに、恵の眼差しが深い悲しみに沈んでいくのが、海人にはわかった。  とはいえ、月田姉妹のマンションでの潜伏生活が、すべて沈鬱《ちんうつ》な日々だったわけではない。ある夜、海人たち三人が布団を敷いて寝ようとすると、姉妹がどかどかと入ってきた。 「リュウのデイパックはどれ?」姉妹の一人が訊いた。  恵がそれを指さすまえに、隆が自分のデイパックに飛びついた。姉妹の一人が隆を羽交い締めにして、もう一人がデイパックを奪うと、ファスナーをあけて、なかみを部屋のなかに放り投げた。鮮やかな色彩のブラやパンティが空中を舞った。海人はげらげら笑った。恵が怒りを込めて隆の頬をひっぱたいた。びしっとすごい音がした。隆は一メートルぐらい背後に飛ばされ、それからあわてて布団の上に正座した。 「変態!」恵は、第二撃をくり出そうと右|肘《ひじ》を高くあげた。 「ごめんなさい!」隆は両腕で顔をガードした。     31  眠れぬ夜に海人はトイレに立ち、用を足して部屋にもどろうとしたところを、月田姉妹の一人にちょっとこないかと誘われた。布団のなかで悶々《もんもん》とするのに疲れたところだった。  海人は彼女たちの部屋に入った。壁ぎわにならべた三個の段ボール箱から衣類があふれていた。MD、ポータブルMDプレイヤー、本、雑誌、缶ジュース、菓子袋、汚れたグラス、なんでも壁にそって積んである。中央にばかでかいダブルベッド。その両脇に同じ六角形のサイドテーブル。姉妹のもう一人がベッドで本を読んでいた。  彼女たちの家での暮らしは、気まぐれに隆とプロレスで遊ぶほかは、おおむね静かなものだった。ゲーム機とゲームソフトはぜんぶ隆にあげてしまった。TVはたまに深夜映画を見るていどだ。ほとんどの時間を、部屋に閉じこもって、ヘッドホンで古い音楽を聴いたり、一冊の本をくり返し読んですごしている。 「寒いだろ、早く入れよ」ベッドにいた姉妹の一人が布団をめくった。  停電がひんぱんにある。金持ちの家は自家発電機をそなえて、エアコンを使う。月田姉妹の稼ぎがあれば、石油ストーブを買えるのだが、彼女たちは灯油が燃える臭いが嫌いで、夜冷えてくると、厚着するか、ベッドにもぐり込む。 「イスをもってくる」  海人はLDにもどり、ダイニングテーブル用の椅子を一つ持ってきて、ベッドの足もとの方において腰をかけた。姉妹の一人がグラスにコーラをそそぎ、それを海人に渡すと、ベッドに入った。彼女たちは、両側のサイドテーブルから、透明の液体が入ったグラスを持ちあげた。 「乾杯」姉妹が言った。 「かんぱい」海人はおうじた。  海人は一口飲んだ。 「おえっ」  姉妹が声をそろえて短く笑った。 「なにいれたんだ」海人はとがめた。 「ウオッカをほんの二、三滴。からだが温《あ》ったまるぞ」姉妹の一人が言った。 「あたしたちはストレートで飲んでる」もう一人がグラスをかかげた。 「すげえ、まじい」海人はグラスのなかをのぞきこんで言った。 「大人の味に慣れなくっちゃ」 「人生の苦さと気高さとまぬけさが、ぜんぶ合わさった、絶妙な味だよ」  海人はもう一口飲んでみた。口のなかと喉《のど》のあたりに不快感が広がったが、我慢できないというほどではない。 「なんのほんよんでるの?」海人は訊いた。 「ウィリアム・ブレイクの詩集」姉妹の一人がこたえた。 「ねむれねむれしあわせな子。ものみな眠ったほほえんだ」もう一人が本に顔をよせて読んだ。 「ねむれねむれしあわせな眠り。おまえをのぞきこみ母さんは泣く」 「ママの本棚から持ってきたんだ」 「からすやまのいえから?」海人は軽くおどろいて言った。 「はるばるとね」姉妹の一人が言った。 「ブレイクは、人間の子供のむくな心に、神のこうりんというヴィジョンを見たんだ」もう一人が言った。 「なにいってるか、わかんない」海人は言った。  海人はグラスを飲みほして、足もとにおいた。そのまま上体がぐらりとかたむき、膝《ひざ》を踏んばろうとしたが力が入らず、ばたんとフローリングに倒れた。薄い膜がかかったような頭のすみで、月田姉妹の笑い声が反響した。 「しんぞうがばくばくする」海人は情けない声を出した。 「ウオッカ入れすぎたみたい」姉妹の一人が言った。 「カイト、ベッドに入れよ」もう一人が言った。  海人はどうにか起きあがると、ベッドに這《は》いあがった。姉妹が離れて中央をあけた。海人はそこへもぐりこんだ。 「カネは残ってるか」姉妹の右側が訊《き》いた。 「まだあるけど、まいにち、へってくばっかり」海人は言った。 「逃げてきて二ヵ月は経つな」左側が言った。 「六十四日」右側が指折り数えて厳密に言った。 「おれ、そろそろしごとをさがすよ」海人は言った。 「どんな仕事」 「こうじげんばのひやとい」海人はこたえた。 「このへんでやるのは危険だぞ。北は県ざかいから南は久慈川まで、常陸TCがうろちょろしてる。やつらが直接、労働者をあつめてる場合もある」右側が言った。 「カイト、引っ越せ。べつの街で仕事を捜すんだ。その方が現実的だ」左側が言った。 「どこへひっこすの?」海人は不安げな声で訊いた。 「東京ならいくらでも仕事がある」右側が言った。 「すくなくとも水戸まで逃げなくちゃ安心できない」左側が言った。  その選択は、海人の頭では非現実的に思われた。加賀見部隊に拉致《らち》された二ヵ月間をのぞけば、常陸市の外に出たことがない。この街には竹内里里菜やファン・ヴァレンティンがいる。信頼できる人たちと離れて暮らすなんて想像できなかった。会話がとぎれた。鉄格子のはまった暗い窓の向こうから海鳴りが聞こえる。胸に重ねた海人の手を、姉妹が両側からつかみ、海人のからだと自分のからだの間に引きずり落とした。 「悪くないだろ」姉妹の右側が海人の手をそっとにぎりしめて言った。 「なにが」海人は訊いた。 「手をつなぐって」姉妹の左側も同じように海人の手をにぎりしめた。 「手の温《ぬく》もりが、からだのすみずみに伝わる」 「気持ちがリラックスする」 「うん」海人は素直におうじた。 「こんな生活がいつまでもつづけばいい」 「こんな生活はいつまでもつづかない」 「メグはいまでもむりやり自分に折り合いをつけてる」 「メグがプレゼントを突っ返したときのことをおぼえてるか」 「おぼえてる」海人は言った。 「なぜ突っ返したと思う?」 「さくらこと、つばきこの、せわになってるから」海人はこたえた。 「それじゃ言葉が足りないな」 「あたしたちが悪を引きうけ、そのおかげで自分たちが安全に暮らしてる、という自覚がメグにはある」 「だからあの子は自己嫌悪にかられるんだ」 「だからあの子はプレゼントをぶちまけたんだ」 「わかってるよ、そんなこと」海人は強く言い返した。  姉妹の右側が言った。 「メグはえらい。ちゃんと謝った。ありがとうって言って、プレゼントをうけとってくれた。あのなかにはブラとか生理用品も入ってたんだ。あの日、生まれてはじめてメグはブラをつけた。カイト、おまえは、妹がブラを必要とする年ごろになったってことに、まったく気づかない」  姉妹の左側が言った。 「カイトは、妹がNGOの事務所でもらった生理用品をくり返し使ってた事実を知らない。責めてるわけじゃない。男の子だものな、女の子のからだに鈍感なのはしょうがない。だけど、そういうこととはべつに、メグとリュウの将来のことも、真剣に考えてやらねばならない」 「あたまがいたいよ」海人はまぶたをぎゅっと閉じて言った。  姉妹の右側がベッドから降りて、ウオッカを一口、飲んだ。それから壁ぎわへいき、乱雑に積み重ねた荷物のなかから、細く巻いたマリファナをとり出した。ゴールドのライターで火を点《つ》け、その場で三回吸いこんで、ベッドにもどってくると、海人の横であぐらをかいた。姉妹の左側が起きあがり、マリファナをうけとって、深々と吸いこんだ。 「一発決めてみるか」右側が言った。 「やだ」海人は顔の上の煙を手で追い払った。 「やだはねえだろ。酒、マリファナ、セックス、いちおう試した方がいい」左側が言った。 「やだやだ」海人はくり返した。  姉妹はにこにこ笑いながら、交互にマリファナを吸った。最後に左側が、短くなったマリファナをグラスのウオッカに浸して、火を消した。 「歯ブラシは歯ブラシだ」姉妹の右側が言った。 「プラグはプラグなんだ」左側が言った。 「きみたち、あたまがばかになってる」海人は言った。  姉妹は笑みを絶やさず、口調の方はいっそう生真面目になって話をつづけた。 「世界は、サンプリングやカットやリミックスの素材であることをやめて、その真実の姿をあらわした」 「あるていど、よゆうで、意味もなくlikeをつけて世界を等価にしてしまうなんてことは、とっくのとおに不可能になった」 「歴史と直面するのを避けることができるかのような、幻想的な方法は、ぜんぶ粉砕されて、宇宙の暗黒へ消えたんだよ」 「人々は、ごまかしのないシステムのもとで、自分の孤独と向き合って生きなければならない。若者とて適応のかたちを変えねばならない」 「なるほど」海人は言った。 「わかったのか?」右側が疑う口ぶりで言った。 「てきおうだろ」海人は言った。 「適応がわかれば、それでじゅうぶんだ」左側が納得する声を出した。 「われわれ戦争孤児の、適応のかたちは、二つに一つだ。自殺するか、さもなくば悪党になるか」右側が言った。 「カイト、おまえはどうするつもりだ。まだメグとリュウに潜伏生活をつづけさせるのか?」左側が言った。 「ひっこせって?」海人は眉《まゆ》をひそめて訊いた。 「危険を回避するにはそれしか方法がないね」 「日雇いの仕事だとかトイレ掃除はもうやめちまえ。あれじゃあ、メグとリュウにちゃんとした教育をうけさせてやれないね」 「どうにかして、みにつくしごとをみつける」海人は言った。 「それはいつ実現する? 百年先の話か? メグとリュウはとっくに死んでるぞ」 「カイトは理解すべきだ。三人が三人とも善人では生きていけない」 「どうすればいいんだ」海人は悩める口調で言った。 「まず引っ越す。そこを拠点に、あたしたちと組んで強盗をやろう」姉妹が声をそろえて言った。  海人はため息をついた。それから静かな、だが厳しい口調で言った。 「ねえ、さくらこ、つばきこ、きみたちはほんとにひどいやつだ」  翌朝、阿武隈《あぶくま》山系の方から風に運ばれてきた粉雪が街に舞った。 「ひっこしさきをさがしにいく」海人は朝食のあとで恵と隆に告げた。  二月下旬、底冷えのする日だった。海人はベレッタM21を腰に差し、緑色のダッフルコートを着込むと、一人で月田姉妹のマンションを出た。     32  JR水戸駅南のターミナルで長距離バスを降り、海人は市街地をぶらついた。常陸市よりもかくだんに大都会で、街角に大勢の兵士と娼婦《しようふ》と路上生活者がたむろしていた。常磐線を北へ越え、政府軍地区から武装勢力地区に入った。水戸市はその二つの軍隊が分割支配していた。  月田姉妹の話によれば、これまで東北南部および北関東では、政府軍は各地の武装勢力が東北方面軍の拠点を攻撃するのを背後から支援してきたが、この数ヵ月、水戸市をふくむいくつかの重要な戦線で、政府軍と武装勢力の緊張関係が高まっているという。  自分の眼で現地を見て、家族が安心して暮らせそうかどうか、すくなくとも目鼻だけはつけようとここまできたのだが、やがて海人は街の景色に関心を失い、ひたすら歩きながら、考えづめに考えた。隆、恵、両親のこと。隆に復讐《ふくしゆう》を誓わせてはいけないと思った。恵を悲しませてはいけない。妹と弟に、安全な家と清潔な生活とちゃんとした教育を、与えなくちゃいけない。  名前も知らない元市役所職員と、焼かれた家と、竹内里里菜のことも思った。戦場の日々、分隊長マルコ、烏山市で命を救ってくれた宇都宮軍の兵士、那珂川の河川敷での敗残兵殺しのことも思った。熱病にうなされている人のように、自分でもよくわからない思考を重ねる海人の頭を、ときおり月田姉妹の言葉がよぎった。 「三人が三人とも善人では生きていけない」  たぶん彼女たちの言うとおりなのだろう。そして、おれは決断を先のばしするために、街をほっつき歩いているのだ。  同じ日の午後遅い時刻、海人はプーシキン通りを歩いていた。  長い長い思考の果てに、ふと気づくとそこにいたという感じだった。まだ家には帰っていなかった。無帽で、サングラスをはずしていた。うっすらと生えた産毛のような口ひげは、この二ヵ月間の彼の精神の混迷のあかしだった。すばやく手を突っ込めるようダッフルコートのまえをはだけ、彼の全神経は、腰の後ろに差したベレッタM21にそそがれていた。  ファン・ヴァレンティンは、常陸TCのボスの甥《おい》、高桑将太がまかされている二つの売春クラブの名前を教えなかった。だが海人はプーシキン通りにある売春クラブをぜんぶ知っていた。アムール、スボータ、ベラ、美国夜總会、リトル・マーメイド、カチューシャ、百万本のバラ。一軒ずつ見てまわっても、たいした数ではない。高桑の顔も知らないが、ベレッタがあればどうにかなる。この街を離れるまえにオトシマエをつけてやる。  海人は背後から腕をとられた。顔なじみの頭がすこしおかしい娼婦だった。小銭をにぎらせて追いはらった。スボータのまえにきた。まだイルミネーションに明かりは灯《とも》っていない。事務所に誰かいるだろうと思い、エントランスの階段に足をのせると、クラクションが一つ鋭く鳴った。  後方から荷台に保冷庫を積んだ軽トラックが走ってきて、ブレーキ音をひびかせた。運転席の窓ガラスが降りた。竹内里里菜が、海人の頭のてっぺんからスニーカーの爪先まで、鋭い視線をさっと流した。それからスボータのエントランスの奥をちらと見た。 「黙って乗って」里里菜は低い声で告げると、助手席のドアをあけた。  言われるままに海人は乗った。ドアを閉め切らないうちに、里里菜がアクセルを踏み込んだ。軽トラックはプーシキン通りを走り抜け、国道245号線に出ると、北へ向かった。 「あと二ヵ所まわらなくちゃならないから、つき合ってちょうだい」里里菜が言った。 「はい」海人は言った。 「あんなとこでなにしてたの?」 「しごとをさがしてました」 「常陸TCと話がついたってこと?」 「まだです」 「カイトの話、ぜんぜん理解できない」里里菜が不機嫌に言った。  国道245号線ぞいの海鮮レストランに、発泡スチロールの箱に氷づめした魚を運びこんだ。軽トラックはさらに北上して、動物公園の先のゴルフ場跡地に設営された政府軍の兵舎へいき、残りの魚をぜんぶ降ろした。南へもどるころ、太陽が沈んだ。里里菜は市場に軽トラックをとめた。二人は腕を組んで露店のならぶ狭い通りを歩いた。足を運ぶにつれて、里里菜の表情がなごみ、裸電球やイルミネーションが輝きを増した。ふいに立ちどまり、里里菜が海人を見あげた。 「そんなに眼つき悪くないね」里里菜が言った。 「わるくみえた?」海人は訊《き》いた。 「スボータのまえで」 「ああ」海人は小さくうなずいた。 「ほんとに仕事を捜してたの?」 「ほんとです」  里里菜はその先へ話をすすめなかった。二人はまた歩き出した。去年の十二月二十一日の夜、家を焼かれて逃げる途中で、海人たちが水餃子《すいぎようざ》を食べた中華食堂のまえをとおった。里里菜がドラッグストアでコンドームを買い、なんだか得意そうにパッケージを海人に見せた。食欲をそそる匂いに誘われて、二人は串《くし》揚げを立ち食いした。その隣の衣料品の露店で、里里菜は、娼婦が使うような下着の山を、いろいろひっかきまわして、ひとそろいの赤い下着をえらんだ。それから彼女は、どういうつもりか安物の金髪のウイッグを買い、頭にかぶったまま、軽トラックに乗った。  海ぞいの松林のなかのモーテルに入った。ばかでかい円形のベッドがある部屋で、里里菜は海人の衣服をさっさと脱がした。拳銃《けんじゆう》と携帯電話が出てきた。 「シャワーをあびてきなさい」里里菜が拳銃には関心のない素振りで言った。  交代でシャワーをあびた。里里菜は、赤い下着に着替えてバスルームから出てくると、頭に金髪のウイッグをのせた。 「どうかな」里里菜が訊いた。 「なんかへん」海人はにやにや笑った。  里里菜は真剣な眼差《まなざ》しで鏡をのぞきこんだ。 「見慣れてないからだよ」  彼女はそう言い切ると、部屋の明かりを落とした。真っ暗になり、なにも見えなくなった。彼女が納得する微妙な明かりに調整されるまで、けっこう時間がかかった。海人はベッドに押し倒された。上になった彼女の、ウイッグがまえにずれて、額と眉を隠した。二人は声をあげて笑った。 「いろいろ事情はあると思うけど、いまは愛し合おうね」彼女が笑みのまま言った。 「おばちゃんが、かまわなければ」海人は言った。 「里里菜さん」彼女が訂正をもとめた。 「りりなさん」 「眼をつぶって」  海人はそうした。眼をあけてもいいと許しが出たときには、海人の性器は彼女のなかに深くおさまっていた。肝心な部分は赤い下着の裾《すそ》に隠れて見えなかった。 「まず一回戦」彼女が陽気な声で言い、ゆるりと腰を使いはじめた。 「りりなさん、いくつ?」海人は訊いた。 「歳をきいてるの?」 「うん」 「三十一歳」 「わかいね」 「若いのか歳くってるのか、もう自分でも、なにがなんだかわからないよ」 「じんせい、いそがしいから」 「カイトは学校いってないのに、なんでもわかってる」 「そんなことない」 「おっぱいほしくないの?」  ほしいと海人は告げた。彼女が下着のストラップを両肩からすべり落とした。 「なんで、でんきをくらくするの?」海人は訊いた。 「恥ずかしいじゃないの」彼女が言った。 「おっぱいはへいき?」  彼女は乳首を海人にふくませると、腰を強くまわした。 「カイトがなにをほしがってるか、だいたいわかるけど、そんなことしたら、あたしはほんとうに悪い女になっちゃう」彼女の声はもう辛《つら》そうだった。  四回戦、五回戦、六回戦、もしかすると七回戦まで闘われたのかもしれぬ、その甘く辛い夜の最後の方で、ようやく彼女のすべてが海人に与えられた。惜しみなく、豪気に、淫《みだ》らに。     33  翌朝、竹内里里菜に軽トラックで送ってもらった。高桑将太への復讐心が鎮静化しているのを、ぼんやりと頭のすみで意識しながら、海人は月田姉妹のマンションに帰った。  恵がドアをあけて出むかえた。 「みとのまちをみてきたよ。ちあんがいいとはいえない。だけど、いまのせいかつをつづけるよりましだとおもう」海人は言った。 「こんなに朝早く、水戸から長距離バスが出てるの?」恵がとがめる口調で訊いた。 「よるおそくひたちについて、ファンのおじちゃんに、いろいろそうだんしてたんだ」海人は用意しておいたストーリーでこたえた。  恵が疑念のこもる眼をちらとくれ、無言で朝食の準備にとりかかった。海人は恵の勘の鋭さにため息をついた。隆が寝ぼけた顔で部屋から出てきて海人に気づいた。 「なんだカイトいたのか」隆が生意気な口調で言った。  タマネギのスープ、ジャガイモのオムレツ、小麦粉を水で練って焼いた薄いパンがテーブルにならんだ。隆が月田姉妹を起こしにいった。  朝食をすませ、全員で後片づけをしていると、海人の携帯電話が鳴った。誰だろうといぶかりながら電話に出ると、里里菜の緊迫した声が耳を打った。 「昨日の深夜、軍事評議会議長令が出たの知ってる?」里里菜が訊いた。 「しりません」海人はこたえた。 「TVで放送したって。きょうの午前零時で、徴兵の年齢制限が十五歳以上に引き下げられたの。わかる?」 「おれもぐんたいに?」 「そう。十五歳から十七歳の子の家に、召集令状がくるらしいけど、この近くの路上生活の子供たちは、けさから政府軍のトラックにどんどん積み込まれてる。魚河岸の帰りに見たのよ。ね、どうしよう」  里里菜はうろたえていた。海人は落ち着かせようとして言った。 「おばちゃん、みんなでそうだんする。なにもしんぱいはいらない」  里里菜との会話はもうすこしつづいた。海人は電話をおえると、みんなに説明した。月田姉妹が、一月中旬の政府軍による住民調査を思い出した。 「あれは徴兵年齢を引き下げるための準備だったんだ」姉妹の一人が罵《ののし》った。 「カネをつかませたんだろ、カイトはだいじょうぶじゃないのか」隆が言った。  南の方角で銃声があがった。全員が窓へ駆けよった。銃声は散発的につづいた。自動小銃による威嚇だなと海人は思った。そこでチャイムが鳴り、インターホンから男の野太い声が聞こえた。 「政府軍だ。佐々木海人がいるだろ」 「兄は仕事に出てます」恵がインターホンに冷静な声で返答した。 「嘘をつくな」 「ほんとです」  兵士がドアをあけろと言った。恵が拒否すると、兵士は書面を読みあげた。議長令により徴兵年齢が引き下げられたこと、保護者のいない者については議長令をただちに執行すること、佐々木海人満十五歳と六ヵ月はそれに該当すること、ただちに政府軍の詰め所に出頭すること、兵役は三年、初任給はいくら、半年に二週間の休暇が与えられること、兵役がおわると、予備役に編入され、有事のさいにはふたたび召集されること、等々をしゃべった。それからドアをどんどんと叩《たた》いた。 「さっさと出てこい! いるのはわかってるんだ!」兵士ががなり立てた。  しばらく押し問答があった。兵士は、あとでまたくるからなと脅すように言って帰った。恵がそっとドアをあけると、三重のドアの廊下に面したドアのポストに、A4サイズ一枚の召集令状が入っていた。 「どうするの」恵が召集令状を手に心細い声を出した。  いずれ徴兵年齢に達することはわかっていた。そのときどうするか、これまで考えてこなかったわけではない。心配そうな顔で自分の方を見ているみんなに、海人はすでに決断している人の声で言った。 「ぐんたいにはいるか、せいふぐんがしはいしてるちいきのそとへにげるか、どっちかをせんたくしなくちゃならない」 「武装勢力の支配地域は危険だよ」月田姉妹の一人が言った。 「すぐつかまって、カイトは兵隊にとられる。メグとリュウは売り飛ばされる」もう一人が言った。 「じゃあ、せいふぐんがしはいしてるちいきで、にげまわるか。そんなせいかつをしてたら、メグとリュウはいつまでたっても、がっこうへいけない」海人は言った。 「北海道へ逃げる手もあるぞ。あそこなら十八歳までは兵隊にとられない」姉妹の一人が言った。 「だけど難民のうけ入れをいまではきびしく制限してる。専門技術があればべつだけど、満足な教育をうけてない孤児五人じゃあ、本州へ送還される」もう一人が言った。  どの道を選択しようが、希望が見えているわけではない。そのことをよくわかっている恵と隆は、暗い眼差しで黙り込んだ。 「おれはあと二ねんはんで十八さいだ。そうなれば、ほっかいどうへにげても、ちょうへいされる。よていがすこしはやまったっていうだけだ」海人は言った。 「軍隊に入るのか」姉妹の一人が訊《き》いた。 「マフィアになるよりましだろ」海人は誰かを憎んでる声で言った。  海人の理解では、軍隊もマフィアも昏睡《こんすい》強盗も同じようなものだ。だが軍隊に入る方がいくらか気が楽だった。それに安定した収入がえられる。隆と恵に家と教育を与えられるかもしれない。 「たのみがある」海人は月田姉妹に言った。 「なんでも頼め」姉妹が声をそろえた。 「メグとリュウを、みとにつれてってくれないか」 「まかせろ。とりあえずマジェスティックに部屋をとってやる。安ホテルだけど、けっこう居心地がいい」姉妹の一人が言った。 「マジェスティックの隣にNGOの事務所がある。部屋はじっくり捜せばいい」もう一人が言った。 「メグは十一さい、リュウは九さい、もうだいじょうぶだ。おかあさんがいなくなったとき、おれは八さいのたんじょうびのまえだった」海人は言った。 「おカネはまだすこしある」恵が言った。 「ぐんたいにはいったら、まいつき、きゅうりょうをおくる」海人は言った。 「メグはおれが守るからしんぱいするな」隆が言った。  恵が声を押し殺して泣いた。つられて隆も泣き出した。海人も月田姉妹も耐え切れずに泣いた。辛い時間が流れた。月田姉妹はダイニングテーブルでウオッカをやりはじめた。正午をすぎても、誰も昼食をとろうと言わなかった。  午後二時ちょうど、また政府軍がきて、ドアをがんがん叩いた。月田姉妹が怒鳴りちらして追い払った。 「おれはもういく」海人は言った。 「どうして。一日や二日、家のなかに隠れていてもだいじょうぶよ」恵が抗議の声をあげた。 「むねがくるしくなってきた。どうせ、せいふぐんがまたうるさくいってくる」海人はセーターの胸をかきむしった。 「いかせてやれ」月田姉妹が真摯《しんし》なひびきの声で言った。  恵は小さくうなずくと、涙をぬぐいながら、デイパックに海人の着替えやタオルや歯ブラシをつめた。海人はベレッタM21を恵に渡した。 「ごしんようにもってろ。ひとをきずつけるのがどうしてもいやなら、たまをぬいておけばいい」 「わかった」恵は素直にうけとった。 「男はおれだ! おれに持たせろ!」隆が叫んだ。  海人は、ファン・ヴァレンティンにもらった衛星携帯電話を、隆に与えてなだめた。三人で抱き合い、ほんの短い時間、声をあげて泣いた。 「おれはぜったいしなない」海人はみんなに宣言した。  海人は召集令状をポケットに入れ、デイパックを背負うと、振り返らずにきびきびと部屋を出た。  街はいつもの賑《にぎ》わいを見せていた。昨夜一睡もしていないが、神経が張りつめた海人はまるで眠気を感じなかった。政府軍のパトロール隊の詰め所へいくと、砂利を敷いたパーキングに幌《ほろ》付きのトラックが二台とまり、そのまえに十数人の少年が整列して、ぴかぴかの軍服を着た兵士の訓示をうけていた。海人は近くにいた兵士に召集令状を見せた。 「こくみんのぎむをはたしにきました」海人は声を張りあげて言った。  兵士がげらげら笑った。 [#改ページ]   第4章 常陸軍、南へ     34  陸軍第1師団第51歩兵連隊、通称〈常陸軍〉は、四百数十人の少年兵を徴兵して、小銃、戦闘服、半長靴、ヘルメット、および戦闘装着セットを貸与した。日本陸軍の装備もアメリカ海兵隊の装備もあった。階級章はなく、教育隊隊長が口頭で、三等兵を任命すると伝えた。 「盗みと物品の横流しは重罪。脱走兵は銃殺だ。わかったな!」訓練担当の軍曹が大声で叫んだ。  軍事訓練がはじまって数日で、孤児と、一般の少年たちの、戦闘能力のちがいが明らかになった。孤児たちは、おおむね俊敏で、狡猾《こうかつ》さをふくめて精神的な粘り強さを見せ、海人のように戦闘経験がある者もすくなくなかった。そこで教育隊は、少年兵のおよそ三割を占める孤児をべつに班分けした。  海人は軍隊生活にすぐ順応した。装備の点検、徒歩行軍、射撃訓練、なんでもきびきびとこなし、好成績をおさめた。体力的にも加賀見部隊の訓練とくらべてかくだんに楽だった。家族や親しい人たちに会えない辛《つら》さ、規則で縛られた集団生活の息苦しさ、その二点をのぞけば、不満はなかった。腹いっぱい飯を食い、ゴルフ場跡地に設営された宿営用テントでじゅうぶんな睡眠をとった。そのうえ給料をもらうことができた。  四月五日、最初の給料が規定どおり日本円で支払われた。路上で暮らしてきた孤児たちにとって、信じられない大金だった。  その週末、訓練基地のまえに、朝早くから兵士たちの家族やガールフレンドがむかえにきた。独身の兵士の多くは歓楽街へくり出した。孤児の少年兵たちは、班ごとに教育係に引率されて、いちばん近い市場へいき、砂糖菓子に群がるアリのように、クレープやアイスクリームの買い食いをした。  海人は、路上の衛星携帯電話サービス屋から、水戸市に電話をかけた。通信インフラが寸断されている現状では、衛星携帯電話を使うのがいちばん確実な連絡方法だった。 「みんなげんきか」海人は電話に出た隆に訊《き》いた。 「げんきだよ。カイトはどうだい」隆が言った。 「らくちん。てんごくのようなもんさ」 「だろうね」隆が知ったふうな口をきいた。 「へやはみつかったのか」 「まだだ。ちあんが悪くてな、マジェスティックの方が安全なぐらいだ」 「へやだいをちゃんとはらえるのか」 「いちばん安い部屋を四人で使ってるから、なんとかなってる」 「さくらことつばきこは、どうしてる」 「あいかわらずだよ。すげえなまいき。きたねえ言葉をやたら使うしな。お手あげだね」  恵が電話を代わった。 「どうしてる」彼女の声はひどく大人びて聞こえた。 「ぜんぜんげんき。そっちはどうなの」海人は訊いた。 「オーナーは朝から酔っぱらってるような人なんだけど、すごくいい人。ツインの料金しかとらないの。そのうえ、あたしにホテルの掃除の仕事をくれた。残飯は、リュウががんばってあつめてくれる。NGOに紹介してもらった学校は三部授業でね、あたしとリュウは午後の授業に出てる」 「そりゃあよかった」 「月田さんたちは学校いってない。昼間は部屋でぶらぶら。夜になると街へ出ていって、たいてい朝帰り。彼女たちまだ帰ってきてないのよ。あの人たちのこと考えたくない。どうやっておカネ稼いでるのか、彼女たちの脳みそはどうなってるのか、いろいろ考えても、あたしになにかできるわけじゃないから。自分自身のことに関しても、同じことが言えるしね」  恵の言葉と声のひびきに、深い断念を感じとった海人は、しばらく沈黙した。 「あのさ、メグ」海人は言った。 「なあに」 「じぶんをにくんでる?」  こんどは恵が沈黙をおいた。 「よくわからない」恵が惚《ほう》ける人の声で言った。 「じぶんをにくむなんてやめてほしい」海人はさらに踏み込んで言った。 「ごめんね」 「なんであやまるんだよ」 「だって」恵はもう泣き出しそうだった。  海人はいそいで話題を変えた。 「きゅうりょう、おくるから、じゅうしょをおしえてくれ」  海人はホテルの住所を書きとめ、地下銀行をつうじて給料を送ると告げた。また隆と電話を代わり、しばらく話した。それから竹内里里菜に電話をかけた。彼女は仕事中でいそがしそうだったので、すこしだけ話して電話を切った。どのみち孤児の少年兵は午後五時までに帰隊しなければならない。彼女と会うことは最初からあきらめていたのだが、胸に淋《さび》しさがつのった。海人は教育係の許可をもらって、地下銀行へいき、給料のほとんど全額を送金した。     35  基本教練と体力づくりを中心とする前期の四十五日が終了すると、成績と適性にもとづいて、歩兵、通信、衛生、補給等の各部門に振り分けられた。孤児のほぼ全員が、近接戦闘の主役である歩兵としての、武器訓練と戦闘訓練をうけた。  海人は、後期の四十五日間で、歩兵用の武器全般の取り扱いに習熟した。短機関銃、5・56ミリ機関銃、12・7ミリ重機関銃、グレネードランチャー、対戦車ロケット砲。それからコンパスと無線機の使い方、八輪駆動の装甲車と軽装甲機動車の運転もおぼえた。野戦の訓練は比較的すくなく、おもに都市制圧を想定した戦闘訓練が、市街地の一部を利用して、くり返しおこなわれた。  六月上旬、少年兵は訓練を終了して、全員が二等兵に昇進した。その数日後、常陸軍は基地を出発して南下した。兵員数はおよそ千二百人。少年兵に対しては、国道6号線掃討作戦のため、という以外の説明はなかった。  常陸市以南、利根川までの国道6号線の大半は、都市軍閥や雑多な武装勢力が割拠する地域で、彼らは道路のいたるところに検問所をもうけて通行税を徴収していた。  軍隊があらわれると一般車両は国道6号線から姿を消した。久慈川を渡ったのち、連隊は戦闘隊形をとった。哨戒《しようかい》ヘリ三機が飛来して前方上空で旋回をはじめた。  外国人中隊=第3歩兵中隊が縦隊で先導した。彼らは戦闘経験豊かな外国人で編成された部隊だった。その背後に、孤児中隊=第4歩兵中隊、第2歩兵中隊、戦車小隊のトランスポート、連隊本部および本部管理中隊、重迫撃砲中隊、精鋭部隊の第1歩兵中隊の順でつづいた。  JR東海《とうかい》駅近くで、外国人中隊の装甲車の25ミリ機関砲が武装勢力の検問所を攻撃した。激しい応射があった。海人は軽装甲機動車の銃座から、敵車両が爆発してガソリンの火の玉が噴きあがるのを見た。兵士を乗せた数台のピックアップ・トラックが猛スピードで南へ逃げ去った。外国人中隊が周辺の敵陣地の掃討をはじめた。  孤児中隊は敗走する敵を追撃した。海人が配属された第3小隊第2分隊の編成は、分隊長、副分隊長、孤児兵十人の計十二人で、三台の軽装甲機動車に分乗して前進した。  軽装甲機動車は、4WD・4ドアの戦闘車両で、12・7ミリ重機関銃を搭載している。海人は銃座から重機関銃で敵のピックアップを攻撃した。助手席で分隊長が指揮をとった。運転手はガーナ人と日本人の混血のクワメ・エンクルマ、十六歳。後部座席で、中国人孤児の葉郎《ヨウロウ》、十五歳が、小銃の引き金に指をかけて恐怖に耐えていた。  先をいく副分隊長の軽装甲機動車が81ミリ迫撃砲の直撃弾をうけた。火柱といっしょに人間の手足が空中に舞いあがり、分隊は一瞬にして兵力の三分の一を失った。海人は反射的に銃座でからだをかがめた。爆風と砲弾のかけらが襲いかかってきた。悲鳴とフロントガラスが砕ける音が重なり、車両が横すべりした。 「引き返せ!」分隊長が怒鳴った。  エンクルマが軽装甲機動車をUターンさせた。周囲で迫撃砲弾がつぎつぎと炸裂《さくれつ》した。爆風で視界はゼロに近かった。孤児兵のボリス・ハバロフが率いるもう一両の軽装甲機動車がついてきているのかまったくわからない。後続の部隊とあやうく衝突しかけ、エンクルマが急ハンドルを切った。スピードをあげろと分隊長が怒鳴った。 「カイト、おかしいぞ!」葉郎が炸裂音に負けまいと大声で言った。  海人も様子がへんだと思った。味方部隊は迫撃砲の攻撃をかいくぐって前進をつづけている。引き返しているのは自分たちの軽装甲機動車だけだ。海人はすばやく銃座から降りた。 「ぶんたいちょうどの! どこへむかうんですか!」海人は訊いた。 「常陸だ!」分隊長が叫んだ。顔の右半分が血まみれだった。 「えいせいへいをよびます!」 「黙れ! 常陸へもどるんだ!」 「みかたはぜんしんしてます!」 「俺は死にたくない!」 「エンクルマ! ブレーキをふめ!」海人は叫んだ。  エンクルマがブレーキを踏んだ。軽装甲機動車がまえにのめって急停止した。分隊長が拳銃《けんじゆう》を抜いてエンクルマの側頭部に銃口を押し当てた。 「とめるな!」分隊長が怒鳴った。 「どうすりゃいいんだ!」エンクルマが半泣きの声で叫んだ。 「殺すぞ! 車を出せ!」分隊長が言った。  エンクルマがアクセルを踏み込んだ。視界のなかにふいに中隊指揮車の八輪装甲車があらわれた。それを避けようとして、軽装甲機動車はガードレールに横腹をぶつけ、ふたたび停止した。海人は、後部座席から身を乗り出して分隊長の手首をつかみ、ねじあげた。葉郎が分隊長の拳銃を奪った。  分隊長が子供がいやいやをするように頭を振って泣き出した。彼は二十歳の軍曹だった。そもそも政府軍は、内乱初期の十八ヵ月をのぞくと激しい戦闘経験がなかった。ここ七、八年の戦争の主役は反政府軍と武装勢力であり、政府軍はもっぱら海岸ぞいの基地に閉じこもって、雑多な武装勢力の補給部隊のような役割をはたしてきた。  中隊指揮車から下士官と兵士が降りてきた。海人、エンクルマ、葉郎の三人は小銃を手に、4ドアの軽装甲機動車からすばやく降りて、控《ひか》え銃《つつ》の姿勢をとった。分隊長は助手席から出ようとせず、中隊本部付き軍曹の訊問《じんもん》に対して、意味不明な言葉を口走った。報告をうけて、指揮車からこんどは中隊長が降りてきた。 「誰か説明しろ」中隊長が言った。  海人が状況を説明した。中隊長は二十代なかばの精悍《せいかん》な顔つきの男で、海人の話を聞きおわると、軍曹に短くなにか命じた。分隊長が助手席から引きずり降ろされた。一瞬のできごとだった。分隊長の顔面に小銃の銃床がめり込んだ。ぎゃっと短い悲鳴。分隊長が昏倒《こんとう》した。兵士二人がすばやく素裸にして路上に転がした。軍曹が小銃を向けた。バンと銃声がひびいた。 「おまえは加賀見部隊で戦闘経験があるな」中隊長が海人に言った。  海人はおどろいた。面接のさいに作成された個人ファイルが、中隊長の頭に入っているのだと思った。 「はい」海人はこたえた。 「無線で連絡をとって第1分隊の指揮下に入れ」中隊長が命じた。  孤児兵三人はフロントガラスが砕けた軽装甲機動車にもどった。海人が車両無線機の受話器をとりあげたとき、中隊指揮車の左側四輪のばかでかいタイヤが、がたがたと分隊長の死体を踏みつぶして前線へ向かった。砲弾が右前方で大音響とともに破裂して、瓦礫《がれき》と土砂の雨が死体に降りそそいだ。     36  外国人中隊による検問所周辺の掃討は二十数分間でおわった。その間、武装勢力はトラック搭載の迫撃砲で百発以上の砲弾を常陸軍にあびせつつ、孤児中隊の接近をうけて西の那珂川の方角へ逃走した。  常陸軍は隊列をととのえて南下をつづけた。海人の軽装甲機動車と、ボリス・ハバロフが率いるもう一両は、第1分隊の隊列にくわわった。その後、抵抗をうけることなく、正午すぎに水戸市に到達した。外国人中隊が那珂川にかかる水戸大橋を、孤児中隊はその二キロメートルほど下流の勝田橋を渡り、政府軍支配地域に入った。  海人は助手席で地図を広げ、現在地を確認した。水戸市の西北部を支配下におく武装勢力との間で戦闘がはじまるのを、彼は怖れていた。そうなれば、JR水戸駅南口の恵たちが暮らすマジェスティックは、確実に戦火に巻きこまれるだろう。  海人は車両無線で分隊長に訊《き》いた。 「われわれは、みとのぶそうせいりょくを、こうげきするんですか」 「水戸は通過する。日没までに石岡《いしおか》を攻め落とす予定だ」分隊長がこたえた。  分隊は大洗港から水戸市中心街へ向かう国道51号線に出た。路肩に二十台を超える大型トラックのコンボイが停止していた。51号線を横切ろうとしたとき、コンボイの先頭の方で銃声がひびいた。 「様子を見てこい!」分隊長が海人に命じた。  水戸市中心街の方角へ走ると、コンボイの先頭車両の脇の路上に男が倒れ、軍曹の階級章をつけた褐色の肌の兵士が死体をあらためていた。海人の報告をうけて、分隊長がすぐに到着し、東南アジア系の軍曹に事情を訊いた。 「こいつらは宇都宮軍に武器を運んでる。トラックは第3中隊が押さえた。おまえら手を出すな」外国人中隊の軍曹が外国|訛《なまり》の強い日本語で言った。  その言葉を聞いた分隊長は、奇妙に悩ましい表情をうかべた。二十メートルほど先に国道6号線と51号線の交差点があり、外国人中隊の装甲車が道路を封鎖していた。外国人中隊の一個小隊が下車戦闘の隊形をとり、トラックの武装解除と積荷の点検をしながら大洗港の方へ下っていった。彼らが視界から遠ざかると、分隊長がトランシーバーで小隊長に報告した。短いやりとりがあった。 「あいつらが俺の言うことをきくわけないじゃありませんか!」分隊長がトランシーバーに叫んだ。  激しい言葉の応酬がしばらくつづいた。分隊長は無線をおわると、俺は知らねえぞ、とひとりごち、副分隊長の伍長《ごちよう》となにかささやき合った。 「ここで待機だ。交代でメシを食え」伍長が言った。  孤児兵に状況説明はなかった。ちびの葉郎が、背後から海人のシャツの裾《すそ》をにぎった。唯一の肉親だった祖母が病死したために、路上生活をはじめた中国人孤児は、きょうがはじめての戦闘経験だった。 「ロウ、メシにしよう」海人は葉郎を安心させるために、微笑みかけて頭をなでた。 「ねえ、なにがおきるの?」エンクルマが訊いた。  いわき市で両親と二人の姉を殺され、常陸市へ一人で逃げてきたエンクルマも、これまで戦闘経験がなかった。 「まだわからない」海人は慎重な口ぶりでこたえた。 「けんかしてるみたいだけど」エンクルマが言った。 「トラックが、うつのみやぐんに、ぶきをはこぼうとしてる。だから、がいじんちゅうたいがトラックをとめた。とうぜんだろ?」 「なんでとうぜんなの?」 「うつのみやぐんは、きたかんとうで、さいだいの、はんせいふせいりょくなんだ」 「なるほど、じゃあトラックをとめるのは、とうぜんだ」 「だけど、おれたちのしょうたいちょうは、トラックをいかせろといってる」 「はなしがわからねえな」葉郎が口をはさんだ。 「たぶんトラックは、いつもこのみちをとおって、おおあらいこうから、うつのみやぐんにぶっしをはこんでる」海人は言った。 「それで」葉郎が言った。 「みとのせいふぐんは、トラックからつうこうりょうをとる。もうけたカネのなかから、へいたいにきゅうりょうをはらう」  海人の言葉に、葉郎とエンクルマは考えをめぐらした。 「トラックをあんぜんにとおさないと、きゅうりょうがはらえない」エンクルマが言った。 「てきにしょうばいをゆるして、てすうりょうをとる。どこでもやってることなんだ」海人は説明した。 「しらなかったよ」エンクルマが言った。 「だけど、がいじんぶたいは、うんてんしゅをころしちゃったぜ」葉郎が疑問を投げかけた。 「がいじんぶたいは、たぶん、なにかかけひきをやろうとしてる」海人は言った。 「てめえら黙ってろ!」分隊長が怒鳴った。  食糧はアメリカ軍のコンバット・レーションだった。海人の班はボリスの班と交代で、冷たいポークスライス、ミックスベジタブル、フルーツゼリーをがつがつ食べた。  不安な時間が流れた。午後零時三十五分ごろ、水戸大橋の方から警務隊の4WDがサイレンを鳴らしながら近づいて交差点で停止した。車から大尉の階級章をつけた軍人が降りてくるのを、数人の外国人兵士が出むかえた。大尉と、金髪の大男の兵士が、激しく言い争った。海人は金髪の男に見おぼえがあった。大子市の守備隊に雇われ、加賀見部隊と郡山連隊の連合軍側に寝返った、青い眼のロシア人司令官だった。  全神経をそそいでいた海人には、その瞬間がくるのがわかった。外国人部隊の陰から小銃の銃口がちらとのぞいた。海人の脳裏に、一連の動きが、鮮明に記憶された。銃身の先端に照準のフロントサイト。その独特の形状。ロシア製のAKM2だ。ダンと銃声。炎とガスが噴出するのが見えた。弾丸が背中へ抜け、肉を引きちぎりながらどこかへ飛んでいった。日本人大尉のからだが仰向《あおむ》けにどおと倒れた。  靴音が厳しくひびき、警務隊と分隊に外国人部隊の銃口が向けられた。分隊長が小銃を捨てて両手をあげた。警務隊も分隊もただちに武装解除された。装甲車が旋回して25ミリ機関砲を水戸大橋方向へ向けた。外国人部隊は交差点を中心に防御の態勢をつくり、ロケット砲や5・56ミリ機関銃を携帯した歩兵部隊が孤児中隊を牽制《けんせい》するために国道51号線に展開した。  銃声は二度とひびかなかった。太陽がかたむきかけたころ、ロシア人司令官がコーヒーカップを手に指揮車に乗りこむのを、海人は見た。分隊は武器を返してもらった。自分が眼にした事実以上の情報は入らなかったが、海人は、外国人中隊と連隊本部の間で話がついたことだけはわかった。  日没までに石岡市を攻略する計画は変更になった。孤児中隊は、国道6号線にそったバス通りを二キロメートルほど前進して、小学校の校庭で宿営した。  海人はエンクルマと夜の歩哨《ほしよう》に立った。 「せんそうになるかとおもったよ」エンクルマが言った。 「でもなにもおきなかった」海人は言った。 「れんたいほんぶのたいいが、ころされたじゃないか」 「それだけだ。ロシアじんのしれいかんは、ぴんぴんしてる」 「がいじんちゅうたいは、かけひきにかったの?」 「たぶんね」  どんな駆け引きだったのか、ロシア人司令官がなにを手に入れたのか、海人もエンクルマも言葉で説明することはできなかったが、からだ全体に染み入る感慨はあった。     37  常陸軍は、翌日の午前中に石岡市を攻略して前線基地を築くと、南西十四キロメートルに位置する土浦《つちうら》市へ激しい砲撃をくわえた。  土浦市は、国道6号線上の要衝で、|霞ヶ浦《かすみがうら》を望む古い軍事都市である。内乱二年目に、第1師団第32歩兵連隊の反乱部隊が首都圏から逃げ込み、雑多な部隊を吸収して土浦市に一大拠点を築いた。彼ら〈土浦軍〉は、つくば市から化学者や技術者を拉致《らち》してドラッグ製造業を育成し、東京のマフィアと手をむすんで繁栄を謳歌《おうか》していた。  南下作戦の最終目標は土浦市攻略だった。砲撃と威力偵察がつづいた。その間に、常陸軍は周辺地域で徴兵活動をはじめ、孤児中隊は護衛の任務を担当した。  海人の分隊は二人一組で、押収した乗用車に徴兵係を乗せ、市街地、住宅団地、田園のなかの集落をめぐった。徴兵は成果があがらなかった。土浦軍がすでに若い男女を連れ去っており、残っているのはほとんど老人と小さな子供と病人だった。  徴兵係は家に侵入するたびに、女を出せとすごんだ。若い女がいないとわかると、家のなかのものを徹底的に略奪した。腹いせに放火することもあった。ある民家で中年の女が仕方なく相手をし、二人の徴兵係が、ばかみたいな唸《うな》り声をあげた。耐え切れなくなった海人は、その日以降、建物に入ることを拒否し、まぢかでおこなわれている残酷で卑しい犯罪を見て見ぬふりをした。  石岡市に進駐して十九日目だった。  海人は乗用車の後部座席に二人の徴兵係を乗せ、玉里《たまり》地区の民家を一軒一軒まわった。そのあとを、ボリス・ハバロフが幌《ほろ》付きのトラックを運転してついてきた。  ボリスは、口数のすくない、赤茶けた髪の十六歳のシベリアの少数民族出身者で、風貌《ふうぼう》はファン・ヴァレンティンを思い出させた。彼は、三歳上の兄といっしょに、応化九年秋、いわき市の武装兵力に徴用され、福島県南部で五ヵ月間の戦闘経験があった。唯一の肉親である兄は白河《しらかわ》市攻略戦で戦死していた。  霞ヶ浦の岸辺の、ゆるやかな傾斜地に、見かけはみすぼらしいが、頑丈な造りの農家があった。屋根|瓦《がわら》の一部が破壊されていた。二人の徴兵係が家のなかに入った。海人とボリスは周辺を偵察した。家の裏で、チャボが数羽、竹やぶに逃げ込んだ。ぐるりとまわって、前庭にもどると、家のなかから叫び声があがった。女の声だった。銃声とガラスが砕ける音。海人とボリスは小銃をかまえて建物に近づいた。 「撃つな!」徴兵係の声が聞こえた。 「なんでもない!」もう一人の徴兵係が言った。  海人とボリスはその場で待った。すぐに玄関から徴兵係が出てきた。前庭に小さな人影が転がされた。口をテープでふさがれ、後ろ手に縛られた、四歳ぐらいの男の子だった。 「このガキを毛布にくるんで、おまえたちの中隊長にとどけてこい」徴兵係が言った。 「とどけろって」海人が訊《き》いた。 「黙ってとどけりゃいいんだ」 「おれたちはここで昼飯にするから、すぐもどってこい」もう一人が言った。  ふいに馬頭市の加賀見部隊の宿営地での記憶がよみがえった。ある日、姿を消した少年兵。「わすれろ」海人の頭のすみでマルコの声がひびいた。あいつの言うとおりだ。こういうことにはかかわりあうな、と海人は自分にささやきかけた。地面に倒れている男の子を見た。きれいな顔をしていた。男の子が眼を白くむいて海人を見あげた。からだが意思に背いて反応した。小銃の銃口が持ちあがり、右側の徴兵係の胸に突きつけられ、人差し指が引き金にかかった。 「なんだよ!」徴兵係がびっくりした声を出した。 「ばかなことを考えるんじゃねえ! ボリスなんとかしろ!」もう一人が言った。  ボリスが海人を見て、視線を地面の男の子へ下げ、それから控え銃の姿勢のまま表情を閉ざした。海人の意識のなかで、気が遠くなるような時間が流れた。略奪と強姦《ごうかん》を見て見ぬふりをしてきたが、いつの日か、このような場面に遭遇して決断を迫られることになるだろうと、ぼんやり思うことはあった。海人はいま、撃つという決断なしに銃口を向けていた。撃てば政府軍に追われることになるだろう。  ダンダンと銃声。家のなかから誰かが発砲してきた。二人の徴兵係の足もとで土煙があがった。海人は反射的に銃口を家の方へ振って引き金を引いた。5・56ミリ弾が連続して飛び出した。玄関の内側の薄暗がりで人が倒れた。  海人はさらに数発撃ちこみ、玄関へ近づいた。土間で死体を見つけた。白髪の老女だった。悲しみ、悔恨、憎しみ、ありとあらゆる感情がいっきに押しよせた。海人は真昼の陽の光があふれ返る庭を振り向いた。なめらかになった彼の指先が自然と引き金を引いた。腰をかがめて玄関の方をうかがう姿勢をとった徴兵係の首筋から血《ち》飛沫《しぶき》があがり、背後にどおと倒れた。おどろいて逃げ出そうとしたもう一人の徴兵係の背中に、連続して弾丸が叩《たた》き込まれた。ボリスが二つの死体をあらためた。 「どうする」ボリスが硬い声で訊いた。 「だれにもしゃべるな」海人は厳しい声で告げた。 「バレたらじゅうさつだぞ」  海人は老女の左腕の先へ視線を送った。89式小銃が転がっていた。国軍になるまえの自衛隊時代に採用された小銃で、闇市場へいけば民間人でも格安の値段で手に入れることができ、また孤児兵にあてがわれた唯一の武器でもある。 「おばあちゃんがころしたことにする。おれたちとおなじ89しきでうった。たぶんうまくいく」海人は言った。  ボリスは返事をしなかった。海人は男の子のところにもどり、すばやく口と手首のテープをはがした。 「にげろ!」海人は押し殺した声で言った。  男の子は檻《おり》から解き放たれた小動物のようにすごい勢いで家の裏手に走った。海人は男の子を縛っていたテープをポケットにねじこんだ。竹やぶの方でチャボがクワックワックワッとうるさく鳴いた。ボリスは玄関へ歩いていき、老女の小銃を手にとると、庭にいる海人の上空へ向けて、でたらめに数発撃った。     38  警務隊の訊問《じんもん》に対して、海人とボリスは一つのストーリーで押しとおした。徴兵係が幼い男の子の拉致をくわだてた。それを阻止しようとして祖母が徴兵係を撃ち殺した。我々は状況を正確に把握できぬまま、ただちに反撃して祖母を死にいたらしめた。その騒動の最中に男の子は裏の竹やぶに逃げ込んだ。  占領地ではありふれた事件であり、孤児兵が怒りにかられて徴兵係を射殺したなどと、警務隊は夢にも思わなかった。 「徴兵係二名と民間人一名が敵の狙撃《そげき》で殺された。それが正式な記録だ。おまえらは余計なことをしゃべるな。わかったな」警務隊の曹長が言った。 「わかりました!」海人とボリスは声をそろえて言った。  その事件をつうじて、海人とボリスの友情は確かなものになった。一方で後悔の念が海人を苦しめた。どうせ撃つなら、さっさと徴兵係を撃ってしまえばよかったのだと思った。自分がためらわずに先に引き金を引いていれば、老女を殺すことはなかっただろう。祖母と二人で暮らしていたらしい男の子の行く末を案じて、海人は胸を痛めた。あの子はいまどうしているのか、両親はどこにいるのか、兄弟はいないのか、どこかでまた兵隊につかまることはないのだろうか。  戦争は、海人の呻吟《しんぎん》や深い疲労感に、関心がなかった。前線が動き、砲撃合戦は激しさを増した。孤児中隊は外国人中隊とともに、土浦市の中心街まで二キロメートルの地点まで前進して攻撃拠点を築いた。  土浦市から国道6号線を二十七キロメートルほど上り、利根川を越えると、首都圏がえんえんとつづき、その中心に東京がある。  政府軍の第31歩兵連隊が、首都圏から利根川の渡河を試みたが、取手《とりで》市の宇都宮軍に阻止され、土浦市の包囲網は南側半分が未完成だった。  七月初め、宇都宮軍が土浦市の西隣のつくば市に拠点を築いた。掃討に向かった常陸軍第2歩兵中隊が待ちぶせ攻撃をうけた。彼らは孤児以外の少年兵を多数ふくむ部隊で、敵の最初の射撃に恐慌をきたし、逃げまどううちに密集化して集中射撃をあび、兵員の五分の二を失った。  占領地で徴兵された新兵は、常陸基地でまだ訓練中で、兵員が増強されることはなかった。  内乱初期以来の政府軍の大攻勢を取材するために、外国のTV局や通信社をふくむ報道陣が、チャーターした民間のヘリで首都圏から到着して、JR石岡駅前のプラザホテルにプレスセンターをおいた。  慣例のように毎日数時間の砲撃合戦があり、ときおり威力偵察と奇襲作戦が敢行された。  海人が奇妙な感銘をうけたのは給料日の光景である。毎月五日にきちんと給料が支払われた。敵と合意があるようで、その日になると砲撃が静まり、地下銀行の出先機関が店をひらいて送金や振込をうけつけ、勇敢な娼婦《しようふ》たちもトラックで前線に駆けつけた。  給料日の数日後には戦闘が再開された。どの部隊も死傷者を出した。そのおよそ四割が事故と誤爆と懲罰による犠牲者だった。  七月十四日、敵の81ミリ迫撃砲の激しい攻撃にさらされた。前線の塹壕《ざんごう》周辺につぎつぎと着弾して、鉄片と瓦礫《がれき》と爆風が分隊に襲いかかった。インドネシア系とカンボジア系の二人の少年兵が、恐怖にかられて塹壕から逃げ出すと、味方の装甲戦闘車が35ミリ機関砲でなぎ倒した。 「このせんそうはイカれてる!」ボリスが四散した仲間の腕や脚を拾いあつめながら、めずらしく激高して叫んだ。  常陸基地をいっしょに出発した分隊十二人のうち、生き残りは、佐々木海人、クワメ・エンクルマ、葉郎、ボリス・ハバロフの四人だけになった。  海人は戦闘で確実になん人か殺した。占領地で集団強姦の現場をたびたび目撃した。中隊長の性的な趣味に関する噂があからさまに語られるようになった。  猛暑の七月下旬のある日、霞ヶ浦湖畔で、分隊は脱走兵の処刑を命じられた。大人の兵士二人と少年兵五人だった。眼隠しをされて地べたに尻《しり》をつけた少年兵の胸に、海人は89式小銃の5・56ミリ弾を三発命中させた。七人の脱走兵の頭や胸からびっくりするほど大量の血が噴き出した。その夜、エンクルマが高熱を出し、水分をうけつけず、意味不明な言葉を口走った。海人たちはエンクルマを野戦病院へ担ぎ込んだ。  脱走。その二文字が海人の頭をよぎらなかった夜はない。決行を思いとどまらせたのは、銃殺の恐怖が半分、送金をつづけるには軍隊にとどまるほかに道がないことが半分だった。  エンクルマが、四日間点滴をうけたのち、分隊に帰ってきた。突発的な高熱の原因は誰の眼にも明らかだった。エンクルマの復帰を歓迎する仲間の態度には、ぎこちなさが感じられた。こいつは立ち直れるんだろうか、あるいは、立ち直れるってことはいいことなんだろうか、と海人は自分に問いかけた。 「エンクルマはおれたちよりにんげんだ」ボリスがつぶやく声で言った。  葉郎が同じ言葉をくり返した。そのとおりだと海人は思った。  半年に二週間の休暇が与えられる時期がきた。大人の兵士は満面に笑みをうかべて家族のもとに帰った。孤児中隊に約束が履行される気配はなく、抗議の声があがることもなかった。彼らは帰るべき家族も故郷も持たないからである。  悩み迷うことばかりだった。だが応化十一年の夏をつうじて、海人は、同じ境遇の孤児兵と戦場の日々を重ねるにつれ、仲間とともにこの戦争を生き抜いてみせるという思いを強めていった。     39  九月上旬のある日、霞ヶ浦の湖面を渡る風がやけに涼しく感じられる午後だった。海人、エンクルマ、葉郎、ボリスの四人は、霞ヶ浦の岸辺を偵察パトロール中に、古い木の桟橋に寝そべっている金髪の男を見かけた。外国人中隊の中隊長、イヴァン・イリイチ大尉だった。 「たいいどの、ごくろうさまです」孤児兵たちは声をそろえて敬礼した。  イリイチは小さなヘッドホンを耳からはずした。 「なにか用事か」イリイチが言った。 「われわれはパトロールちゅうです」海人は言った。 「腹へってるだろ。食い物があるぞ」イリイチが紙袋を指先で軽く叩いた。 「とんでもありません」エンクルマが言った。 「われわれはまんぷくです」葉郎が言った。 「このへんに敵はいない」イリイチが手招きした。  孤児兵たちは葦《あし》の原を出て、桟橋に近づいた。 「すわれ」イリイチが言った。  四人の孤児兵はそうした。桟橋の板の上に、ワインの瓶、食べ物が入った紙袋、ロシア製のAKM2があった。イリイチは寝そべったまま、所属、階級、名前、年齢、出身地などを訊いた。四人は緊張した声でこたえた。政府軍はバーゲンセールのように階級を投げ与えており、孤児兵は三ヵ月の戦闘経験を経て全員が一等兵に任命されたばかりだった。 「さわってもよろしいですか」海人はAKM2を指さして言った。 「撃ったことあるのか」イリイチが銃を渡して訊《き》いた。 「ふるいエーケーなら」海人は言った。  イリイチが操作方法を教えてくれた。基本的にはAK47やAKMと同じだった。海人は湖水に向けてかまえてみた。なんとも表現しがたいバランスのよさを感じた。 「カイトはカガミぶたいにいたんです」葉郎が言った。  ほう、とイリイチが言った。風が巻き毛の金髪をなびかせた。瞳《ひとみ》は淡いブルーだった。くつろいだ様子のいまでも、その瞳の奥に、大子市で海人が見た、憎しみと虚《うつ》ろさが入り混じる恐ろしい光が、かすかに感じられた。年齢は三十代なかば、あるいは五十歳すぎ、ぜんぜん見当がつかなかった。 「だいごで、おみかけしました」海人は言った。 「一昨年の五月ごろだな」イリイチが言った。 「そうです」 「加賀見は土浦にいるらしい。あそこは北関東から逃げ込んだ武装勢力でいっぱいだ」イリイチが対岸の街へ視線を投げた。 「うつのみやぐんが、つちうらぐんをしえんするかのうせいはありますか」海人は訊いた。  都市軍閥や雑多な武装勢力が、政府軍の支援をうけて宇都宮軍に攻撃を仕掛けるというのが、これまでの戦闘の基本的構図である。六月上旬からはじまった、政府軍による都市軍閥と武装勢力の掃討作戦は、戦略の大転換だった。 「いまのところ、土浦軍の補給路を、宇都宮軍が確保してやってる。そういうかたちの支援はつづくだろうが、宇都宮軍がわれわれに直接兵力を向けることはないと思う」イリイチが言った。 「つちうらぐんか、われわれか、どちらかがしょうもうするのを、まってるんですね」海人は言った。 「そのとおりだ」 「そうこうげきはいつになりそうですか」 「まず第31歩兵連隊が渡河作戦を成功させて、取手の宇都宮軍を追っ払う。そうなれば首都圏から兵員と物資の移動が好きなだけできる」 「せんとうきが、われわれをしえんするために、とんでくる」葉郎が小銃を空へ向けてかまえた。 「政府軍は空軍を持ってない」イリイチが笑みをうかべて首を横に振った。 「そうなの?」エンクルマが訊いた。  孤児兵たちは、内乱の経緯についてなにも知らなかった。イリイチが諭すように、言葉を区切りながら説明した。 「空軍は反乱軍側についたんだ。海軍は、アメリカ第七艦隊の補完部隊だから、政府軍側についた。そこで反乱軍は、戦闘攻撃機とミサイル部隊で、海軍の航空機と艦隊をほとんど壊滅させた。頭にきたヤンキーが、空軍の航空機を片っ端からやっつけた。空中戦。空軍基地への猛爆撃。内乱の最初の二週間で、そういうことが起こった。で、どうなったか。政府軍にしろ反乱軍にしろ、市街地に逃げ込んだ陸軍だけが生き残って、内乱をつづけてるわけだ」 「なるほど」葉郎が言った。 「渡河作戦が成功すれば、土浦包囲網が完成する」イリイチが話をもどした。「それから持久戦がはじまる。先は長い。おまえたちものんびりやれ」  イリイチが紙袋からサンドイッチを出してナイフで四等分に切った。スライスした黒パンに生ハムとタマネギとレタスがはさんであった。ワインもすすめられたが、それは全員が断った。海人はパンにかぶりついた。酸味に馴染《なじ》めない感じがあったが、噛《か》み砕くうちに、口のなかに独特の味が広がった。 「うめえ」海人は言った。 「たいいどのは、どんなおんがくがすきなんですか」エンクルマが訊いた。 「聴いてみるか」イリイチが言った。  エンクルマは、うれしそうにヘッドホンをうけとり、耳にあてがうと、指先と頭でひかえめにリズムをとった。 「なに?」ボリスが訊いた。 「わかんない。おしゃれなおんがく」エンクルマがにこにこしてこたえた。 「ボサノバだ」イリイチが言った。 「しつもんしても、よろしいですか」海人は口をもぐもぐさせて言った。 「なんだ」イリイチがワインを流し込んだ。 「たいいどのが、みとのこうさてんで、けいむたいのたいいをうつのを、おれたちはすぐちかくでみてたんです」  イリイチは、なんだそんなことかという顔つきで、もう一口ワインを飲んだ。 「あれは連隊本部の作戦将校だ。警務隊の車を使って俺を説得にきたんだ」イリイチが言った。 「たいいどのはころしちゃいました」海人は言った。 「俺がなんで処罰されなかったのか」 「それをおしえてください」 「コンボイが宇都宮軍に武器を運んでた。俺は停止させて、抵抗した護衛のちんぴらを片づけた。それから連隊本部に敵の武器を押収したと報告した。すると作戦将校がコンボイを通過させろと言った。冗談じゃないと言うと、やつは怒り出した。どっちが正しいと思う?」 「たいいどのです」海人は即答した。 「水戸駐屯の政府軍は、これまでずっと、通行料をとってマフィアのコンボイを黙認してきた。もちろん俺も知ってた。そんなことは世界の常識だ」 「せかいのじょうしきです」 「だが理屈は俺の方が正しい」 「そうですね」 「問題は、相手を黙らせる力が俺にあるかどうかだ。あの作戦将校のガキは、解任するだの逮捕するだの、わめき立てた。俺は一発ぶちこんで黙らせた。それから部隊に戦闘態勢をとらせて、連隊ぜんぶを敵にまわす意思があることを本部に伝えた。それで決着した。連隊長はなにもなかったことにすると約束した。マフィアが俺のところに通行料を持ってきた。だからコンボイを通過させた。作戦将校のガキ以外は、みんなハッピーになった」 「ハッピー」孤児兵たちは声をそろえて言った。 「新しい部隊に編入されたときは、まず力関係を周囲にわからせる」イリイチが言った。 「それが、たいいどのの、やりかたなんですね」海人は言った。 「もちろん俺たち外人部隊は、敵との戦闘では、精鋭部隊であることを証明しなくちゃならない」 「たいいどのは、いつもさいぜんせんでたたかってます」 「毎日が綱渡りだ。政府軍の給料じゃ、優秀な部下をあつめられない。だからときに通行料をとったり、押収品を売りさばく。収入は階級におうじて分配する。精鋭であるためには部下を満足させることも必要だ」  エンクルマが、からだで優雅にリズムをとりながら、うっとりした表情で音楽を聴いていた。湖面で魚がはねた。対岸の街へ、ヒュルヒュルと迫撃砲弾が飛んでいった。それを葉郎とボリスが視線で追った。 「かぞくはいらっしゃるんですか」海人は訊いた。 「女房と九ヵ月の男の子が、東京にいる」イリイチ大尉が言った。     40  夏が完全におわるまで、戦況に大きな変化はなかった。政府軍は九月中に利根川の渡河作戦を二度失敗した。海人は塹壕《ざんごう》のなかで十六歳の誕生日をむかえた。  十月初旬、イリイチ大尉が、装甲車多数と対戦車ミサイルで強化した外国人中隊を率いて国道125号線を北西へすすみ、下妻《しもつま》市の宇都宮軍を撃破すると、そのまま南下して水海道《みつかいどう》市に襲いかかった。四時間足らずの電撃作戦だった。戦況を不利と判断した宇都宮軍は、取手市と水海道市の部隊をすばやく古河《こが》市方面へ撤退させた。その夜、首都圏の第31歩兵連隊が無血で渡河に成功した。  師団司令部は、政府軍の二つの歩兵連隊に、それぞれ一個ミサイル大隊と一個攻撃ヘリ中隊を派遣して、歩兵の近接戦闘を支援させた。政府軍はじりじりと前進して、その年の十一月下旬までに、土浦軍を国道6号線と霞ヶ浦の間の狭い範囲に追い込んだ。敵の総兵員数は、推定三千人、市街地に封じこめられた市民は二万人。政府軍側へ逃げ出そうとする者は、市民であれ兵士であれ、背後から容赦なく撃たれた。それでも決死の脱出がくり返され、ときおり小部隊が投降した。  前線のすぐ背後で、兵士とプレス相手の、簡易ホテル、レストラン、売春クラブ、雑貨屋などが店をひらいた。プレスの一部は、孤児中隊に強い関心をよせ、軍が取材を許可しないにもかかわらず、孤児兵にカメラを向けてしつように追いかけまわした。  そのころには、実戦経験さえ積めば孤児中隊に高い戦闘能力がそなわるという評価が定まった。訓練をおえた新兵が到着すると、部隊の再編成がおこなわれた。孤児中隊は、小隊長以下の職務を孤児兵がになうことになった。海人は伍長《ごちよう》に昇進して分隊長に任命され、その祝いに、イリイチ大尉から新品のロシア製のAKM2をもらった。  朝から冷たい雨が降りつづく、十一月二十九日、海人は分隊を率いて偵察に出た。その帰り道で、外国人中隊の中隊本部がある中学校のまえをとおりかかった。二個小隊ほどの兵士が整列して雨に濡《ぬ》れていた。海人は足をとめた。眼隠しをされた兵士が二人、地面に両|膝《ひざ》をついた。数人の射手が小銃をかまえた。銃声が鳴りひびいた。兵士の隊列がくずれ、イリイチ大尉が海人に近づいてきた。 「ひさしぶりだな。元気にやってるか」イリイチが言った。  海人と分隊は敬礼した。 「げんきです」海人は言った。 「おまえは女をレイプしたことがあるか」イリイチが訊《き》いた。 「いいえ」 「俺はある。娼婦《しようふ》の話じゃないぞ。民間人の女を俺はレイプした。四十人か五十人か、いや、たぶん百人以上の女をレイプした。数なんか忘れた。だが去年の夏からぷっつりやめた。部下にも禁止した。すくなくとも俺の中隊では許さない。規律を犯したやつは銃殺することにした。俺のやり方をどう思う?」  海人はまっすぐイリイチを見た。巻き毛の金髪で強い雨滴がはねた。海人は胸のうちで即答した。大尉どののやり方はまったく正しい。     41  政府軍の二つの歩兵連隊は、ミサイル大隊の支援のもと、十二月八日夜から九日の未明にかけて、120ミリ迫撃砲、203ミリ榴弾《りゆうだん》砲、多連装ロケット、地対地ミサイルなど、重火力を総動員して激しい砲撃をくわえたのち、歩兵部隊に土浦市の中心街への突入を命じた。  常陸軍は北側から二つのルートを使って土浦市内に侵攻した。各歩兵中隊につき三両から四両の戦車が参加し、ビルの屋上から外国のTV局が戦闘をライヴで中継した。  敵は住民を人質にして、市街地の建物に立てこもった。地雷、ブービートラップ、スナイパーによる狙撃《そげき》、重機関銃、携帯式ロケット砲攻撃が、常陸軍の前進をはばんだ。  愚かな日本人も、内乱をつうじて遵守している、暗黙の了解事項がいくつかあった。農地をできるだけ荒らさない。原発テロには手を出さない。地雷をむやみに使わないというのもその一つである。ただし都市攻略戦では、敵の侵入路に集中的に敷設され、地雷による死傷者が続出した。  海人の分隊は、初日の戦闘で死者一人と重傷者一人を出した。同じ日の夜、下車戦闘中、日系ブラジル人の新兵が恐怖からでたらめに発砲し、敵の重機関銃の集中砲火をあびて即死した。べつの新兵が手榴弾《しゆりゆうだん》を使ったトラップに引っかかり、飛散した破片が、そいつの首とボリス・ハバロフの両脚に突き刺さった。  負傷者を衛生兵にあずけて、分隊は建物を一つ一つ掃討しながら前進した。神経をすり減らす市街戦がつづいた。三日目、また負傷者を二人出した。五人に減った海人の分隊は、総合病院から重機関銃の射撃をうけて激しく応戦した。  玄関から白衣の医師が大きく腕を振りながら飛び出してきて訴えた。 「撃つな! 患者も医療スタッフもなかに大勢いる!」 「びょういんからでろ!」海人は叫んだ。 「重病の患者は動かせない! 医療スタッフは三階と四階に監禁されてる!」  海人は、トランシーバーで小隊長に状況を説明したのち、分隊に病院を迂回《うかい》させて、二ブロック西の四階建てのショッピングセンターに目標を定めた。エンクルマが敵から獲得したロケット砲で東側の壁を破壊した。壁にできた穴に、葉郎が手榴弾を投げ入れ、爆発直後に突入して、軽機関銃の弾幕を張りながらいっきに階段を駆けのぼった。  四階の天井は常陸軍の砲撃でなかば崩れ落ち、フロアにもがれた胴や手足がちらばっていた。四人分か、五人分の死体か、正確な数はわからなかった。海人は頭部に眼をとめた。明らかに少年兵と思われるその顔は、右半分が吹き飛んでいた。  神経をまいらせているひまも、ビル内に民間人がいるかどうか確認する余裕もなかった。軽機関銃の弾幕を張り、死角になったスペースへ手榴弾を投げ、小銃手の突撃をくりかえした。家具売場の壁際に積みあげたサンドバッグの陰から白旗がかかげられた。重機関銃手二人が投降した。どちらも少年兵で、ヘルメットも抗弾ベストも装備していなかった。エンクルマが捕虜の手首に強化プラスチックの手錠をかけた。 「てきもおなじてぐちだ」エンクルマが悲しげに言った。 「おれたちをつかいすてるんだ」葉郎が憤る口調で言った。  捕虜を小隊付きの軍曹に引き渡した。海人の分隊は、押収した重機関銃、小銃、手榴弾、弾薬を軽装甲機動車に積み込んで、日没までにさらに五百メートルほど前進して小さな水路に達し、そこで防御戦闘の指示をうけた。  海人は小隊長に呼ばれ、ほかの三人の分隊長といっしょに状況説明をうけた。 「停戦が成立した。これから投降交渉がはじまる」  小隊長が地図で勢力分布を示した。孤児中隊と外国人中隊が水路の北側を、第1と第2歩兵中隊が国道125号線と354号線の西側を、首都圏から遠征してきた第31歩兵連隊が桜川の南を制圧した。そのため、土浦軍はおよそ二キロメートル四方の区域に封じ込められた。  翌日の未明、敵の支配地区で激しい爆発音があがり、銃撃が断続的につづいた。投降交渉がどうなっているのか、小隊長に訊いても要領をえなかった。海人は軽装甲機動車を水路の一キロメートル上流の外国人中隊本部へ走らせた。装甲車が三台、水路に架設した橋を渡って敵陣へ入っていくのが見えた。イヴァン・イリイチ大尉は、高校の校舎の陰で、コーヒーとサンドイッチの朝食をのんびりとっていた。 「ぶたいをぜんしんさせてるんですか」海人は訊いた。 「一個小隊を」イリイチが言った。 「こうしょうがけつれつしたんですか」 「そうじゃない。敵の外人部隊が、土浦軍の司令部に投降を要求して衝突した。ベトナム人のホウが二百人の部隊を率いてるんだが、むかしからよく知ってる男で、ついさっき支援の要請がきた」 「つちうらぐんは、とうこうをきょひしてるんですね」 「やつらの要求ははっきりしてる。政府軍への編入は受け入れる。武装解除にはおうじない。土浦、石岡、つくば、取手の利権をよこせ。連隊本部は、いまのところその要求をはねつけてるが、落としどころがどこになるか、まだわからない。形式上は政府軍に編入するが、実質的には、土浦軍を都市軍閥として認めるというかたちになるかもしれない。どのみち両方ともでたらめな野郎だ。ほっとけ。おまえの分隊の損害はどうだ」 「ししゃ三めい、ふしょうしゃ五めいです」 「散々だな。損害がひどくなった理由はなんだ」 「しんぺいがミスをして、それにまきこまれました」  イリイチがうなずいた。 「使いものにならない新兵がきたら突き返せ。抱え込んでると損害を大きくするだけだ。捕虜のなかから優秀なやつを見つけて補充しろ。おまえの人を見る眼が分隊の力を決め、その力が仲間の命を救うんだ」 「わかります」 「敵から獲得した武器をちゃんと自分の分隊で確保してるか」 「かくほしてます」 「じゃあそれを売って兵員の補充をしろ」     42  砲声が遠ざかったその日の夕方、外国人中隊のアフリカ系の軍曹が、兵員補充のやり方を手ほどきしてくれた。海人はエンクルマを連れ、軍曹の案内で前線から一・五キロメートル後方の国道125号線にいった。道路の両側に、故買屋、地下銀行、売春クラブ等が開業していた。海人は敵から奪った武器・弾薬を故買屋に売り払った。  その足で、連隊本部管理中隊へいき、外国人中隊の軍曹に少尉を紹介してもらった。少尉にカネをつかませて、市民会館の地下室で捕虜の少年兵を面接した。ショッピングセンターで投降した二人の少年がいた。十五歳と十六歳の北朝鮮出身の孤児で、従兄弟《いとこ》同士だという。その二人と、もう一人、六ヵ月の戦闘経験がある日本人の孤児を、本人の意思を確認したうえで連れ帰った。  分隊は八人になった。海人、エンクルマ、葉郎。十月に配属された日本人孤児二人。捕虜から選抜した三人。  新顔は、北朝鮮系難民の申勲《シンクン》と池東仁《チ・トウジン》と、日本人の田崎|俊哉《としや》。俊哉は十七歳で、去年の春につくば市で武装勢力に徴用され、南下してきた宇都宮軍に追われて部隊とともに土浦市に逃げ込み、こんどは政府軍の捕虜になったという。俊哉だけが教育をうけた人間の言葉使いをした。  交渉と砲撃がつづいた。総合病院の敵の重機関銃はまだ健在で、接近すると火を噴いた。入隊以来はじめて給料の支払いが遅れ、不穏な空気がただよった。十二月十七日、連隊長の宿舎の近くにとめた車両が爆発した。  その夜、申勲と池東仁が無断で部隊を離れた。脱走したのだろうとあきらめていたところ、夜明けに、勲と東仁が幼い男の子を一人連れて帰ってきた。 「クンのおとうとだ。おれたちのぶたいにいれてくれ」東仁が海人に言った。  海人は面接のさいに家族について質問したが、そんな話は出なかった。勲に肩を抱かれた男の子は、素足で穴のあいたスニーカーをはき、勲のダウン入りの作業服を着て、おそらく寒さと空腹の両方から、ぶるぶるとふるえていた。 「いくつだ」海人は男の子に訊いた。 「十三さいだ」勲がこたえた。  勲は十五歳だった。顔はよく似ているから兄弟にまちがいないだろうが、二つちがいにはとても見えず、弟はせいぜい八歳か九歳ぐらいだった。 「こどもはぐんたいにはいれない」海人は首を横に振った。 「しょるいをごまかせばいい」東仁が言った。 「ジン、あたまをひやせ。しょるいのもんだいじゃない。このこはまだこどもだ」 「おれたちは、つちうらぐんのちいきから、いのちがけでこいつをつれてきたんだ」  海人はその話におどろいた。東仁と勲の気持ちもよくわかった。だがどう考えてもその男の子に銃を持たせるのは無理があった。エンクルマやほかの部下も反対の声をあげた。すると、東仁は小銃の銃口を海人に向けた。 「まだちっちゃくてひとりにしておけない。ぶたいにいれろ」東仁が言った。 「だめだ」海人は強い口調で言った。 「クンが弟を連れて部隊を離れりゃいいじゃねえか」俊哉が言った。 「それじゃあ、くっていけない。みつかればクンはぐんたいにとられる」東仁が言った。  JRの線路の方でなにか光った。カメラのシャッターを切りながら記者が近づいてきた。金髪の男だった。東仁が怒りにかられて記者の頭上に向けて一発撃った。記者はべつにおどろきもせず、オハヨウと言った。東仁がこんどは足もとへ連射した。記者は苦笑いをうかべ、ようやく立ち去った。勲の弟のふるえがいっそうひどくなった。 「とにかく、おとうとをどこかへかくせ。クンがしょくりょうをはこぶのはきょかする」海人は言った。 「こいつのぶんのレーションをほしょうしてくれ」勲が言った。 「それはなんとかする」 「だけどさ、おまえたち、おとうとやいもうとを、じゃんじゃんつれてくるってことはないだろうな」エンクルマが言った。  これには全員の笑いが弾《はじ》けた。東仁と勲が頭を振って否定した。それで話がつき、みんなが勲の弟のために、予備の衣服や、レーションや、固形燃料をすこしずつ出し合った。     43  イヴァン・イリイチ大尉は、応化九年六月に烏山市で宇都宮軍に敗れたのち、同年八月、水戸市駐屯の政府軍に五十人の部下とともに投降した。それ以降、およそ二年と四ヵ月、政府軍として、大洗港から銚子《ちようし》港にいたる太平洋沿岸部を転戦して、武装勢力の掃討にあたってきた。  海人は、イリイチなら政府軍の内情に詳しいだろうと思い、給料の未払いと連隊長宿舎近くの爆弾さわぎとの関連について訊《き》いてみた。 「俺が爆弾を仕掛けたと思ってるのか」イリイチが肯定する口ぶりで言った。 「しょうじきにいうと、そうです」海人は言った。 「誰が犯人にしろ、あまり効果はないようだ。連隊長はけっこうずぶとい野郎でな」 「おれたちはとうぶんきゅうりょうをもらえませんか?」 「甘い期待はするな。でかい町を攻略すると、なぜか政府の金庫が空っぽになる。むかしからそうだった。今月に入って常陸軍はきゅうに金庫にカネがないと言い出した。やつらの本音はこうだ。おまえたちは土浦で略奪行為をはたらいてカネをがっぽり稼いだはずだ。軍規違反は黙認する。おまえたちも文句を言うな」 「いちおうスジがとおってます」 「盗賊のボスのロジックだ」 「そうですね」 「政府軍だと思うから腹が立つ。そもそも基本給が安すぎる。俺たちはつねに最前線に立たせられる。危険手当はゼロだ。だから仕方なく略奪して闇市で売る。その収入で自分の部隊をコントロールする。俺はもう給料を立て替えた。自分の部下だけじゃない。ホウの二百人の部隊にもカネを配った」 「すごい」海人は言った。 「おまえたちの稼ぎはどうだ」 「てきのぶきをカネにかえましたけど、ほりょをもらうのに、ほとんどつかっちゃいました」 「じゃあ連隊本部にロケット砲でもぶちこめ。給料を払えと脅かせ」  そんなむちゃなことが、わずか八人の孤児の分隊にできるはずがなかった。給料未払いの状態がつづいた。クリスマスイブの前日、頑強に抵抗をつづけていた総合病院の敵の部隊が投降した。海人は、彼らを補充兵として引きとれないかと思い、捕虜の収容施設にいってみたが、当分の間は無理だとわかった。二十一歳の小隊長に率いられた九人の孤児兵の部隊で、全員が衰弱しており、孤児兵のうち四人が重傷を負っていた。     44  ボリス・ハバロフが野戦病院からもどったのは、年が明けた応化十二年一月七日の夕方だった。脚の痛みはもうないというが、ひと眼で筋肉が落ちているのがわかった。分隊はボリスの復帰を祝った。アルコール抜き。ココア、チョコレートクッキー、桃の缶詰、チキン、角切りビーフ。ささやかなパーティだった。  その翌日の午後、崩壊したビジネスホテルの瓦礫《がれき》の陰で、海人が部下の装備を点検していると、ファン・ヴァレンティンが中隊本部の補給係に案内されてあらわれた。 「おじちゃん、どうしたの?」海人はびっくりして言った。 「ビジネスのついでにおまえに会いにきたのさ」ファンがにこやかに言った。  二人は抱擁した。一昨年の十二月、常陸TCのボスの甥《おい》に家を焼かれた夜に会って以来、およそ一年ぶりの再会だった。入隊してから一度も連絡をとっていない不義理を海人は詫《わ》びた。 「車のなかでちょっと話そう」ファンが言った。  海人は分隊をエンクルマにまかせ、AKM2を手に瓦礫の外に出た。 「いつも手放さないのか」ファンが海人の小銃をちらと見て訊いた。 「せんじょうですから」海人は言った。 「ロシアの突撃銃だろ」 「AKM2はがんじょうできょうりょくです。よこかぜでだんどうがブレるなんてこともありません。89しきやM16とくらべると、たまがでかいから、はんどうがつよいですけど、ぶきを一つえらぶならこれ」  イリイチ大尉にもらったAKM2は、銃床が木製で、イリイチの助言もあり、海人は自分のからだに合わせて二十発|装填《そうてん》の短い弾倉を使っていた。 「軍隊は肌に合うか」ファンが訊いた。 「まだ十六さいです。まいばんにげだすゆめをみます」海人は率直にこたえた。 「そりゃあそうだ」 「しょうじゅうはすきです」 「おまえはむかしから道具が好きだったな」 「だいくのとうりょうをときどきおもいだします」 「大工になりたかったか?」 「いまそんなことかんがえても」海人はちょっと唇をとがらせた。 「まったくだ。ばかな話をした」ファンがかすかに後悔をにじませて言った。  中隊本部の補給係は自分の車で去った。ファンは傷だらけの黒いベンツできていた。二人は後部座席に乗った。運転手のほかに助手席にボディガードがいた。走る車のなかで、ファンに問われるままに、海人は隆と恵の現況について話した。ベンツは国道125号線ぞいの臨時市場にとまった。ファンは、運転手とボディガードを追い払ってから、しゃべりはじめた。 「土浦軍の食糧がそろそろ底をつきはじめてる。ふつうは、包囲してる側がワイロをとってトラックを入れさせるから、食糧に困るなんてことはない。ところが今回にかぎって米を積んだトラックが検問をとおれない。政府軍がワイロを突っ返すんだ」 「じゃあこうふくしそうですか?」海人は訊いた。 「情勢はそっちへかたむいてる。もし武装解除したら、土浦軍は抱えこんでるブツをぜんぶ政府軍に持っていかれる。そこで土浦軍が俺のボスに連絡してきた。出荷価格を下げるからぜんぶ引きとってくれというわけだ。俺はボスの代理で、昨日の夜、交渉にいった」  そんな話をなぜファンは自分にするのか、見当がつかないまま、海人は黙って耳をかたむけた。 「出荷価格は通常の七十五パーセント。それで土浦軍と話をまとめた。値引き分を政府軍のワイロに使えばいい。俺はすぐ常陸軍の連隊長と会った。やつはとり分を聞くと鼻で笑って、とっとと失せろと言った。じゃあ第31連隊と商談します、と俺は言ってやった。土浦軍の扱いに関して政府軍の間にブレはない、とやつは言った。あなたたちが蹴《け》ったら、土浦軍はブツを燃やしちまいますよ、と俺は脅した。するとやつは、燃やしたければ燃やせばいい、我々の目的は土浦軍の解体だ、と言った。駆け引きには聞こえなかった」 「せいふぐんはほんきでせんそうを?」 「もしそうなら信じがたい話だ。俺の知ってるかぎり、どの戦線もビジネスの延長だった。イヴァン・イリイチなら話がとおるはずだと思って、きょうの午前中ひそかに会った。ところが常陸軍の連隊長が先にイリイチに釘《くぎ》を刺してた」  ファンの口調は不機嫌そうではなく、むしろ感嘆するひびきの声で言葉をついだ。 「溺《おぼ》れる犬にはワラ一本与えるな。土浦軍と取り引きしたらおまえを暗殺する。それが連隊長の方針だ」 「イリイチたいいのかんがえは?」海人は訊いた。 「イリイチは俺にこう言った。連隊長はクソ野郎で、こちらが暗殺したいくらいだが、土浦軍に甘い汁を吸わせないという一点では、まったく同じ考えだ」 「みんなこのせんそうにケリをつけたがってる」海人はいくらか高ぶった声で言った。 「どうやら本気らしい」  ファンが海人に小さな笑みを投げると、上着の内ポケットから小さく折りたたんだコピー用紙を出して、自分の膝《ひざ》の上に広げた。土浦市の拡大地図だった。海人は身を乗り出した。市街地図に赤い丸印が散らばっている。ぜんぶで十一ヵ所。青い線で囲まれた中心街は現在の土浦軍の支配地区を示しており、赤い丸印は、その外側に七ヵ所、内側に四ヵ所、という分布である。 「赤丸はドラッグの地下工場だ」ファンが言った。  海人は、常陸軍が占領した土浦市の北部と西部の赤い丸印を数えた。四つある。ファンが話をつづけた。 「常陸軍はすでに四つの工場を接収した。連隊本部の管理中隊とイリイチが二つずつ分け合った。青い線の内側に工場が四つ残ってる。この狭い範囲にまだ大量のブツがあることはたしかだ。昨日の夜の土浦軍の司令官の話では四十トン。出荷価格で六億ドルから七億ドル」 「そんなカネ、そうぞうがつきません」海人は言った。  ファンが市街地図に黒いペンで印をつけた。JR土浦駅前のホテルだった。 「チェリー・ブラッサム・ホテル。この地下駐車場で、昨日の夜、土浦軍と交渉した。二トン車四台分のブツを確認した。おれがにぎってる情報はそれだけだ」  ファンがぽいと地図を海人の膝に投げた。意味がすぐには理解できずに、海人はファンを見た。 「チャンスがあれば、おまえの分隊でブツを押さえろ」ファンが言った。 「なぜおれに」海人は訊いた。 「カネがほしくないのか?」 「ほしいですけど」 「おまえとメグとリュウが、魚売りのおばちゃんのアパートから逃げ出したとき、俺はなにもしてやれなかった。その借りを返したいんだ」 「そんなことありません。おじちゃんにはせわになりっぱなしです」海人は首を横に強く振った。 「話が先へいきすぎた。土浦軍が慎重なら、毎日ブツを動かす」 「そうですね」 「成功の確率は低い。だがチャンスはある。信用できる故買商を紹介する。もしブツが手に入ったら、そいつに引き渡せ。俺がおまえの口座に振り込む。支払いは米ドルだ。価格はブツの品質と量で決まる。そこから故買商の手数料と俺のコンサルタント料を引く。俺とおまえは対等の関係だ」 「ビジネス」海人は言った。 「ビジネスだ。人材に先行投資するって意味もある。おまえが中隊長にでもなってみろ。俺はおまえと組んでボロ儲《もう》けができる。もしおまえが嫌じゃなければな」  海人はファンの気づかいに胸を熱くさせた。 「おれのほうにもんだいはありません」海人はきっぱり言った。 「そりゃよかった。カイトが断る可能性が半分あると思ってた」 「どうしてですか」 「メグに叱られるから」  ファンの言い草に海人は笑った。 「もうたっぷりあくにそまってます」海人は言った。 「辛いな、その言い方」ファンが片方の眉《まゆ》をしかめた。 「じぶんできめたみちです」 「すばらしい。おまえは男だ」 「みんながみんな、なっとくするやりかたなんてありません。よごれたカネでも、つかいみちはたっぷりあります」 「メグとリュウにちゃんとした教育を与えてやれる」 「こじのぶたいをつよくできます。おれたちはいつもキケンちたいにほうりこまれます。いきのこるには、ぶきとだんやくをほじゅうして、ゆうしゅうなへいたいをあつめなくちゃなりません。それにはカネがひつようです」  ベンツの防弾ガラスをボディガードがノックした。歩道に小柄な初老の男が立っていた。ファンと海人は後部座席から降りた。     45 「ソムサックだ。なんでも買いとる」ファンが初老の男を紹介した。 「適正価格で」ソムサックが笑顔で言った。  銀髪と褐色の肌の対比が印象的な、タイ人の男だった。海人は名前と所属を告げた。ソムサックが名刺をくれた。三人は、歩道にテーブルをならべたコーヒーショップに入った。八歳ぐらいの男の子が注文をとりにきた。海人はホットチョコレートを、ファンとソムサックはブランデー入りのコーヒーを頼んだ。 「携帯電話を持ってるか」ファンが訊《き》いた。 「もってません」海人はこたえた。  ファンはベンツの運転手に携帯電話を買いに走らせた。ソムサックがなんの前置きもなくしゃべりはじめた。 「俺はもともと東京で政府軍の武器の買いとりを専門にやってた。マフィアが俺のような業者から大量に買いつけて大陸へ密輸する。内乱がはじまると国内市場ができた。応化二年の夏ごろから、俺は東京であつめた武器を自分でいわきの小名浜《おなはま》へ運びはじめた。ようするに政府軍の武器をせっせと反乱軍に流したわけだ。つぎの年の六月に、首都圏から反乱軍がいっせいに逃げ出した。ばらばらになった部隊が、ただの盗賊になっていわきに流れ込んだ。それ以来ずっと、いわきは武装集団の東北最大の拠点だ」  ファンほど上手ではないが、ソムサックのやや早口の日本語はじゅうぶんにつうじた。海人は話に神経を集中させた。 「応化三年の八月のはじめに、首都圏から敗走してきた部隊が、常陸で三日間ぐらいめちゃくちゃに略奪して、そのまま県境を越えていわきに入った。もうそのころ、いわきには敗残兵があふれていた。昼も夜も部隊同士が撃ち合った。アメリカ軍の最後の激しい爆撃もあった。若い女は片っ端から強姦《ごうかん》された。きれいな女は司令官の愛人になった。船に積まれて外国に売り飛ばされた女もたくさんいた。とにかくひどい状況だった。不思議なことに、と言うか、まあ当たり前のことだが、状況に見合うビジネスがかならず存在する。不足した弾薬は補充しなくちゃならない。略奪した物資や女は売りさばかなくちゃならない。俺はいわきでビジネスをつづけた。常陸で好き放題やった連中ともつき合いがあった。所属は東北方面軍だったと思うが、統制のとれた単一の部隊じゃない。司令官と称する男がなん人かいたのをおぼえてる。それだけだ。おまえのおふくろの情報を持ってるわけじゃない」  砲弾が飛来する音が聞こえた。120ミリ迫撃砲だなと思った。空気が振動する音で、榴弾《りゆうだん》か迫撃砲弾か、81ミリか、120ミリか、155ミリか、着弾地点はどの方角か、海人はおよその判断ができた。国道125号線を、トラックやヴァンがクラクションをうるさく鳴らしながら駆け抜けていく。ベンツの陰でファンのボディガードが腰をかがめて上空をあおいだ。客を物色中の娼婦《しようふ》がちらと海人へ視線を流し、フェイクの灰色の毛皮のコートのまえをはだけ、盛りあがった白い胸を見せた。三百メートルほど東の工場跡地のあたりで120ミリ迫撃砲弾が着弾した。 「しれいかんの、おぼえてるなまえがあったら、おしえてください」海人は言った。  ソムサックが手帳に四人の名前と階級を書きつけ、そのページを破いて、海人にくれた。名前は名字だけだった。 「記憶がまちがってるってことは、たぶんないと思うが、やつらの名前や階級はでたらめかもしれない。軍曹のくせに中尉の階級章をつけて、偽名を使うなんてざらだった」ソムサックが言った。 「てがかりになります。はじめてのてがかりです。ありがとうございます」海人は頭をぺこりと下げた。  ホットチョコレートとブランデー入りのコーヒーがとどいた。海人はホットチョコレートを飲んだ。冷えた腹が内部から温まっていく。 「四人がいまどこでなにをしてるのか、俺は情報をつかんでない。いわきの武装勢力とは代金の支払いでもめて、六年まえから取り引きを全面的にやめてる。営業所も撤収した」ソムサックが言った。 「いろんな可能性がある」ファンが口をはさんだ。 「そうですね」海人は言った。 「自称司令官の四人全員がまだいわきにいる。あるいは全員が死んでる。誰かは仙台軍に投降した。誰かは政府軍に投降した。誰かはマフィアに転職した。いまのところはなんとも言えない」ファンが言った。 「おれがちからをつければ、さがしだせるとおもいます。そいつらがしんでても、とうじのぶかにきけばいいわけですから」 「時間がかかるぞ」  海人はうなずいた。 「ははおやのことは、きぼうをもってるわけじゃありません。ただ、いきてるのかしんでるのかだけでも、はっきりさせたくて」 「肉親捜しってのは、こういう時代では大事業だ」ソムサックが言った。  三人はしばらく雑談をした。ベンツの運転手が衛星携帯電話を買ってもどった。海人は番号をソムサックに教えた。近くでふいに小銃の銃声がとどろいた。ファンのボディガードが反射的に拳銃《けんじゆう》を抜いた。ソムサックは仕事にもどると言って去った。 「もうちょい遊んでいこう」ファンが腕時計を見て言った。     46  西の方角へワン・ブロック歩いた。路地にとめたトラックの荷台で発電機が唸《うな》りをあげていた。雑居ビルの入口で黒っぽいスーツの若い女が出むかえた。海人はAKM2をファンのボディガードにあずけた。 「将校相手の店だ」ファンが言った。  外壁は弾痕《だんこん》だらけだが、ビルの内部はきれいに片づけてあった。海人とファンは三階の生命保険会社の事務所に案内された。ダンス音楽が薄く流れ、窓に張られた赤や青のフィルムを透過して、落ちかけた陽の光が室内に拡散している。水着姿の女の子たちが壁際のソファから微笑みかけてきた。 「可愛い子がそろってるだろ」ファンが言った。 「みんなびじんです」海人は言った。 「気に入った子をえらべ」  海人は、おとなしそうな、ほっそりした東洋系の女の子を指名した。女の子が破顔して、ソファから立ちあがった。街角でふと見かけて、なんとなく心に残るような、親しみのある顔つきをしていた。ファンが、大柄ですばらしいプロポーションの白人の女の子の腰に手をまわして別室に入った。海人たちもつづいた。フロアのすみに簡易シャワールームが四つあった。 「なにじん?」海人は女の子に衣服を脱がされながら訊いた。 「日本人よ」女の子が言った。  海人は女の子に手をとられて、シャワールームに入った。たちまち硬直した彼の性器へ、女の子はときおり笑みを投げながら、全身を泡立て、すみずみまで、ていねいに洗った。シャワールームを出て、青いビニールカーテンで仕切られた薄暗いブースに入った。  細長いベッドでマッサージをうけた。やがて女の子の手が一点に集中した。 「カイト、我慢くらべしよう」ファンの声が隣のブースから聞こえた。 「おれのまけにきまってます」海人は言った。  女の子がくすくす笑いながら海人に避妊具をかぶせた。 「ねえ」海人は言った。 「うん?」女の子が言った。 「どこかであったことあるようなきがするんだけど」  短い沈黙が落ちた。 「思い出せないの?」女の子が半分怒っているような口調で言った。  女の子の手がリズミカルに動きはじめた。短めのボブを茶色に染め、眉《まゆ》を剃《そ》り、きちんと化粧したその子のきれいな横顔に、海人は視線をそそいだ。胸がふいに高鳴った。 「ねもとしょくどう」海人はそっと言った。 「店に入ってきたとき、カイトだってすぐわかった」女の子が言った。 「おれはぜんぜん」 「ひどいやつ。たった二年と八ヵ月ぐらいよ、会ってなかったの」 「へやがくらかったせいだよ」 「女の子は変わっちゃうしね」 「すごくびじんになった」 「お世辞でもうれしい」 「おせじじゃないよ」 「名前はちゃんとおぼえてる?」 「ねもとややさん」 「カイトとこんなにおしゃべりするの、はじめてなんじゃない?」 「はじめてだよ」海人は感慨をこめて言った。二人がいっしょにはたらいた根本食堂でのおよそ二年間で、こんなふうに打ち解けておしゃべりした記憶はなかった。 「あたし、意地悪じゃなかった?」女の子が訊いた。 「そんなことないけど、あいそがいいとはいえなかったかな」海人は率直にこたえた。 「カイトはやさしいね」女の子が笑みをこぼした。 「きみはおとなだったんだとおもう」  女の子の手の動きが激しさを増した。 「なんかへんな気分」女の子が言った。 「へんて?」海人は訊いた。 「へんなの」 「わからないよ」 「あたし感じてる」 「おれも」 「カイト、もうだめでしょ」 「いっちゃう」  意識せずとも声にせつなさがこもった。カイトはなにかにすがるように女の子の肩に手をかけた。その手を女の子は水着の内側の自分の胸に導いた。海人の指先が彼女のひかえめな乳房の冷たさを感じた。あっという声がもれて、海人は射精した。 「おじちゃん、おれのまけだ!」海人は元気よく言った。  青いカーテンの向こう側とこちら側で、どっと笑いが弾《はじ》けた。海人の性器を、女の子が濡《ぬ》れたタオルでていねいにぬぐった。それから、指で弾いたり、引っ張ったりして、もてあそんだ。回復した海人の性器に新しい避妊具をかぶせると、女の子は水着を脱いでベッドに両|肘《ひじ》をついた。突き出された小さな尻《しり》を、海人は背後から貫いた。辛《つら》さに耐えて溜《た》め込むなどというプロセスは存在しなかった。すぐにその瞬間がやってきた。海人は勢いよく射精した。女の子が軽く息を吐き出し、首をねじって海人の方を見た。 「カイトにこんなことされるなんて」女の子が言った。  まだつながっている彼女の小さな尻と自分の股間《こかん》へ、海人は視線を移した。わけのわからない感情が胸にせりあがり、ふいに涙がこぼれた。     47  一月中旬をすぎても給料は支払われなかった。海人は恵に電話をかけ、ソムサックから聞いた母親に関する情報を伝え、送金できないことを詫《わ》びた。 「なにも心配しないで。カイトが無事に生きていてくれれば、あたしたちは幸せなの」恵が言った。  ソムサックが書いてくれたメモを見て、ときおり母を思うことはあった。生きている母を想像できなかった。いずれ生死を突きとめることができるかもしれないが、その日がくるという実感はまるでなかった。まず戦場で生き残らねばならない。そして妹と弟に送金をつづけねばならない。海人の頭はそのことで一杯だった。  給料の未払いが、戦場にいくらか自由な空気をもたらした。規律を厳しくもとめる下士官は罵倒《ばとう》された。兵士たちは交代で前線の防御陣地を抜け出すと、にわかにあらわれた国道125号線ぞいの闇市場へいき、支給品の弾薬や装備を売り払い、カネと性欲を吐き出した。  風が強く吹くある日、海人は闇市場に出かけ、支給された89式小銃の5・56ミリ弾を売って、AKM2用の7・62ミリ弾を買った。その帰りに、将校用のマッサージパーラーが入っている雑居ビルのまえをとおりかかると、階段を降りてくる軽やかな靴音が聞こえた。海人は足をとめた。淡い灰色のオーバーコートにくるまった女の子が、いそぎの買い物でもあるのか、財布を手に歩道に飛び出してきた。一瞬、海人は胸を締めつけられた。根本食堂で同僚だった例の女の子ではなかった。筑波《つくば》山の方から吹く風が国道の土埃《つちぼこり》を巻きあげ、女の子は手のひらで眼差《まなざ》しを隠した。海人はその子とすれちがい、軽装甲機動車にもどった。     48  土浦軍兵士のひび割れたヘルメットの底に二日まえの雨水が溜まっていた。その水が凍りついた一月二十九日早朝、海人は双眼鏡のなかに、JRの鉄橋を渡ってくる人影をとらえた。  小銃の先に白旗をかかげた兵士の群れだった。ただちにトランシーバーで小隊長に第一報を入れた。通話をはじめた直後、銃声がひびき、敵兵士がいっせいに走り出した。曳光弾《えいこうだん》が黄色い尾を曳《ひ》き、投降しようとする敵兵士の頭上を越えて常陸軍側のビルに突き刺さった。海人は双眼鏡を上流の橋へ向けた。投降する兵士の群れが同じように背後から射撃をうけていた。東の湖岸の方でも銃声があがりはじめた。眼のまえの小さな鉄橋から被弾した投降兵がばらばらと水路に落ちていく。 「偵察してこい!」小隊長が命じた。  海人は分隊を徒歩で上流の橋へ移動させた。水路を人が泳ぎ、橋の上に死体が散乱し、それを踏みつけて敵兵が常陸軍側へ殺到した。危険すぎると判断して、海人は分隊を待機させた。  十月に配属された日本人孤児二人のうち、一人は前年の暮れに脱走し、もう一人は正月明けの敵の砲撃で負傷して野戦病院に送られ、分隊は復帰したボリス・ハバロフをくわえて七人編成になっていた。  味方の攻撃ヘリ三機が南へ向かった。二キロメートル四方の全戦線で銃声がとどろきはじめた。迫撃砲弾が敵支配地区に着弾した。数分おきに小隊長が報告をもとめた。海人は適当にあしらって、橋の上の混乱がおさまるのを待ちながら、携帯電話でイリイチ大尉に状況をたずねた。 「敵の主力は国道354号線の土浦橋で強行突破をはかってる。俺の部隊がいまから背後を突く」イリイチ大尉が言った。  土浦橋の南には政府軍の第31歩兵連隊が展開していた。敵はそちらの方が突破しやすいと判断したのだろう。  海人は部下をあつめて計画を話した。 「ていさつはしない。ドラッグをさがす。みつけて、さばいたら、おれがきゅうりょうをはらってやる」海人は言った。 「いくら?」エンクルマがびっくりした声で訊《き》いた。 「待てよ、ドラッグがどこにあるか、わかってるのか?」田崎俊哉が訊いた。 「マフィアのゆうじんから、じょうほうをもらった」海人は言った。  鋭い眼差しの民間人が、ボディガードを連れて海人をたずねてきたのを、分隊の全員が見ていた。 「いくらよこすんだ。きんがくをいえ」池東仁がとがめる口調で言った。 「きゅうりょうのばい」海人は言った。 「うそつくなよ」申勲が言った。 「おれをしんようしろ。じょうほうも、さばくルートも、おれがしってる。おれがボスだ。ぜんぶおれがきめる。それがイヤならほかのぶんたいへいけ」海人は言った。  ボリス、エンクルマ、葉郎の三人は、海人の指揮にしたがうと表明した。ほかの連中は不満そうだったが、それ以上なにも言わなかった。沈黙を了解と判断して、海人は地図をひろげ、目標地点を教えた。  銃声がいくらか下火になったところで、分隊は傘形の戦闘隊形をとって橋を渡った。ポイントマンにボリス、その右翼に海人、対戦車ミサイル手の東仁、小銃手の勲。左翼に軽機関銃手の俊哉、小銃手の葉郎とエンクルマ。後方の二人は背後を警戒した。敵の狙撃《そげき》に注意を払いながら、橋にいちばん近いドラッグ工場に向かった。  炎に包まれた軽装甲機動車が路地から飛び出してきて街灯に衝突した。大破した装甲車を見かけた。指揮系統を失った投降兵の群れとひっきりなしにすれちがった。こちらを斥候とわかったはずだが、おたがいに無視した。民間人は建物のなかで息をひそめているらしく、街には兵士以外の姿はなかった。政府軍がでたらめに撃ち込む迫撃砲弾をよけながら、分隊は地方銀行の地下に侵入した。ファンの情報ではそこがドラッグ工場のはずだったが、避難した民間人で足の踏み場もなかった。  南東の方角へ二百メートル下るとチェリー・ブラッサム・ホテルがある。海人は分隊をホテルへ向かわせた。移動をはじめてすぐ、前方で装甲車が動きまわる音が聞こえた。遮蔽物《しやへいぶつ》を利用しながら前進をつづけた。海人は奇妙な光景を眼にして、ただちに分隊に攻撃態勢をとらせた。  八輪駆動の装甲車が車のバリケードを突き崩していた。通路を確保すると、装甲車が路肩にとまり、操縦手ハッチがひらいた。濃紺のセーターを着た男が出てきた。無帽で、靴はスニーカーだった。男は走って道路をすこしもどり、白い乗用車に乗りこんだ。その背後に、コンテナを積んだトラックがエンジンをかけて待機していた。 「おれがおどしてみる。うちかえしてきたら、いっせいしゃげきだ。トラックのにもつをきずつけないよう、ちゅういしろ」海人は指示を出した。  海人は建物の陰でAKM2をかまえた。白い乗用車が動き出した。真冬だというのに後部座席の窓が降りている。海人は軽く息をとめて引き金を引き絞った。右の前輪を一発で撃ち抜き、連射してエンジンルームに弾丸を叩《たた》きこんだ。乗用車の後部座席から小銃が応射してきた。俊哉の軽機関銃が火を噴いた。乗用車が横すべりして停止すると、その腹にトラックが衝突した。分隊がいっせいに射撃した。二台の車のガラスが砕け散った。  分隊は射撃しながら近づいた。乗用車に四人、トラックに二人、計六人の死体を確認した。海人は分隊に三百六十度の警戒態勢をとらせ、コンテナの扉をあけた。真新しい段ボール箱がぎっしり積みこまれていた。箱をあけた。なかみは合成ドラッグの青い錠剤だった。 「エンクルマ、トラックのエンジンをかけろ!」海人は命じた。  エンクルマが運転席の死体を引きずり落として乗りこんだ。エンジンがかからなかった。 「だめだ!」エンクルマが叫んだ。  海人は頭をめまぐるしく回転させた。べつのトラックに積み替え、味方の検問をいくつか突破して、ドラッグを後方へ持ち出させねばならない。時間をかけると、政府軍の主力部隊が進攻してくる。海人はイリイチ大尉の携帯電話に電話をかけた。 「からの二トンしゃを一だいかしてくれませんか」海人は頼んだ。 「なにに使うんだ」イリイチが訊いた。 「ドラッグをてにいれました。イリイチたいいのとりぶんは一わり。わるくないとおもいますが」  受話器の向こうでイリイチの笑いが弾けた。 「装甲車を護衛につけてやる。とりあえず俺の中隊本部へ運び込め」イリイチが陽気な声で言った。  海人は現在地を教えた。イリイチが部隊を展開している城北町から三百メートルの地点だった。電話を切ってきっかり二分半で外国人中隊の装甲車とトラックが到着した。段ボール箱を積み替えている間に、小隊長から報告をもとめられた。海人は空へ向けて小銃を撃ち、敵と応戦中と告げて、作業をいそがせた。  装甲車に先導させて、トラックを外国人中隊本部に運び入れた。イリイチはビルの三階の部屋で、無線機のまえにでんとかまえ、切れ目なく指示を飛ばしていた。 「自分でさばけるのか」イリイチが訊いた。 「ひたちのロシアマフィアのルートで」海人はこたえた。 「ファン・ヴァレンティンか」 「そうです」  海人はソムサックと連絡をとり、引き渡しの時刻と場所を決めた。それから分隊の半分をさいて軽装甲機動車をとりにいかせた。掃討作戦がはじまり、敵支配地区の銃声と砲声が激しさを増した。小隊長があいかわらず報告をもとめてわめき立てた。海人はトランシーバーを毛布にくるんで車に放りこみ、分隊に休息をとらせた。緊迫感とけだるさが入り混じる時間が流れた。昼食は外国人中隊本部のビルのなかでとった。午後になると、砲声は南の方角へ遠ざかった。  陽がかたむきかけたころ、分隊は出発した。エンクルマがトラックを運転し、三台の軽装甲機動車が前後を警戒した。外国人中隊が担当する三ヵ所の検問所を無事に通過して、午後四時すぎ、土浦バイパス入口の信号に到着した。待っていたソムサックに、トラックごと引き渡した。見積もり金額を聞いて、海人は腰を抜かしかけた。およそ千五百万ドルだという。孤児兵五十万人に一ヵ月分の給料を支払える金額だった。米ドルで仮払いをうけ、その場で分隊に二ヵ月分の給料を払うと、歓声がどっとあがった。  前線の分隊陣地にもどり、車両の整備と燃料補給および装備の点検を命じた。掃討作戦にくわわるつもりはまったくなかった。海人は自分から小隊長のもとに出向き、二ヵ月分の給料をにぎらせた。小隊長は手のなかの米ドル紙幣と海人を交互に眼をやり、なにか言おうとしたが、けっきょく沈黙した。  日没までに市内の掃討作戦は終了した。イリイチの情報によれば、加賀見部隊は、司令官の加賀見武が戦死して、残存部隊は政府軍の第31歩兵連隊に投降したという。  土浦軍の数百人の部隊が、土浦市の南側の防御線を突破して水海道市方面へ逃走し、それを第31歩兵連隊が追撃した。土浦軍が最後まで籠城《ろうじよう》していた二キロメートル四方では、常陸軍の第1歩兵中隊とイリイチの部隊が占領地域をめぐってにらみ合い、小さな衝突がつづいた。  夜九時、突然、遅れていた二ヵ月分の給料の支払いがあった。夜空に祝砲がでたらめに鳴りひびき、自家発電の明かりが灯《とも》る街に、兵士がいっせいにくり出した。     49  分隊の防御陣地から北へ五分ほど歩くと真鍋新町の公民館がある。その西隣のビルの三階に、申勲は弟を隠していた。海人はビルの入口で勲を降ろして、六食分のコンバット・レーションを持たせ、そのまま国道125号線の闇市へ軽装甲機動車を走らせた。  地下銀行で給料の四ヵ月分を水戸市の家族に送金した。戦闘服のポケットは仮払い金でふくらんでいた。一年分でも二年分でも送金することはできたが、分隊のために使うときがくるかもしれないと思い、とりあえずその金額にとどめた。  歩道のコーヒーショップで、海人はホットチョコレートを飲みながら恵に電話をかけて、送金額を告げた。 「どうして? すごいおカネ、いつもの倍よ」恵がおどろいて訊いた。 「おうしゅうひんが、けっこうたかねで、うれたんだ」海人はこたえた。  押収とは端的に略奪のことである。通常は敵軍の武器・弾薬・物資を指すが、破壊された商店にあるものすべてと、放棄された工場の工作機械、民間人が蓄えた金品や高級電化製品などがふくまれる。ときには人身売買さえある。  賢い恵がそういう事情を知らないはずはない。だが彼女は、とにかく助かると明るい声で言い、すぐ話題を変えた。 「洗たくしてる? ときどきは下着を替えてる? お腹痛くなったりしない?」  母親のように気づかう恵の声を聞きながら、海人は、戦争の時代を生きのびるためには、真実に踏みこまず、それがなかったかのようにふるまわねばならないのだと思った。隆が電話を代わった。それから、月田桜子、椿子の順に、長い時間おしゃべりを愉《たの》しんだ。  夜十時半ごろ分隊にもどった。部下は思い思いの場所で寝袋にくるまって眠っていた。懐中電灯を点《つ》け、自分の寝袋をさがしていると、背後から池東仁が声をかけてきた。 「カイト、ちょっとはなしがある」  呼吸が乱れ、声に深刻なひびきがあった。海人は東仁に手招きされて、壁が崩れた部屋に入った。毛布でなにかを隠してある。その形状がふいに海人の心臓を締めつけた。東仁が毛布をめくって懐中電灯を向けた。薄汚れた申勲の横顔が赤い光にうかんだ。眼は虚《うつ》ろにひらいたまま、なにも見ていない。海人は毛布をぜんぶはがした。腹部が血まみれだった。勲は両腕を不自然に曲げ、腰もいくらかかがめて、すでに死後硬直がはじまっていた。弾薬ポーチ付きのベストとコンバットブーツがない。靴下も脱がされて素足だった。 「かえりがおそいんで、いってみたんだ」東仁が言った。 「クンのおとうとをかくしてるビルへ?」海人は訊《き》いた。 「そうだ。三がいのろうかに、もうふをかぶせたクンのしたいがあった」 「クンのおとうとはどうした」海人の声は自然と厳しくなった。  東仁は首を強く横に振った。 「そのへやには、五かぞくぐらいがいっしょにすんでる。みんなにきいてまわって、だいたいのことがわかった。九じ四十ぷんごろ、しょうねんへいがきて、つちうらぐんをさがしてる、といった。クンが、ここにはつちうらぐんはいない、とこたえた。そしたら、しょうねんへいはこじをさがしはじめた。ひとりのちっちゃいおんなのこが、かぞくがいないことがわかった。しょうねんへいは、そのこをほごするといった。うそだってわかってるから、クンがやめろといった。おたがい、しょうじゅうをむけてにらみあった。バンバンとじゅうせいがした。クンがたおれた」  海人は、ああ、とため息のような声をもらした。先に引き金を引けばよかったのだ。申勲は気持ちがやさしすぎると死者をなじった。 「おとうとが、クンのしたいにすがりついてないた。しょうねんへいは、おとうとと、ちっちゃいおんなのこ、ふたりをつれていった」東仁が言った。 「だい1しょうたいのれんちゅうだな」海人は言った。  東仁がうなずいた。孤児中隊は、前線に第2、第3の二個小隊を、指揮所の背後に第1小隊を予備として配置していた。第1小隊が、中隊長の欲望をみたすために、ときおり幼い孤児を拉致《らち》しているのは公然の秘密だった。 「クンのおとうとは、たぶん、ちゅうたいしきしょに、つれこまれてる」海人は言った。 「おれひとりじゃどうにもならない。ぶんたいをうごかせ」東仁が低くうなる口調で言った。 「うごかせって」 「ちゅうたいしきしょをせいあつして、クンのおとうとをたすけだすんだ」 「そんなことできるか。ちゅうたいほんぶとせんそうすることになるんだぞ」 「クンはただしいことをした。ちがうか」東仁が語気を強めた。 「ちがわない」海人は認めた。 「おんなのこをまもろうとして、ころされた。そのうえおとうとをつれていかれた。おまえがボスなら、なんとかしろ」  海人は短く息を吐き出した。湖畔の玉里地区で射殺した老女の死に顔が頭をよぎり、どの戦場でも耳にする女たちの叫びが聞こえた。これまで悩み迷いつつ、先送りしてきた決断を迫られているのだと思った。海人は、鋭く光る東仁の眼から視線をはずして、夜空を見あげた。満天の星が瞬いている。ふと隆と恵を思った。自分になにかあれば、ドラッグの代金が家族に渡るよう、ファン・ヴァレンティンに頼んである。その安心感が最終的に海人の背中を押した。 「おれとおまえのふたりでやる。ぶんたいはまきこまない」海人は決断する声で言った。 「ふたりじゃ、かずがたりなくないか」東仁が不安とよろこびの入り混じる声で言った。 「はらをきめたやつだけでやるほうが、きけんがすくない」 「そうだな」  陽気な銃声が夜空に鳴りひびいた。商魂たくましい売春業者はもう中心街でナイトクラブをひらいていた。やるとすれば、全軍が勝利に酔い痴《し》れている、いまこのときだと思った。 「ちゅうたいほんぶにいるのは、せいぜい十二、三にんだ。こっちがしぬきでやれば、しょうじゅう二ちょうと、しゅりゅうだんがあれば、せいあつできる」海人は言った。  瓦礫《がれき》を踏む靴音が近づいてきた。東仁がすばやく死体に毛布をかぶせた。 「おまえらなにをこそこそ話してるんだ」  声が聞こえ、田崎俊哉が闇からぬっと姿をあらわした。 「クンがもどらない。おれとジンで、さがしにいく」海人は言った。 「ずいぶん深刻そうだぞ。なにがあったんだ?」俊哉が訊いた。  海人は言いよどんだ。また闇に瓦礫を踏む音。こんどはエンクルマとボリスと葉郎が不安げな顔であらわれた。 「これはなに?」エンクルマが毛布を示して訊いた。  重苦しい沈黙が落ちた。みんなが海人の言葉を待っていた。しゃべるほかなかった。 「クンがころされた。ジン、おまえのほうからせつめいしろ」海人は言った。  東仁が申勲の死体を見せた。エンクルマと葉郎が嗚咽《おえつ》をもらし、東仁の説明がおわっても、二人はまだしゃくりあげていた。 「おれとジンのふたりで、ちゅうたいしきしょにいってみる」海人は言った。 「そこにクンの弟がいたらどうするんだ」俊哉がとがめる口調で訊いた。 「つれもどす」海人はこたえた。 「変態野郎がかんたんにおもちゃを手放すと思ってるのか」俊哉が眉《まゆ》を吊《つ》りあげた。 「ちからずくでやる」海人は簡潔にこたえた。 「それならわかる」ボリスが言った。 「カイトたちがかえってこなかったらどうするの?」エンクルマが悲しげな声で訊いた。 「しんぱいするな。かならずかえる」海人は言った。 「まてよ。おれもいく」ボリスが言った。 「中隊指揮所を攻撃するって話だろ」俊哉がボリスの肩に手をかけ、海人に確認をもとめた。 「うちあいになるかくりつは、ひゃくパーセント」海人は落ち着いた声でこたえた。 「作戦が成功するしないにかかわらず、大騒ぎになるぞ。警務隊が徹底的に捜査する。裁判抜きで即刻おまえら全員死刑だ」 「どこのぶたいか、わからないように、かおをかくす。つちうらぐんのテロだとおもうかもしれない。さくせんはすばやくやる。まんがいち、けいむたいにおわれるようなことになれば、だっそうする」海人は言った。 「おれもつれてってくれ」葉郎が熱っぽい声で言った。 「おれもいく」エンクルマもあわてて言った。 「トシヤはどうするんだ」ボリスが訊いた。 「もちろん俺も中隊指揮所を攻撃する」俊哉が言った。  読み書きのできるたんなる変わり者ではなく、軽機関銃手としての俊哉が、戦場で仲間を命がけで掩護《えんご》するやつだということは、みんながよく知っていた。 「みんな、ほんきなのか」東仁がかすかに声をふるわせて言った。  戦場の尋常でない熱気が孤児たちをつかまえていた。分隊の全員が、申勲の弟を奪還するためなら中隊指揮所を攻撃することも厭《いと》わないと宣言した。生きて朝をむかえるのが奇跡であるような毎日がつづき、死に慣れ親しんでいた彼らに迷いはなかった。 「にんずうをしぼろう」海人は部下の決断をうけ入れて言った。  エンクルマと葉郎は、後方支援および申勲の死体を守る任務を与えて、分隊陣地に残すことにした。最終的に二人もそれに同意した。 「トランシーバーと、しゃりょうむせんはつかうな。ちゅうたいほんぶにつつぬけになる」海人は厳しく言った。 「おれたちがバラバラになって、連絡がとれなくなったらどうする」俊哉が言った。  海人は地図をひろげた。国道125号線の闇市は、明け方まで酔った兵士がうろついているはずで、その周辺なら人の眼を引かないと判断した。歩道のコーヒーショップを全員が知っていたので、そこを集結地点にして、集結時刻を午前五時に決めた。 「みんなでにげるんだね」エンクルマが確認した。 「きんきゅうのばあいは、しゃりょうむせんでれんらくする」海人はトランシーバーをエンクルマにあずけた。 「短い暗号を決めよう」俊哉が言った。 「いまからおんなにとつげきする」葉郎がなぜか誇らしげに言った。 「わるくない」エンクルマが言った。 「きまりだ。おんなにとつげきする。そのあいずがあったら、なんじだろうが、ぜんいんが、もちばをはなれて、コーヒーショップにしゅうけつする」海人は言った。     50  夜間戦闘用のダークブラウンのクリームを顔に塗り、海人と東仁、俊哉とボリスが組になって、二台の軽装甲機動車で出かけた。道路に兵士があふれ、明かりが灯《とも》る店のまえを通過するたびに、戸口で女たちが手招きした。中隊指揮所の北側の防御陣地で、第1小隊の顔見知りの分隊長が、寝袋にくるまっているのを見つけた。 「おきろ」海人は、眠っているそいつの髪をつかんだ。  カリオカという愛称で呼ばれる十七歳の日系ブラジル人だった。酒の臭いがぷんぷん匂った。近くで寝ていた孤児兵たちがなにごとかと頭をめぐらした。動くなと俊哉が告げ、ボリスと二人で周辺に軽機関銃と小銃を向けて威圧した。 「九じ四十ぷんごろ、まなべしんまちで、だい1しょうたいが、おれのぶかをころした。おまえのぶんたいだろ」海人は顔をよせて凄《すご》んだ。 「なんのはなしだ」カリオカが眼を見ひらいて言った。  東仁が銃剣をカリオカの喉《のど》もとに突きつけた。 「とぼけるな。おまえら、こどもをらちしたろ」海人は言った。 「しょうたいちょうが、めいれいしたんだ。でもおれのぶんたいは、てぶらでかえって、どやされた」カリオカが喉に声をつまらせて言った。 「まなべしんまちで、おとこのことおんなのこをらちしたのは、どのぶんたいだ」 「だい3ぶんたいだ。ぶんたいちょうは、せきねっていう、にほんじん」 「しょうたいちょうはどこにいる」 「となりのふどうさんやのビル。二かいのへやだ。そこにいなけりゃ、どっかで女とやりまくってる」 「いまおれとしゃべったことは、だれにもいうな。しゃべったら八つざきにしてやる」 「わかってるよ」 「くちをあけろ」  カリオカが反射的に口をあけた。海人は米ドル紙幣を丸めてそこへ突っこんだ。 「ぶかにこづかいをやれ」海人は言った。  海人たち四人は隣の雑居ビルへいった。二階の窓に明かりはない。一階の不動産屋の窓がぜんぶ吹き飛び、椅子やテーブルが散乱していた。東仁、海人、ボリス、俊哉の順で、靴音を消しながら階段をあがった。  ぶ厚い木製のドアはロックされていた。誰もいないか、女を引っ張り込んでいるか、どちらかだと思った。ボリスが三階を、俊哉が一階を警戒した。海人は、東仁に突入の態勢をとらせ、ドアをどんどん叩《たた》いてわめいた。 「しょうたいちょう! しょうたいちょう!」相手をいら立たせるような声とノックをくり返した。  部屋のなかで悪態をつく声が聞こえ、さらに三十秒か四十秒、待った。ドアがひらいた瞬間、東仁が突入した。海人とボリスがつづいた。 「こえをだすな! ゆかにふせろ!」海人は低く叫んだ。  男が床に伏せて大の字になると、ボリスがすばやく手錠をかけて、眼隠しをした。海人は、テープで銃身に巻きつけた懐中電灯の明かりをめぐらした。奥の方に小さな照明が一つ。白い顔がちらと動くのが見えた。海人はオフィスらしい部屋を横切って奥へ向かった。応接セットのテーブルの上に携帯無線機。石油ストーブの明かりが、ソファに伏せた女の太股《ふともも》を赤く染めている。黒っぽいセーターを着て、下は素裸だった。海人は手信号でボリスを呼んだ。ボリスが女に手錠をかけ、眼隠しをした。海人は男の方へもどり、懐中電灯で顔を照らした。小隊長のよく肥えたひげ面が床に押しつけられてゆがんでいた。 「おんなはだれだ」海人は訊《き》いた。 「てめえらはどこの部隊だ」小隊長がとがめる口調で言った。  東仁がブーツで顔面を蹴《け》り飛ばした。海人は同じ問いをくり返した。 「通信兵だ」小隊長がどうにか威厳を保とうとする声で言った。  小隊長と通信兵にさるぐつわをかませた。脚も縛り、毛布でくるんで運び出し、軽装甲機動車に一人ずつ放りこんだ。  市街地から七、八分も走れば、人影のない田園地帯に出る。ドライブの間、東仁は上機嫌で〈ぼくの心はバイオリン〉をハミングで歌った。  霞ヶ浦の暗い岸辺に小隊長と通信兵を転がした。人間を屈伏させるにはどうしたらいいか、海人は加賀見部隊での経験からよく心得ていた。部下に命じて小隊長と通信兵の衣服をぜんぶはがした。作業の間、全員が無言だった。ボリスと俊哉が、恐怖心を与えるために通信兵を霞ヶ浦に放り投げた。  海人は、がたがたと全身をふるわせている小隊長を地面に正座させた。寒風が吹きさらし、細かい土埃《つちぼこり》が舞った。醜くふくらんだ腹の下で小隊長のペニスが縮みあがっていた。さるぐつわをはずした。海人は一人で訊問《じんもん》した。もう殴る必要はなかった。小隊長は歯を鳴らしながら、卑屈な捕虜の言葉づかいで、なんでも素直にしゃべった。 「拉致《らち》したのは、関根の分隊です。でもあんたたちの仲間を殺したなんて、自分は知りません。関根から報告はありませんでした」 「ぜんぶでなんにんらちした」 「真鍋新町のその二人だけです。もう中隊長にとどけました」 「ちゅうたいちょうはいまどこにいる」 「たぶん指揮所の自分の部屋にいると思います」  小隊長を軽装甲機動車へ連れていき、紙とペンを持たせ、中隊指揮所の図面を書かせた。寒さで指がかじかみ、やけに時間がかかった。図面がどうにか完成すると、東仁が小隊長を車から引きずり降ろして、待ちきれなかったようにその場で背中に二発撃った。銃声の余韻は風に吹き消された。また銃声。三発目は頭にぶち込まれた。 「女はどこにいる」海人は訊いた。 「転がしてある。ジャブジャブ水に浸けた。朝までには確実に凍死すると思う」俊哉が言った。 「もうふでくるんでクルマにのせろ」 「殺さないのか」 「ころさなくていい」 「生かしておけば、あの女はしゃべるぞ」  通信兵を殺した方が安全である。そんなことはもちろん海人にもわかっていた。だが彼は無闇と殺人を重ねる愚かさを避けようとした。 「おんながしってるのは、しょうたいちょうといっしょにらちされたことだけだ。おれたちはかおをみられてない。こえをきかれたのはおれだけだ。ころしたほうがあんぜんだというなら、カリオカも、あいつのぶんたいも、かたっぱしからころさなくちゃならない」  海人の言葉に納得したとは思えないが、俊哉はそれ以上なにも言わず、指示にしたがった。通信兵をさらに厳重に縛った。毛布でくるんで、軽装甲機動車に放りこみ、市街地へもどった。     51  四人はウエスト・コースト・ホテルの近くの路地で軽装甲機動車を降りると、作戦から帰隊する部隊をよそおって一列縦隊ですすんだ。ホテルのエントランスで数人の兵士が女たちと肩を組んで大声で歌っていた。四人が差しかかると、彼らは陽気にバンザイを唱えた。海人はホテルの建物をちらと見あげた。三階の客室の一つに明かりが灯っている。  北側の路地に入り、常陸軍が突入のさいに爆薬であけた壁の穴に達した。警戒する視線を周囲にめぐらし、すばやく穴から内部に入った。東仁が懐中電灯を点《つ》けた。宴会用のホールだった。その場で全員が眼出し帽をかぶった。ロビーに出た。どこにも明かりはなく、歩哨《ほしよう》の姿もなかった。暗闇のなかですこし迷ったのち、エレベーターの裏で階段を見つけた。  小隊長の話によれば、きょうの早朝、土浦軍が敗走をはじめるまで、中隊長は中隊本部要員といっしょに、地下駐車場に寝泊まりしていた。だが敵の掃討にめどがついた午後、中隊長は三階の客室を掃除させて移り、第1小隊が拉致した子供たちはその部屋にとどけられたという。  階段を使って三階にあがり、真っ暗な廊下を懐中電灯で照らして右へすすんだ。左側の四つ目の部屋のまえにきた。ドアの下の隙間から明かりが薄くもれている。鳴りひびく音楽。即興演奏ふうで、セラピーのためのような曲調だ。海人は手信号で突入態勢をとらせた。ドアノブに手をかけた。ロックされている。海人は俊哉に合図を送った。俊哉の軽機関銃がドアのカンヌキを吹き飛ばした。海人がドアを蹴りあけた。東仁が突入した。  パンパンと乾いた銃声。海人も部屋に踏み込んだ。耳に音楽が洪水のようにあふれた。豪勢な光にみちた部屋の中央に、ばかでかいダブルベッドがあった。淡いブルーのバスローブを着た若い男が、上半身をねじった窮屈な姿勢で、ベッドの向こう端からなかばずれ落ちるように倒れていた。東仁が男の頭に銃口を突きつけた。ボリスが部屋の奥のバスルームへ向かい、俊哉は暗い廊下に残って背後を警戒した。  海人は男の髪をつかんで持ちあげた。きれいに剃刀《かみそり》をあてた精悍な顎《あご》のライン。繊細で狂気めいた眼差《まなざ》し。中隊長はまだ二十四歳のはずだった。 「きてくれ」ボリスの押し殺した声。  海人と東仁はバスルームへ入った。血まみれの男の子が床に転がされていた。素裸で、両手両足を革|紐《ひも》で縛られ、全身に無数の刺し傷がある。申勲の弟だった。瞳孔《どうこう》がひらいた眼でバスルームの壁を見つめている。東仁が口をゆがめて言葉にならない声をもらし、勲の弟を拘束している革紐をあわただしく解きはじめた。 「しんでる」海人は言った。 「いきてる」東仁が言い返した。 「じゅうせいをきかれた。にげるぞ」 「まだいきてる」  言い張る東仁を、海人とボリスが両脇から抱え、引きずるようにしてバスルームを出た。 「ベッドに誰かいるぞ」廊下で警戒している俊哉がドアの陰から言った。  ベッドの毛布が小さく盛りあがっているのを、海人は見た。毛布を引きはがした。四歳か五歳ぐらいの女の子がぐったりしていた。その子も素裸だった。海人は毛布でくるんで抱きしめた。 「しんぱいするな。たすけにきたんだ」  女の子は口をだらしなくひらいた。声をあげず、泣き出しもしなかった。廊下の方でふいに怒鳴り合う声が聞こえた。海人はドアを見た。 「どうする」俊哉が軽機関銃を階段の方角へ向けたまま訊いた。  海人は撃つなと言おうとしたが、口をひらくまえに銃声がとどろいた。俊哉が部屋のなかへからだを投げ出した。いっせいに射撃する音が鳴りひびいた。ドアの枠が砕け、鉄片や漆喰《しつくい》が飛び散った。 「投降しろ!」階段のあたりから呼びかけがあった。  勝負は決まったも同然だった。強行突破をはかれば全員死亡するだろう。中隊長の犯罪を明らかにして、我々の身分の保全を約束させるという方法を、海人は部下に提案した。そんなことが可能かどうかわからないが、ほかに選択の余地があるとは思えなかった。東仁、ボリス、俊哉、三人とも了承した。 「れんたいちょうにたちあってほしい。そうすれば、われわれは、とうこうする」海人はドアの陰から叫んだ。  その回答が不遜《ふそん》に聞こえたのか、ただちに威嚇射撃をうけた。海人はゆずらず、ドアの陰から同じ要求をくりかえした。  数分後、ラウドスピーカーが、いま連隊本部の中尉どのが向かうから撃つな、と告げた。ふいに静寂がおとずれ、投光器の光が廊下を照らした。やがて二人分のブーツの靴音が耳にとどいた。  ドアから小銃手と女が入ってきた。四人の孤児兵はいつでも射撃できる態勢をとった。女は、短めのボブを茶色に染め、セーター、黒い防寒服、ワークパンツというカジュアルな装いで、階級章はつけていなかった。 「中尉どのに敬礼しろ!」小銃手が言った。  孤児兵たちは女中尉に短く敬礼した。一度か二度、見かけた顔だが、階級もポストも知らなかった。 「所属は」女中尉が鋭い視線をめぐらして言った。  海人は一歩すすみ出て、眼出し帽を脱ぎ、所属と自分の名前を告げた。 「誰だ」女中尉がボリスに抱かれた女の子へ顎をあげた。 「まなべしんまちでらちされたこです。なまえはわかりません」海人はこたえた。 「怪我をしてるのか」 「けがはありません。たぶんドラッグをのまされてます」 「ほかに子供は」 「バスルームに。おれのぶかのおとうとです」  女中尉は中隊長の死体へ関心なさげな視線を投げて、バスルームにいき、すぐもどってきた。 「説明しろ」女中尉が言った。  海人は慎重に言葉をえらびながら事情を説明した。カリオカから情報をえたこと、第1小隊の小隊長を殺害したこと、通信兵を拉致したことは隠した。 「おまえたちが中隊長を殺したのか」女中尉が訊いた。 「いいえ。おれたちがへやにはいったときにはしんでました。つちうらぐんのテロです」海人は平然とこたえた。 「くだらないことを言うな」 「ぶたいにふっきさせてください。ほかにのぞみはありません」  女中尉は、ほんの短い時間、海人の眉間《みけん》のあたりに視線をそそいだ。 「女の子を衛生兵に見せる。渡せ」  ボリスが一瞬ためらう素振りを見せたが、女の子を小銃手に渡した。 「ここで待ってろ」女中尉が命令口調で言った。  小銃手に女の子を抱かせて、女中尉が部屋を出ていった。 「どうなるんだ」ボリスが誰にともなく訊いた。 「れんたいほんぶのでかたしだいだ」海人は言った。 「おれはとうこうしないぜ」東仁が言った。 「徹底抗戦してやる」俊哉が言った。  投降の呼びかけも威嚇射撃もなく、先の見えない不安な時間がすぎていった。東の空が明けはじめて間もなく、ラウドスピーカーがふたたび中尉が向かうことを告げた。  女中尉が小銃手一人をしたがえて部屋に入ってきた。 「佐々木海人|伍長《ごちよう》」女中尉が言った。 「はい」海人はこたえた。 「第1小隊の小隊長の死体はどこにある」 「なんのことかわかりません」 「おまえたちの車で通信兵を見つけた。通信兵は、小隊長が殺されたと言ってるが」 「おれたちはかんけいありません」 「通信兵はおびえて頭がおかしくなってる。おまえたちはあの女を素っ裸にしてなにをしたんだ」 「なにもしてません」 「全員、部隊に復帰させる。処分はしない」 「ほんとですか」海人はびっくりして訊《き》いた。 「連隊本部の決定だ」女中尉が言った。 「ではかえってもよろしいですか」 「おまえは残れ。事情を聞く。ほかの三人は部隊へもどれ」 「ありがとうございます」 「今後、暗殺は禁止する」  海人も、ほかの三人の孤児兵も黙っていた。 「わかったら返事をしろ!」女中尉が怒気を込めて言った。 「はい!」孤児兵たちは声をそろえた。  起きていることが信じられなかった。東仁、ボリス、俊哉の三人は警戒を解かずに、申勲の弟の遺骸《いがい》を抱いて、分隊にもどっていった。  海人は女中尉と乗用車で霞ヶ浦の湖畔に向かった。走る車の後部座席でかんたんな事情聴取をうけた。現場に案内して、小隊長の死体を見せた。女中尉は死体の処理の指示を出すと、海人にはもうなにも訊かなかった。  海人は分隊にもどり、全員と抱き合った。それから軽装甲機動車に分乗して、ふたたび霞ヶ浦湖畔に向かい、東仁が気に入る場所を見つけるまでうろうろ走った。内乱初期にアメリカ軍の空爆であいた巨大な穴がいくつも残っていた。申兄弟の死体を、荒れ地に生えた胡桃《くるみ》の木の根もとに埋葬して、全員で合掌した。  同じ日の午後一時、孤児中隊は水戸市の武装勢力を攻撃するために、中隊指揮所まえの道路に集結した。海人の分隊が到着したとき、すでにウエスト・コースト・ホテルの三階の客室の窓から三体の死体がロープで吊《つる》されて、風にゆれていた。中隊長、第1小隊の小隊長、もう一人は申勲を殺した分隊長の関根徹だった。孤児兵にはいっさい説明がなく、連隊本部付きの大尉が孤児中隊の指揮をとった。 [#改ページ]   第5章 世界に異議を唱える人々     52  孤児中隊は、国道6号線でイヴァン・イリイチの部隊と合流すると、スピードをあげて北へ向かった。涸沼《ひぬま》川を渡った直後、水戸市の武装勢力が無条件降伏したという情報が流れた。  だが事実はまるでちがった。兵力千人の武装勢力はJR常磐線の北側に部隊を集結させ、周辺のすべての道路を封鎖して、師団司令部との交渉を要求した。それに対して千波《せんば》湖の西側から孤児中隊が、国道50号線で外国人中隊が攻撃を仕掛けた。  夜早い時間に、師団司令部の将校団が東京からヘリで駆けつけて、交渉がはじまった。翌朝、武装勢力を中核に第52連隊を新設し、旧司令官たちを連隊本部以下の幹部につかせるということで話がまとまった。だが、土浦市攻略戦に参加した二つの連隊は、これを軍閥を温存するものとして認めず、師団司令部の将校の拘束も辞さないかまえを見せた。孤児中隊は、千波公園のヘリポートを攻撃して、防衛にあたっていた水戸市駐屯の政府軍部隊を武装解除した。  イリイチは、彼の部隊を市の西郊外に移動させ、政府軍内部の権力闘争に不介入の立場をとった。それが軍幹部の暗闘の行方を決めた。一触即発の緊迫した事態が数日間つづいたのち、師団司令部に異論を唱えた二人の連隊長が更迭されて、水戸市の武装勢力は第52歩兵連隊に新編成された。  二月中旬までに、政府軍は土浦軍の武装解除を完了させた。  常陸軍=第51連隊は常陸基地に帰還した。その夜、基地近くの高級レストランの個室で、海人はファン・ヴァレンティンと祝杯をあげた。ドラッグ取引の残金が海人の口座に振り込まれたのだ。イリイチに約束した十パーセントを払ったが、それでもばく大な金額が手もとに残った。 「おまえのカネだ。どう使おうが、おまえの自由だ」ファンが言った。 「おじちゃん、しんじられないよ」海人は特別注文したホットチョコレートを飲みながら言った。 「初体験てのは、誰だってそういうもんさ。はじめて女と寝たときのことを考えてみろ」 「それとはちがいます。すごいカネです。おれはまだ十六さいなのに」 「歳は関係ない。おまえはおまえにふさわしいものを手に入れたんだ」  常陸軍は、土浦軍の捕虜と武器を吸収して、総兵員数は二千五百人強、孤児中隊は二個中隊規模に、イリイチの中隊は五百人を超えて四個中隊規模にふくれあがった。師団司令部はこれを二個連隊に分割しようとしたが、既得権を手放したくない常陸軍幹部の激しい抵抗にあった。分割計画に決着がつかないまま、部隊は、応化十二年の二月から三月にかけて、常陸基地で訓練の日々を送った。  その間、海人はたびたびイリイチと会い、家族の将来について相談に乗ってもらった。土浦市で、海人と仲間が、子供への虐待を理由に中隊長と小隊長一名に制裁をくわえた事件は、軍内部で公然と語られるようになったが、女中尉が約束したとおり処分はいっさいうけなかった。三月中旬、従軍半年を超えた孤児兵たちにも、ようやく二週間の休暇が与えられた。     53  海人は、安全上の理由から兵士の服装のまま、AKM2を抱えて、長距離バスで水戸市へ向かった。  ホテル〈マジェスティック〉のロビーは、国道6号線掃討作戦で家を失った難民であふれていた。煮炊きする老女、病人と赤ん坊、産気づいている妊婦もいた。海人は人や荷物をまたいでフロントカウンターにたどり着いた。頭髪の薄い男が、カウンターで干し芋を肴《さかな》に一杯やっていた。恵から話を聞いていたので、その男が、風変わりなホテルのオーナーだとすぐわかった。 「こんにちは、ささきかいとです。メグとリュウがおせわになってます」海人は言った。  オーナーがグラスをかかげ、酔っぱらいの虚《うつ》ろで上機嫌な眼を向けて、挨拶《あいさつ》も前置きもなしにしゃべり出した。 「俺の食い物をかっぱらうババア、そこいらにぽいぽいガキを産み落とす締まらない女、ションベンを垂れ流すくそガキ、そのうえどいつもこいつもカネを払わない。最低のやつらだ。双子はちゃんと部屋代を払ってるよ。だけど、かわいそうに、あの二人は頭がイカれてる。うちの住人でまともなのはメグとリュウぐらいだな」 「しばらくとまらせてもらいます。へやだいはいくらですか」 「空き部屋はない。悪いが雑魚寝《ざこね》してくれ」  海人は自分の部屋代を払うと言ったのだが、オーナーは頑としてうけとらなかった。エレベーターにインド人の五人家族が住んでいた。海人は階段で五階まで駆けあがった。  503号室に入ると小銃を放り捨て、隆と恵と月田姉妹を強く抱きしめた。ほぼ一年ぶりの再会だった。隆は十歳、恵は十二歳、月田姉妹は十七歳になっていた。全員がいっせいにしゃべり出して、収拾がつかない時間がしばらくつづいた。 「カイト、男になったな。あっちこっちで、女を泣かせてるんだろ」隆が言った。 「下品なこと言わないで」恵が隆を叱った。 「眼の光がまえとぜんぜんちがう」月田姉妹の一人が言った。 「背筋がぴんとのびたところなんかも」もう一人が言った。 「ねえねえ、なにが食べたい?」恵が訊《き》いた。 「みんなは、なにがたべたいの?」海人は訊き返した。 「カイトが好きなものをつくってあげる」恵が言った。 「こんやはおいわいだ。そとにたべにいこうよ」海人は言った。  恵に両親のツーショットの写真を出してもらった。海人はそれをハンカチにくるんでポケットに入れた。全員で市場へいき、エビ餃子《ぎようざ》、クレープ、タイ式しゃぶしゃぶ、生春巻、たこ焼き、豆腐チゲ、石焼ビビンバ、シャーベット、ストロベリーシェイク、腹が苦しくなるまで屋台を食べ歩いた。  帰り道、埃《ほこり》だらけのコンビニエンス・ストアに立ちより、母の顔写真の拡大コピーをとった。 「おふくろは見つかりそうかい?」隆が訊いた。 「むずかしいとおもう。でも、きぼうはすてない。それがだいじなことなんだ」海人は隆の頭をなでた。  月田姉妹が借りた部屋の床に布団を敷き、隆と恵と海人の三人は、毎晩、手をつないで眠った。隆と恵のからだのぬくもりが、懐かしい匂いが、聞きおぼえのある呼吸が、やわらかな笑みをうかべた寝顔が、海人の心をなぐさめた。  眠りは浅かった。かすかな物音に反応した。そのたびに、海人は小銃をまさぐろうとして、はっと眼ざめた。嫌な夢と闘いつづけ、いつも覚醒《かくせい》した意識で夜明けをむかえた。海人の過敏な精神状態に気づいたはずだが、隆も恵も月田姉妹も放っておいてくれた。戦場の現実について、彼らから質問が出ることは、いちどもなかった。  休暇がおわりに近づいたある日、部屋で夕食をとったあとで、海人は将来のことで話があると切り出した。 「じゃあ、あたしたちは席をはずすね」月田姉妹の一人が言った。 「さくらことつばきこにも、かんけいがあることなんだ」海人は言った。 「なんだろ。わくわくする」月田姉妹のもう一人が言った。 「カイト、怖い顔してる」恵が言った。  海人は小さくうなずき、ゆっくり深呼吸した。 「おれのへいえきはあと二ねんでおわる。でもせんそうがつづけば、おやがいないから、またすぐ、しょうしゅうされるとおもう」海人は言った。 「政府があんなに腐敗してるんじゃあ、戦争はかんたんにはおわらない」月田姉妹の一人が言った。 「世界中があきれて和平工作を投げ出してる」もう一人が言った。 「おれのことはいいとして、リュウのもんだいがある。いま十さいだ。せんそうがつづけば、五ねんごにはぐんたいにとられる」海人は言った。 「そんな話をしないで」恵が首を横に激しく振った。 「かんがえるのがつらくても、かんがえなくちゃならない」海人は厳しい声を出した。 「カイトはなにを考えてるの」恵が怒っている人の眼で訊いた。 「とうきょうに、とくべつながっこうがある。ユー・エス・とうきょうこうっていうんだ」 「ユニバーサル・スクール・東京校」月田姉妹の一人が言った。 「知ってるの?」恵が訊いた。 「幼稚園から大学までの英語による一貫教育、兄弟校への海外留学、それと徴兵免除で有名な学校だよ」月田姉妹のもう一人が言った。 「日本在住の外国人の子供もたくさん通ってる」もう一人が言った。 「そこにはいれば、リュウはぐんたいにとられないですむ」海人は言った。 「どうして徴兵が免除されるの?」恵が訊いた。 「はやいはなしが、カネだ」海人は言った。 「なるほど」隆が言った。 「がっこうにきふきんをおさめると、そのカネがこくぼうしょうにまわって、にほんじんがくせいは、いろんなりゆうがついて、ちょうへいがめんじょされる。そういうしくみになってる」海人は言った。 「外国人|傭兵《ようへい》の司令官、戦争成金、政治家、高級官僚、高級軍人、銀行経営者、TV局社長、新聞社社長、天才歌姫、ムービースター、そういう連中がカネを積んで子供をその学校に入れてる」月田姉妹の一人が言った。 「学校はボロ儲《もう》けだ。国防省もボロ儲けだ。カネがぐるぐる循環する。市場経済の合理性が貫徹する。完璧《かんぺき》だ。なにも問題はない。リュウとメグをそこへ放り込め」もう一人が言った。 「さくらこ、つばきこ、きみたちも、とうきょうへいってほしい」海人は言った。 「あたしたちも?」月田姉妹が声をそろえて訊いた。 「きみたちはあたまがいい。あたまのよさを、ただしいみちにいかしてほしい。そのためには、ちゃんとしたきょういくをうけたほうがいい。カネのしんぱいはいらない」 「カイトが言ってる計画を実行すれば、あたしが考えたこともない、すごい額のおカネが必要になると思うけど」恵が眉《まゆ》をひそめて言った。 「ファンのおじちゃんとビジネスをしてる。カネはあるんだ。とうきょうのせいかつは、イリイチたいいのおくさんをたずねていけば、そうだんにのってくれる」 「イリイチっていう人、外人中隊の中隊長ね」恵が確認した。 「うん。イリイチたいいのともだちが、がっこうのりじをやってて、そのひとが、すいせんじょうをかいてくれることになってる」 「住む場所は?」恵が訊いた。 「イリイチたいいのかぞくとおなじマンションに、あきべやがあった。シンジュクのトヤマっていうところだ。けいやくはすんでる。ほしょうきんもはらった」  海人は紙切れを恵に差し出した。そこにはイリイチ大尉の家族の、新宿区戸山の高層マンションの住所と電話番号が書いてあった。恵は紙切れをうけとると、視線を落として沈黙した。しばらくの間、誰もしゃべらなかった。恵が無言で紙切れを小さく折りたたみはじめたとき、それまで海人の話に耳をかたむけるというよりも、恵の顔色をうかがっていた感のある隆が、唐突に口をひらき、ある意味で事態の本質をまっすぐ指し示す一言を放った。 「ようするに、カイトはおれたちを捨てようってわけかい」  ほかに方法はなかった。それは考えうるかぎり最善の選択だった。  翌々日の朝早く、海人、恵、隆、月田姉妹の五人は、マジェスティックのオーナーになんども感謝の言葉を述べてから、長距離バスで東京へ向かった。国道6号線の掃討と土浦市攻略作戦の成功によって、長距離バスは武装盗賊集団に脅かされることもなく、正午まえには東京都庁近くのバスターミナルに着いた。五人の少年少女を、薄青の眼をしたすばらしい美人と巻き毛の可愛らしい男の子が、満面の笑みで出むかえた。     54  常陸市の北のはずれの海辺のモーテルで、休暇の最後の夜をすごしているときに、竹内里里菜が言った。 「家族を養うために兵隊になる男なんて、腐るほどいるから、べつにめずらしい話じゃないけど、おれたちの家族の場合はちょっとちがうんじゃないか、とリュウは感じたんだと思う。あたしも同じように感じる。カイトは幼く見えるけど、すごく覚めてる。ぜんぶあきらめちゃってるみたいに冷え冷えとしてる。ちがう言い方をすれば、カイトは心を決めてる。おれはあっち側へいくぞ。迷ったりしないぞ。徹底してやり抜くぞ。悪魔とだって取り引きするぞ。それがリュウにはわかった。ようするに、おれとメグをこっち側に追っぱらおうとしてるんだなって」  外は春の嵐が吹き荒れ、波《なみ》飛沫《しぶき》が窓ガラスを叩《たた》く音が切れ目なく聞こえた。暖房のよくきいた部屋で、横向きに寝そべった里里菜の乳房に額を押しあて、海人はなかばまどろみに落ちつつあった。 「おおげさです」海人は言った。 「とぼけてる。カイトはいつからそんなに大人になっちゃったんだろうね」里里菜が言った。 「ファンのおじちゃんはあくまじゃない」 「でもワルよ。すし・バーの近くで見たことある。シベリアの黒い森をうろついてる飢えた狼みたいな眼をしてた」 「こころがあるひとです」 「イリイチってやつも?」 「おくさんもしんせつなひとです」 「ファンとやってるビジネスってなに?」 「そういうことはだれもききません」 「リュウもメグも双子も?」 「いちどもききません」 「想像がつくから」 「つきますよ」 「じゃあ、あたしも訊《き》かないでおく」  海人は、ほんの短い時間、里里菜の片方の乳首を口にふくんだ。それからベッドを降りた。スタンドライトの淡い光が、ナイトテーブルに立てかけたAKM2の銃身をすべり、床の黒いデイパックを照らしていた。海人はデイパックから米ドル紙幣の束を二つとり出して、ベッドにもどった。 「うけとってください」海人は言った。  里里菜が、自分の顔のまえに札束がむぞうさにおかれるのを、視線で追った。 「これなに」里里菜が静かすぎる声で言った。 「もえちゃったけいトラとアパートをべんしょうしたいんです」  里里菜は考え込む眼差《まなざ》しになった。拒絶されるのを怖れている海人へ、ちらと鋭い視線を投げ、それからまた札束を見つめた。やがてかすかな笑みをうかべた。口笛を一つ鋭く吹いた。彼女は札束の封を切って、ベッドの上にまき散らした。もう一束も同じように封を切ると、奇妙な歓声をあげながら、頭上に紙幣を舞わせた。 「まるでギャング映画。あたしはマフィアに口説かれてる売れない女優ってところね」里里菜が笑ってるのか泣いてるのか判別できない奇妙な表情で言った。 「おれをけいべつしてます?」海人はそっと訊いた。 「ちがうの。いちどでいいから、札束を積まれて口説かれてみたかったのよ」  よくわからなかった。うかない顔つきの海人の両肩に、里里菜がよく引き締まった左右の足首をのせた。海人は両手で彼女の骨盤をはさみつけると、引きあげるようにして裏返した。スタンドライトの淡いオレンジ色の明かりのなかに、彼女のすべてがさらされた。 「うんと恥ずかしいことをして」里里菜が辛《つら》そうな声で言った。     55  恵と隆が、学力テストと面接を経てユニバーサル・スクール・東京校の中学一年と小学五年に、それぞれ編入できたという知らせが入った。十七歳の月田姉妹の方はいくらか問題を抱えていた。IQは非常に高いのだが、中学校教育をほとんどうけていないため、彼女たちは中学三年に編入された。 「あいつら、べつにくさってないよ、やる気もないみたいだけどね」隆が電話で、姉妹の現況をそんなふうに伝えた。  常陸軍分割をめぐる暗闘は、師団司令部が押し切られるかたちで決着した。常陸軍は通常の二倍の兵員をようする歩兵連隊として存続することになった。  四月下旬、訓練が終了すると、部隊の再編成がはじまった。海人は中隊本部に呼ばれて、新しい中隊長を紹介された。土浦市のウエスト・コースト・ホテルで、海人たちの説得と事態収拾にあたった、例の女中尉だった。名前は白川|如月《きさらぎ》、陸軍士官学校卒、年齢は二十代後半という噂だった。  白川中尉は、薄くルージュを引いた唇をかすかにひらき、熱のこもらない口調で海人の経歴についていくつか質問した。ほとんど視線を合わせなかった。中尉はかんたんな面談をおえると言った。 「おまえをきょう付けで第1小隊の小隊長に任命する。階級は軍曹。十六歳の小隊長はおそらく全国でもはじめてのケースになる。少年兵にも務まることを証明しろ」  海人は人事の希望を訊かれ、こたえると、中尉はすべてかなえてくれた。池東仁、ボリス・ハバロフ、田崎俊哉の三人が分隊長に、クワメ・エンクルマと葉郎が小隊本部付きになり、海人は三十数人の兵士のボスになった。  イヴァン・イリイチ大尉が、昇進祝いに食事に誘ってくれた。内乱御殿がならぶ高級住宅街へいき、マンションの一階にある地中海料理のレストランで、海人は生まれてはじめてフルコースの食事をとった。  店内には、アメリカ軍将校や日本系マフィアの常陸TCの幹部らしき姿もあった。一年まえ、憎しみをたぎらせてプーシキン通りをうろついた海人と、その夜の彼はまったくべつ人だった。店の表には、12・7ミリ重機関銃を搭載した軽装甲機動車と小銃手を待たせてあり、常陸TCの本拠地に乗りこんできたという緊張感はなかった。 「リュウもメグも双子もみんなかわいい。女房がそう言ってたぞ」イリイチが言った。 「おくさんにおせわになります」海人はぺこりと頭を下げた。  イリイチはワインを飲みながら、めずらしく息子についてよくしゃべった。数学者か音楽家にするのが夢だという。それから部隊編成の話になった。 「俺が分割案に強硬に反対してたのは知ってるな」イリイチが言った。 「はい」 「なぜ反対したと思う」 「せっかくあつめたぶかを、はんぶんもっていかれちゃ、だれだってはんたいします」 「もちろんそれもあるが、俺は歩兵部隊を中核に、ヘリ中隊、ミサイル大隊、施設隊、後方支援隊をくわえて、自己完結的な軍隊に編成しなおすことを要求したんだ。自己完結的ってことは、ようするに、独自に作戦を立てて、それを独自に遂行する能力を持つってことだ」 「かってにせんそうができる」  海人の言葉にイリイチが愉快そうに笑った。 「おまえの言葉はいつも単純な真実をつく」 「イリイチたいいのせいえいぶたいが、そのぐんたいのじっけんをにぎれる」 「師団司令部はそれを嫌った。だから、分割案は引っこめたが、常陸軍を歩兵連隊のまま残した。つまり単独では大都市を攻略できないようにした。あいかわらず師団司令部の支援が必要になる」 「しらかわちゅういは、イリイチたいいのかんがえに、さんせいしたんですか」 「あの女は、分割されようが、このままだろうが、どうでもいいという態度をとった」 「よくわかりません」 「なにがわからないんだ」 「しらかわちゅういが、なにをかんがえてるのか。おれたちのちゅうたいに、かんしんがあるようにもみえませんし」 「むりもない。孤児中隊の中隊長なんてのは、吹《ふ》き溜《だ》まりのポストだからな」 「ああ」海人は納得する声を出した。 「白川はいつでもどこでもテントで野営する。基地で訓練中も、都市を占拠しても、テント暮らしだ。しかも部下を遠ざけて、自分のテントに一人でこもる。テントのなかでなにやってるのか偵察してこい」 「そんなことできません」海人は真顔で拒絶した。     56  海人は、自分の小隊に強姦《ごうかん》と民間人からの略奪を禁じた。規律はほぼ守られたと言ってよい。給料の保証と、上官への制裁という土浦市での英雄|譚《たん》が、部下の忠誠を獲得したのだ。  常陸軍は六月までに茨城県北部を完全に制圧すると、久慈川にそって福島県南部に侵入した。孤児中隊は、イリイチの中隊と交代で出撃をくり返した。ときには二つの中隊が共同作戦をとることもあった。  ビジネスは順調だった。ファン・ヴァレンティン本人、あるいは彼の密使がたびたび前線をおとずれて情報を交換した。小隊の守備範囲を通過する車両はすべて検問して、略奪品やドラッグがあれば押収し、ソムサックに売り払った。  海人は、蓄えた資金を、やがて孤児中隊全体のために使いはじめた。不足する武器・弾薬を闇市場で購入し、装備をととのえた。七月から給料の支払いが滞ると、海人は政府に代わって、孤児中隊の八個小隊全員に給料を気前よく支払った。  九月上旬、海人は棚倉《たなぐら》町で十七歳の誕生日をむかえた。そのころには孤児中隊の戦闘員のほぼ全員が、海人に忠誠を誓うようになっていた。  同月十七日、ファンの情報をもとに三個小隊を動かして、国道118号線を南下してきた常陸TCのコンボイを急襲し、美術品、金塊、ドラッグを奪った。土浦市攻略戦以来の大戦果だった。事情はすぐ白川中尉に伝わり、その日の夜、海人は呼び出しをうけた。中尉は個人用テントの外で待っていた。 「ファン・ヴァレンティンを知ってるな」中尉が薄闇のなかで言った。 「はい」海人は言った。 「一時間ほどまえワイロを持ってきた。信用できる男か」 「しんようできます」海人は、中尉はワイロを突き返したわけではなさそうだと思いながらこたえた。 「人身売買には、おまえもファン・ヴァレンティンも手を出さないという話だが」 「だしません」 「ドラッグを売りさばくのはオーケーなのか」 「オーケーです」 「おまえたちのビジネスに、なにか倫理的な基準でもあるのか」中尉が軽い口調で問いかけた。  海人は言葉につまった。ドラッグが人を頽廃《たいはい》と死に至らしめるという認識はあった。だがドラッグ取引の是非について、あるいはそれと人身売買のちがいについて、自分に深く問いかけたことはなかった。青い錠剤を押収してソムサックに引き渡す。これに抵抗感はない。コンテナにつめ込まれて絶望している女の子たちを見つければ、怒りで胸がふるえる。そういうリアリティの差があるだけだった。言葉が見つからないまま、海人が立ちつくしていると、「好きにやれ」中尉は言い放ち、さっさとテントのなかに消えた。     57  翌、応化十三年三月、海人、エンクルマ、葉郎、ボリスの四人は、一年ぶりに二週間の休暇をもらった。  孤児中隊の少年兵の大半は休暇をとらずに従軍する。彼らは帰るべき故郷を持たず、再会をよろこび合う兄弟もいない。戦場の恐怖はあるが、街へ放り出されて孤独を味わうよりも、食事の心配がなく、信頼のおける仲間と暮らせる軍隊生活をえらぶのである。  エンクルマと葉郎とボリスは部隊にとどまった。そうした境遇にある部下への気づかいから、海人は恵に電話をかけ、理由を説明して、東京で休暇をすごさない旨を伝えた。 「カイトの気持ちはよくわかる。仲間を大切にしてね」恵が電話で言った。  海人は輸送車に便乗して常陸基地にもどり、市内で竹内里里菜と二日間だけすごした。もちろんそのことは東京の家族には黙っていた。  白河市攻略戦がはじまった四月下旬、海人の小隊は、国道289号線で常陸市方面へキャベツを運ぶ大型トラックを停止させた。コンテナの奥に、若い女四人、少年五人、少女十八人が、手錠とさるぐつわで拘束され、押し込まれていた。運転手二人を訊問《じんもん》して、少女たちを拉致《らち》した白河市の部隊名と、荷受けの奴隷商を吐かせたのち、山林のなかで処刑した。  海人は、救出した人々を、彼らが希望する土地へ送りとどけた。行き場のない孤児は、常陸市の二つの孤児院に連れていき、財政的な支援を継続するという約束をして、どうにか引きとってもらった。その事件以降、札束をつめた小型のジュラルミンケースを、葉郎に保管させて、臨時の出費に対応した。  五月中旬、郡山《こおりやま》市近郊で武装勢力を攻撃していた孤児中隊は、南下してきた仙台軍の圧力をうけて、須賀川《すかがわ》市方面へ退却をはじめた。そのさなか、隆から電話連絡が入った。 「ざんねんな報告だよ。双子が退学になった」隆が言った。 「なんで」海人はびっくりして訊《き》いた。 「国語の教師をカツアゲしたんだ。セクハラされたから、頭にきてカネを出せってナイフをちらつかせたって言ってるけど、ほんとうのところはわからないね」 「カツアゲのりゆうは、べつにあるっていうのか?」 「あいつら、たんじゅんに学校をやめたかったんじゃないのかな」  海人はほんの短い時間、考えをめぐらした。 「おれもそんなきがする」海人は言った。 「だろう?」隆は快活な声で言った。     58  南下してきた仙台軍は、海人がはじめて遭遇する統制のとれた軍隊だった。どちらにも相手を壊滅させる意図はなく、数日間、小戦闘があったのちに、臨時の軍事境界線を定めて休戦が成立した。  常陸軍は、東北南部最大の武装勢力=いわき軍の拠点であるいわき市攻略にそなえて、常陸基地にもどることになった。  その日、海人の小隊は、JR水郡線の東側のゆるやかな丘陵地で、昼食のあとのまどろみを愉《たの》しんでいた。海人は葉郎に肩をゆすぶられて眼をあけた。車列が近づいてくる。軽装甲機動車で護衛されたマイクロバスが着き、数台のTVカメラをふくむプレスの連中がどかどかと降りてきた。 「小隊長はどこにいる」黒いひげの大男の外国人記者がエンクルマに訊いた。  海人は隣の草の上に寝転んでいた池東仁に追い払えと命じた。東仁が小銃を空へ向けて撃ち、彼の分隊がプレスに銃口を向けた。 「連隊本部が取材許可を出したんだ」黒ひげの記者がペーパーを見せて言った。  精鋭ぶりが知られるようになった孤児中隊に、プレスの関心が以前にもまして集中していた。だが子供の人権問題がからむため、連隊本部はこれまで取材を許可しなかった。  プレスを護衛してきた軽装甲機動車に、中隊本部付きの軍曹が乗っていた。 「ほかへいってくれませんか」海人は軍曹に頼んだ。 「やつらはおまえに関心があるんだ。しょうがねえだろ。孤児ではじめての小隊長だからな」軍曹が言った。 「おれのほうはプレスにかんしんがありません」海人は言った。  軍曹が手を出した。海人は米ドル紙幣をにぎらせた。軍曹がプレスに移動を知らせると、抗議の声があがった。 「うるさい! でていけ!」葉郎が怒鳴った。  TVカメラをかまえた男の足もとに、東仁が小銃弾を連続して撃ち込んだ。悲鳴と土煙があがり、プレスがマイクロバスで立ち去った。  静かな午後がもどった。水郡線の線路の向こうに、阿武隈川の川面が見え、初夏の陽の光にきらめいていた。川の西岸には、仙台軍の二個中隊が展開する須賀川市の中心街がある。ふたたびまどろみに落ちかけたとき、銃声と女の悲鳴が聞こえた。海人は反射的にAKM2をつかんだ。堤防の上に人影が三つあらわれた。ひょろっと背が高い一人は、記者のようで、胸に斜めにカメラとショルダーバッグをかけ、両脇の二人の小銃手を引きずるように近づいてきた。ヘルメットから縮れた金髪がはみ出している。頬骨にそばかすを散らした白人の女だった。 「かくれてたのか」海人は訊いた。 「取材させてよ、佐々木海人軍曹。白川中尉にあなたの話をいろいろ聞いてる。すごく関心がある」女記者が小銃手の腕を払って流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。  海人は汗と埃《ほこり》にまみれた記者の顔を見た。緑がかった青い眼は、なにを考えているのか読みとれない。海人は胸からぶら下がっている記者証に眼をとめた。 「香港プレスのキャロル・クリストフ」女記者が握手をもとめた。  海人は握手におうじなかった。 「カメラをわたせ」 「どうして」 「あとでかえす。しゅざいはおれひとりでうける。そのじょうけんをのまなければ、いますぐくるまでおくりかえす」 「厳しいのね」 「プレスのやつは、みんなずうずうしい」  海人の言葉に、クリストフは小さな笑みをこぼして、エンクルマにカメラをわたした。 「ねえ、みんなの写真をとってあげて」クリストフが幼稚園児を引率する先生の口調で言った。  エンクルマがうれしそうな顔をしてカメラのファインダーをのぞいた。 「しゃしんなんかとるな!」海人は厳しく言った。  エンクルマがカメラを降ろしてその場を離れた。クリストフは苦笑して草の上であぐらをかいた。 「すわろうよ」クリストフが、AKM2を手に立っている海人を見あげて言った。  海人は腰を下ろして、AKM2を膝《ひざ》の上に寝かせた。 「なんでそんなに神経質なの?」クリストフが訊いた。 「テレビで、こじのしょうねんへいをみたことがある。しゃべりたくないことを、むりやり、しゃべらされてた。きもちがいいもんじゃなかったね」海人は言った。  クリストフが、ほんの短い時間、海人へ視線をそそぎ、ショルダーバッグからノートをとり出した。 「気持ちがいいもんじゃなかったっていうところを、もうすこし説明して」クリストフが言った。 「おとうさんはどうしました。おかあさんはどうしました。ぼくはたくさんひとをころしました。そいつはそんなことをしゃべってた。おれたちはみせものだよ」海人は言った。 「そういうふうにうけとるのか」クリストフがふんふんとうなずいた。 「おんなじえいぞうを、なんかいもみた」 「その映像がニュースとして価値があるからよ」 「おれたちは、たぶん、ぜんいんが、せんそうでしぬ。まんがいち、いきのこったって、おとなになったときに、むかしのことをおもいだしたいやつなんて、ひとりもいない」  クリストフはノートをめくった。綴《と》じ目を指でしごき、しばらく考えをめぐらしてから、ノートをぽいと投げ捨てた。 「きょうは取材しない」クリストフが言った。 「そうしてくれるとありがたい」海人は言った。 「プレスを嫌ってるのね」 「おれたちとあんたたちはちがう」  海人の言葉に不足している言葉を、クリストフが補った。 「俺たちは小銃と手榴弾《しゆりゆうだん》とロケット砲を担いで突撃する。敵が撃ってくる。怖くて逃げ出そうとすれば味方に背中を撃たれる。だから突撃するしかない」 「そうだ」 「敵の肉体がばらばらになって飛び散る。仲間が隣で倒れる。足が片っぽう、なくなってる。死ぬのは嫌だって、ワアワア泣く。助けてやりたいけど助けてあげられない。孤児の少年兵はなおも前進する。街を占領する。味方が女や子供をレイプする。見ないふりをする。あるいは自分もレイプにくわわる。つぎの街に突撃する。地獄の日々をくり返す。それがなんヵ月もなん年もつづく」 「それがせんそうだ」 「わたしの仕事は戦争の真実を世界に知らせることなの。一枚の写真が戦争を阻止することだってありうると信じてる」 「うそつけ」 「どこが嘘?」 「せかいは、ひさんなしゃしんなんかみなくたって、せんそうのしんじつをしってる」 「すでに?」 「とっくのむかしに」 「ふうーん」  桜子と椿子の考えではそういうことなんだ、と海人は胸のうちで言いそえた。クリストフは海人の言葉に考えをめぐらしながら、ワークパンツのポケットをまさぐって、ライターと煙草を出した。 「あんた、なにじん?」海人は訊いた。 「イギリス国籍のハンガリー人」クリストフが言った。  クリストフがノートにかんたんな世界地図を描いて、ハンガリー、イギリス、香港、日本を、それぞれ丸印で示した。海人には位置関係がまるで飲み込めなかった。クリストフはさらに、彼女が従軍したというアフリカ諸国、東欧、ロシア南部を図示した。 「せかいがどうなってるのか、わからないよ」海人は困った顔を向けた。 「吸う?」クリストフがパッケージから煙草を一本抜いて差し出した。 「すわない」 「酒は」 「ばかいうな」 「未成年だから?」 「そうだよ」 「堅物だってね。白川中尉が言ってた。中尉は、あなたにとってどんな人?」クリストフが訊いた。 「ちゅうたいちょう」海人は不機嫌な声で言った。 「そういうことじゃなくて」 「こうへいなひとだとおもう」  クリストフが煙草に火を点《つ》けた。吐き出された煙の塊が崩れて草の上をただよった。 「人間をよく見てる。おどろいた」クリストフが言った。 「ちゅういは、がいじんちゅうたいともうまくやってる。おれのほうにふまんはない」海人は言った。 「白川中尉は軍人の名門の出でね、両親は男の子を望んだんだけど、生まれたのは娘一人だけ。彼女はむりやり軍人にさせられたの」 「それがストレスのげんいんだ」  お利口さん、とでもいうように、クリストフは海人に微笑みを投げた。 「尾崎正実《おざきまさみ》大佐っていう、水戸の武装勢力の司令官だった男を知ってる?」 「しらない」 「白川中尉は、父親が首都|蜂起《ほうき》に失敗して水戸に逃げ込んでから、母方の姓を使ってるの。つまり尾崎大佐は彼女の父親。でも一昨年の八月に、水戸の街で殺されちゃったけど」 「ちゅういのおとうさんが?」 「バイクに乗った二人組が、尾崎大佐の車に近づいてサブマシンガンで撃ち殺した。事件は未解決のままになってる。内部犯行説が有力ね。つまり権力闘争があったってこと」 「たいさがやられたあと、だれが、みとのぶそうせいりょくをまとめたの?」 「現在の水戸軍、第52連隊の連隊長、尾崎|秀樹《ひでき》少佐よ。彼は殺された尾崎大佐の甥《おい》っ子。つまり、白川中尉の従兄弟《いとこ》」 「ふうん」     59  あいかわらず、生きている母親を想像できなかった。だが二年間の戦闘経験を経て海人が獲得した権力が、そして戦況のあらたな段階が、母親の捜索にいくらか現実味を与えはじめた。  キャロル・クリストフの取材をうけたおよそ三週間後の、応化十三年六月上旬、北茨城インターまでの常磐自動車道の補修工事が完了して、首都圏から部隊・物資の移動が数時間で可能になった。  同月十一日未明、すでに配備をおわっていた第1師団のミサイル大隊が、〈いわき軍〉の司令部、軍施設、小名浜港に激しい攻撃をくわえて、いわき市攻略戦の火ぶたが切られた。  海人は、進撃の準備をととのえた孤児中隊の、すべての分隊長クラスに、母親の写真とソムサックのメモを配布して、応化三年八月の常陸市略奪に関わったと思われる四人の武装勢力司令官の拘束を要請し、高額の報奨金を約束した。  いわき軍は兵員数二万とも三万とも言われているが、雑多な武装勢力の連合体で、戦力の実態は明らかではなかった。  政府軍は二個の歩兵連隊を投入した。水戸軍=第52歩兵連隊は郡山市へ抜ける国道49号線と、それ以南の道路を封鎖した。常陸軍=第51歩兵連隊は、国道6号線と県道を北上していわき市の南部に進撃した。  それに呼応するかたちで、仙台軍の三個歩兵連隊が、国道6号線、国道399号線、磐城《いわき》街道の、三つの幹線道路を南下して、いわき軍に北側から圧力をくわえた。  いわき軍は長射程・大口径のハイテク火力で圧倒的に劣っていた。開戦から四日間で、大半の船舶と小さな漁港をふくむすべての港湾設備を、政府軍のミサイル攻撃によって破壊されて、海への出口を失った。陸路は全方面を封鎖され、脱出する車両の長い列ができた。そこでいわき軍は兵力を南部戦線に集中させて大攻勢に出た。小名浜港から直線で十三キロメートル南の勿来《なこそ》町に展開する、政府軍のミサイル大隊の壊滅が、作戦の目的だった。迫撃砲と榴弾《りゆうだん》砲の支援をうけた歩兵の大部隊が、掩体《えんたい》に隠していた十数両の戦車を先頭に、常陸軍の防御区域に侵攻した。  常陸軍側は例によって前線に孤児中隊と外国人中隊を投入した。最初の激戦が、いわき市南部の鮫川《さめがわ》北岸と南岸で二週間にわたってくり広げられた。いたるところで火災が発生し、街は破壊しつくされた。海人の小隊は、ほぼ一個分隊の兵力を失い、ボリスと俊哉が負傷して野戦病院へ送られた。民間人と双方の軍に多数の死傷者を出したのち、常陸軍がいわき軍を鮫川の北側へ押しもどして、どうにか戦闘が鎮静化した。     60  海人は、小隊を鮫川にかかる江栗大橋のたもとに集結させ、いわき市から脱出をはじめた車の検問にあたらせた。  太陽が阿武隈山系の山の際に沈み、車のヘッドライトがまぶしく眼に映る時刻だった。常陸市方面へ脱出する車の長い列ができ、一分間に数メートルていどのペースで、のろのろとすすんでいた。無線機で中隊長に短い報告をおえたとき、海人は軽く肘《ひじ》をとられた。浅黒い肌に鮮やかな緑色のサリーを巻きつけたインド系の中年女だった。 「あなたが司令官?」女が外国|訛《なまり》の強い日本語で訊《き》いた。 「けんもんのせきにんしゃはおれです」海人はこたえた。 「おばあちゃんと子供を連れて常陸へ逃げるんだけど、どうしてもおカネが必要なの。だから買ってくれない?」 「なにを」海人は訊いた。 「車に積んである」女が海人の手首をつかんだ。  樽《たる》のように肥えたインド系の中年女は、検問所の手まえの路肩にとめた高価そうな赤いステーションワゴンの後ろにまわった。濃い口ひげをたくわえた亭主らしい男が運転席から用心深い視線で海人を追った。後部座席に、白髪の老女と十歳ぐらいの男の子が一人いた。中年女がトランクルームのドアをあけ、荷物にかぶせた毛布の端をめくった。人間だった。プラスチック製のさるぐつわをはめられた長い黒髪の女が、眼球だけ動かして海人の方を見た。 「日本人。二十二歳。すっごくきれいな肌してる。頭も賢い。つくばの外国語大学の学生よ」インド系の中年女が言った。  海人は毛布をぜんぶ引きはがした。大学生だという女は、紫色のロングドレスを着て、後ろ手に手錠をかけられ、下半身は粘着テープで縛られていた。 「いろいろ問題はあるんでしょうけど、うちもおカネを払って手に入れたわけだから、そのなん割かはとりもどしたいのね」インド系の中年女がガレージセールでもやるような口ぶりで言った。 「ほどいてやれ」海人は葉郎に命じた。 「おカネ払ってよ。千五百でどう。もちろん米ドルで」インド系の中年女がいそいで言った。  エンクルマが中年女のせり出した腹に銃口をめりこませた。葉郎が運転席を威圧しつつ、手信号で小銃手を呼んだ。ほっそりしたからだつきの、その日本人大学生の拘束を解くと、軽装甲機動車に乗せて、小隊本部にしている錦《にしき》町の郵便局に連れて帰った。  七月の暑い夜だった。小隊本部要員と第1分隊は郵便局のパーキングで夕食をとった。日本人大学生は、名前を訊かれてもこたえず、無言のまま、孤児兵たちから離れた場所でレーションをきれいにたいらげた。 「かぞくはどこにいるの?」海人は訊いた。  大学生は憎しみのこもる視線をちらと向けただけで、こたえなかった。 「つくばにもどるなら、バスだいをだすけど」  それも返事がなかった。空気を切り裂く音が夜空にひびいた。 「ちかいぞ!」海人は叫んだ。  全員が郵便局の地下室に飛び込んだ。120ミリ迫撃砲弾が東側で炸裂《さくれつ》して、天井をゆるがした。砲撃は十五分ほどつづいておさまった。誰かが石油ランプをつけた。まぢかに大学生がいて、顔にかかった黒い髪をなであげ、海人の視線に気づくと、そっぽを向いた。大学生はそのまま、交代で仮眠をとる孤児兵たちといっしょに夜を明かした。  翌日、パーキングで朝食をとっていると、大学生が地下室から出てきた。海人は二食分のレーションとつくば市までの交通費を彼女に渡した。 「出てけってことか」大学生がはじめて口をひらいた。 「じゃまだからね」海人は言った。 「おまえたちはみんなホモか」  エンクルマがげらげら笑った。 「きみをおそわなかったから?」海人は訊いた。 「おかしいだろ」大学生が責める口調で言った。 「おかしくないよ」  大学生は短い沈黙をおいた。 「それともぼくが男だってわかったのか」  海人は、一瞬、その言葉の意味が理解できずに混乱した。明るい陽の光の下で見る大学生の、透きとおるような薄い皮膚は、インド系の女が称賛したように、胸を衝《つ》かれるほど美しかった。 「きみはおとこなの?」海人は訊いた。  大学生は表情を消したまま、ドレスの襟から手を突っこむと、胸のパットを二つとり出して、ぽいぽいと放り捨てた。エンクルマと葉郎がそれを拾いあげ、陽の光にかざしてまぬけな顔つきでながめた。 「ちゃんとついてる」大学生がスカートをたくしあげた。  下半身の肉づきは、女性のようにやわらかそうに見えたが、ドレスと同じ色のビキニパンティから、男性性器のシルエットがあらわになっていた。 「こえがちょっとおとこっぽいかな」海人は眼をそらして言った。 「男なんだよ」大学生がスカートを下ろした。 「でもひげがはえてないね」海人は疑念を引きずる声で言った。 「ずっと女性ホルモンを射たれてる」大学生が腕に注射をする仕草をした。 「ふうん」 「おまえたちは、女だろうが男だろうが見境ないだろ」 「ごうかんはきんしだ」 「嘘つけ。つくばで政府軍に強姦されてから、三年間で、もうなん百回もやられてる。反政府軍にもやられた。ガキの兵隊をいっぺんに二十人ぐらい相手にしたこともある」  海人は首を横に振った。 「こじちゅうたいと、がいじんちゅうたいでは、そういうつみをおかすと、しょばつされる」 「こじちゅうたいってなんだ」大学生が訊いた。 「こじだよ。おやがいないんだ」 「おまえたちは孤児なのか」 「そうだ」 「孤児中隊と外人中隊は、例外的に正義の軍隊なのか? そんなはずはない。敵を殺すのがおまえたちの商売だ」 「きみのいうとおりだとおもう。だけどおれたちはごうかんをゆるさない」  大学生は海人に真摯《しんし》な視線をそそいだ。 「おまえ、カネあるか」大学生が訊いた。 「なんのカネ?」 「ぼくを買うカネ」 「きみをかうつもりなんかない。きみはじゆうだ。すきなところへいけばいい」 「どこへもいく気がないんだ。腹がへる、ションベンがしたくなる、眠くなる、それ以外の意思は、ぼくに残ってない。人格の背骨のようなものが失われてる。わかるか」 「わからないね」 「いままでどおりがいちばん楽なんだ」 「いままでどおりって?」 「バングラデシュ人夫婦の奴隷」 「ふうん」 「ぼくを買えよ。カネさえ払えば、ぜんぶおまえのものだ。ぼくの時間、ぼくの肉体、そんなものがあるんならぼくの魂も、ぼくの人格と人生のぜんぶを、おまえにくれてやる。いくらでも殴らせてやる。いつでもやらせてやる。切り刻んで野良犬にくれてやるのもおまえの自由」 「きみ、あたまがへん」 「たった一つのささやかな希望をしゃべってるんだ」 「ぜったいへん」海人は顔をしかめて言った。  大学生は一つ短く息を吐くと、地べたに尻《しり》をつき、大きく広げた膝《ひざ》の間に、ドレスのスカートの生地を手で押しこんだ。 「おまえ、字の読み書きができるか」大学生がしばらく考えをめぐらしてから訊いた。 「できない」海人はこたえた。 「ひらがなは?」 「ひらがなはなんとかよめる」 「ぼくを買えば、ちゃんとした読み書きと算数を教えてやるぞ」  ずっとむかし、ぼんやりと学校へいきたいと思ったことさえ、海人は忘れていた。だが、当時もいまも、無意識のうちに教育をうけることを熱望していたのかもしれない。大学生の提案に、海人は反射的に飛びついた。 「じゃあ、きみをかていきょうしにやとうってのは、どう?」海人は言った。 「雇用関係をむすぶ気はない。さっきも言ったように、ぼくは主体を放棄したいんだ。おまえに奴隷として買われる。それが望みだ。千ドルでどうだ。百ドルでもいいぞ」大学生はあいかわらず意味不明の言葉を吐いた。     61  大学生の偏屈で風変わりなロジックは、どうでもいいことだった。海人は、前線に近い県境の茨城県側に1LDKのマンションを確保して、家庭教師として雇った彼を住まわせた。  彼は本名を明かさず、バングラデシュ人夫妻に与えられたガウリという名前に、雅宇哩という漢字をあてて使った。ガウリはサンスクリット語の〈白〉という言葉で、ヒマラヤで瞑想《めいそう》して白い美肌を手に入れた女神の名前であり、またパキスタン軍が開発した射程九百マイルのミサイルの名前でもあるという。  雅宇哩は、つくば外国語大学に入学した年の秋、大学構内に侵入してきた政府軍に拉致《らち》された。四、五日、もてあそばれたのち、奴隷商人の手を経て武装勢力に売られ、性奴隷として部隊とともに北関東各地を転々とする間に、女装を強要されるようになった。昨年の十一月、こんどは、いわき市でブティックやレストランを経営するバングラデシュ人夫妻に転売された。 「廃車費用ぐらいの値段だった。白人女の百分の一だ。あのイカれた夫婦は、カラオケ用に買ったマンションの部屋にぼくを監禁して、メシを食うときと排泄《はいせつ》のとき以外は、手錠をかけっぱなしにしやがった。客をとらせたわけじゃない。亭主と女房は、ある特殊な情熱を共有してたんだ」  海人が借りたマンションのLDで、最初の授業がはじまるまえに、雅宇哩はそんな話をした。彼はタンクトップの下にブラをつけ、夏のスカートをはいていた。 「なんでおんなのかっこうしてるの?」海人は訊いた。 「屈辱を忘れないために」雅宇哩がこたえた。 「よくわからない」 「バングラデシュ人夫婦の特殊な情熱って、どういうものかわかるか」 「べつにしりたくない」 「恥ずかしくて口にできないような情熱だ」 「ねえ、はやくじゅぎょうをはじめようよ」  インターネットのサイトからダウンロードした一編の小説のコピーが、海人に手渡された。生まれてはじめて小説を読むという現実に、彼はいたく感激した。教材にえらばれたのは夏目漱石の『夢十夜』だった。雅宇哩がすべての漢字にルビを振ってくれた。海人はそれを声を出して読んだ。  六月下旬から七月にかけて激しく展開された最初の戦闘がいったん終息すると、戦線が膠着《こうちやく》状態に入った。散発的な砲撃のもとで、ゆるんだ日常がだらだらとつづいた。それは戦場のリアリティの一面だった。  そんな時期を利用して、海人は投降した敵兵士および脱走兵を訊問《じんもん》した。賞金をかけて捜している四人の司令官の一人、辻少尉と名乗る男が、二年まえにいわき市内で病死したという情報を手に入れたが、裏づけをとれなかった。  政府軍と仙台軍の双方は、いわき市への食糧、武器、弾薬の流入を厳しく取り締まった。禁酒法が地下経済を活気づかせるように、封鎖がつづくことで、闇の流通がうまみのあるビジネスになった。その利権に軍のすべてのレベルの部隊が群がった。右手で禁じて左手でばく大な通行料をうけとる、これが都市攻略戦を長引かせる主要な原因の一つである。  海人は、イヴァン・イリイチ大尉と棲《す》み分けをして、自分の二個分隊を江栗大橋の検問所に常駐させ、その橋を通過する人と物資に関わる利権のすべてをにぎった。海人の部隊の規律と戦闘力、孤児中隊を実質的に養っている彼の資金力、および白川中尉の黙認が、それを可能にさせた。  ファン・ヴァレンティンが、海人と緊密に連絡をとりつつ、ビジネスを仕切った。いわき軍支配地区に故買商のソムサックを送りこみ、出口を失ったドラッグを安値で買いとらせて江栗大橋から搬入した。海人の部隊が、それを常陸市のファンの事務所まで護送した。でかいビジネスが成功すると、ファンは白川中尉に多額のワイロをとどけた。  封鎖線の防衛、検問、ビジネス、捕虜への訊問と多忙な日々のなかで、海人は時間をひねり出すと、雅宇哩の部屋に車を飛ばした。泊まりこんで、算数と日本語の読み書きの授業をうけ、宿題をもらって前線にもどった。  八月初旬、マンションのべつの階で強盗殺人事件が起き、借り主の娼婦《しようふ》が室内で強姦《ごうかん》されたうえ、頭を拳銃《けんじゆう》で吹き飛ばされた。 「セキュリティをなんとかしろ」雅宇哩が言った。 「きみが、スカートをぬいで、ひげをはやすほうがさきだ。それだけで、かなりきけんがへる」海人は言った。 「ぼくの生き方に文句を言うな」  女装をやめろという説得を、雅宇哩はがんとして拒否した。海人は仕方なく、三重ドアの工事を発注し、彼に自動拳銃を一丁与えた。そういう世話の焼ける面もあったが、教育者としての雅宇哩は、相手の言葉に耳を傾ける謙虚さと、できの悪い生徒をくり返しほめ讃《たた》える辛抱強さをそなえていた。  マンションのLDで、海人が分数の足し算と格闘しているときに、雅宇哩が小休止を入れた。二人はソファに移って、冷たいジュースを飲んだ。 「いままでに、おまえはだいたいなん人ぐらい殺してる?」雅宇哩が訊《き》いた。 「わからないね」海人は言った。 「言いたくないのか?」 「きみはいじわるだよ」 「中隊単位で数えたら千人は殺してるだろ」 「千人は殺してる」海人はあっさり認めた。 「慚愧《ざんき》にたえない残忍さと、のうてんきとしか言いようのない無邪気さが、おまえのなかで破綻《はたん》なく同居してる。信じられないことだ。ある種の奇跡だ。そういう人間は、とことん鈍感なやつか、悪魔的なやつか、それとも単純に幼稚だってことなのか。どう思ってるんだ、自分自身では」  海人は、正直なところ、自分がどういう人間なのかよくわからなかった。 「さあ、どうかな」海人はあいまいにこたえた。 「幼稚なら救いがある」雅宇哩が言った。 「たぶんようちなんじゃないかな」 「おまえと話してると頭がおかしくなる」 「おたがいさまだと思うね」 「気分転換に一発やるか」 「一ぱつって?」 「セックスだよ。まだ犯《や》ってないっていうのは、不自然じゃないか」  海人は首を横に強く振った。 「ガウリはおれの先生だ」 「最高じゃないか。先生を犯れるんだぞ」 「わるいけど、男にきょうみないんだ」  ソファの片方の端で、雅宇哩が夏のワンピースの細い肩|紐《ひも》を腕の方へはずした。ブラから盛りあがっている白い胸に、海人は眼をとめた。 「ちゅうしゃしたの?」海人は訊いた。 「たいした乳じゃないが、あることはあるんだ。試しに吸ってみろよ」雅宇哩が言った。 「おれ、ガールフレンドいるから」 「どこに」 「ひたちに。うそじゃない」 「商売女か」 「ちがう。年上だけどね」 「いくつだ?」 「きみより、ずっと、お姉さん」海人は得意そうに言った。     62  ファン・ヴァレンティンの店で、海人は故買商のソムサックとひそかに会い、いわき軍支配地区の状況を聞いた。その際に、捜している四人の司令官のうち、石渡《いしわたり》大尉と名乗る男の消息がわかった、とソムサックが言った。 「そいつはいま、三百人の部隊を率いて四倉《よつくら》漁港の周辺で仙台軍とにらみ合ってる」  海人は地図で四倉漁港を捜した。 「ひたちぐんのぜんせんから、五十キロあります」海人は言った。 「いわき軍支配地区を中央突破して、その距離を前進するのはきついだろ」ファンが言った。 「なかまにぎせいが出ます。そのうえ、イシワタリを生きたまま、こちらがわへつれてこなくちゃなりません」海人は言った。 「石渡がおまえの母親の情報を持ってる保証もない。戦況の変化を待った方がいいんじゃないのか。モニターはちゃんとつづける」ソムサックが言った。 「よろしくおねがいします」海人は言った。  その日、ファンの眼差《まなざ》しが陰っていた。話題は常陸TCとロシアマフィアの抗争に移った。ビジネスが活気づく一方で、ドラッグの争奪戦がマフィア間の緊張を高めていた。東京の政府と関係が深い常陸TCが、治安維持部隊の武力を後ろ楯《だて》にして、ロシアマフィアへの圧力を強め、小競り合いが頻発しているという。 「四派連合はもはや実体がないんだ。おそらく徹底的なつぶし合いがはじまる。最後は誰かの一人勝ちでおわる。腹をくくった方がいいかもしれないな」ファンが言った。  野戦病院で治療をうけていたボリスと俊哉が、八月中旬に部隊に復帰した。また福島県南部で徴兵した孤児の訓練が終了して、孤児中隊は戦力を回復させた。  八月三十日の早朝、ファンの不安が的中した。市内二ヵ所で、ほぼ同時刻に、襲撃事件が発生し、ロシアマフィアの幹部五人をふくむ十一人が射殺された。さらに九月三日の白昼、ロシアマフィア三組織のうち最大勢力のボスが、プーシキン通りでロケット砲攻撃をうけ、車ごと吹き飛ばされた。  同じ日の深夜、ファン・ヴァレンティンから電話が入った。 「常陸TCに機関銃とロケット砲で攻撃されてる! 蹴散《けち》らしてくれ!」ファンが緊迫した声で言った。  受話器をとおして激しい銃声が聞こえた。 「場所は!」海人は訊いた。 「ナホトカ運輸の事務所だ! 周辺道路を治安維持部隊が封鎖してる。我々の応援部隊が現場に近づけない!」  海人は東仁とボリスの二個分隊を率いて常陸港のナホトカ運輸に急行した。前線から高速道路経由で装甲車を飛ばし、およそ一時間後、威嚇射撃をしながら治安維持部隊の封鎖線を突破した。  孤児部隊は、重装備なうえに、実戦経験が豊富だった。ボリスが指揮をとる八輪駆動の装甲車を先頭に、ナホトカ運輸のビルを包囲していた常陸TCに背後から襲いかかった。装甲車の25ミリ機関砲が車両をつぎつぎ炎上させた。逃げ出した常陸TCを、四両の軽装甲機動車の12・7ミリ重機関銃が追撃した。勝負はあっけなくついた。  海人は、ボリスの分隊に下車戦闘を命じ、突入隊形をとらせて、ナホトカ運輸のビルの四階の事務所に入った。血で顔を汚したファン・ヴァレンティンが、片手にマシンガンをぶらさげてあらわれた。 「おじちゃん」海人は言った。 「カイト、一生、恩に着るぞ」ファンが言った。  海人はファンが左腕を負傷しているのに気づいた。 「えいせいへい!」海人は怒鳴った。 「最高幹部会の会議中に襲撃されたんだ」ファンが疲れ切った声で言った。  事務所周辺に十二個の死体が転がっていた。生存者はファンをふくめて四人。ロシアマフィアの応援部隊を呼び、負傷者を総合病院へ搬送させた。     63  ナホトカ運輸から前線にもどる車中で、海人は白川中尉の無線連絡をうけた。 「川部町の孤児院が襲撃された。襲撃グループは不明。キャロル・クリストフが職員から通報をうけて取材にいったが、水戸軍が現場を封鎖して近づけない。なんとかしてくれと言ってきた。詳しい話はクリストフに訊け。あとはおまえにまかせる」  九月四日の朝だった。海人は東仁とボリスの部隊をそのまま率いて、八輪駆動の装甲車一両と軽装甲機動車四両で現場へ向かった。鮫川の西岸に位置する川部町は、水戸軍と常陸軍の防御陣地が入り混じる地域だった。地図を見て孤児院の場所をだいたいつかんだ。支流が合流する地点を越えて一キロメートルほど走ると、プレスの連中らしい人影が見えた。路肩に四輪駆動のピックアップ・トラックが二台よせられ、その先の道路を水戸軍の二両の軽装甲機動車が封鎖していた。  海人はボリスの分隊に下車戦闘の隊形をとるよう命じた。装甲車の後部扉がひらいてボリスと歩兵七人が飛び出した。海人も軽装甲機動車を降りた。十数人のプレスのなかから、キャロル・クリストフが駆けよって、緊迫した声でいっきにしゃべった。 「孤児院の職員からわたしの携帯に電話があったの。いちど取材して、個人的に知ってる男よ。電話は午前四時五十分ごろで、彼はこう言った。軍隊が子供たちを拉致《らち》しようとしてる。職員が軍に発砲して撃ち合いになった。助けてくれ。わたしの耳にもすごい銃声が聞こえた。どこの軍隊かわからないと言った。すぐ彼は電話に出なくなった。死んだのかもしれない。午前六時ぐらいまで、悲鳴と銃声が彼の携帯から聞こえてたけど、そのあとで通信がとだえた。その間に、わたしは水戸軍と常陸軍の両方のプレス担当者に情報を伝えた。どちらも、調べてみると言って、それっきり反応がない」  海人は腕時計を見た。午前七時をすこしすぎている。 「こじいんの場所は?」海人は訊いた。  クリストフが腕を大きく左へまわした。 「あの山のなか。火葬場の施設を使って孤児院を運営してる」  封鎖地点のすぐ先に、左手の山に入る舗装道路がある。封鎖をしているのが水戸軍なら、孤児院を襲ったのも水戸軍だろうと思いながら、プレスの連中をかき分けて水戸軍の軽装甲機動車に向かった。道路に散開している水戸軍の兵士は六人。軍曹が軽装甲機動車に背中をあずけて煙草を吸っていた。 「しょうたいちょうと話がしたいんですが」海人は言った。 「ガキはさっさと帰れ」軍曹が邪険に手を振って追い払う仕草をした。  海人はエンクルマに命じて白川中尉に無線連絡をとらせた。高柴ダムの方角から二台のトラックが姿をあらわした。ダンプと、もう一台はコンテナを積んでいる。海人はエンクルマから受話器をひったくった。 「ダンプをはこびこもうとしてます」海人は受話器に告げた。 「死体運搬用だろ」白川中尉が言った。 「せいあつします」 「まかせると言ったはずだ」  海人は手信号でGOサインを出した。ボリスがすばやく分隊を動かした。小銃を突きつけられた軍曹が、びっくりして煙草を落とし、火が唇にふれて、足をばたばたさせた。残る五人の水戸軍の兵士もすばやく武装解除した。 「ジン、トラックをとめろ!」海人は無線機に怒鳴った。  東仁の軽装甲機動車が空へ12・7ミリ重機関銃を撃ちながら突進した。プレスの連中が道端に伏せた。二台のトラックを停止させ、あらたに運転手と小銃手の計四人を武装解除した。全員に手錠をかけて道路に転がした。彼らはなにが起きているのか、まったく理解できない様子だった。 「こじいんに、仲間がいるだろ」海人は軍曹に訊いた。  軍曹が口をひらくまえに、道路に伏せたそいつの顔を、ボリスが銃床で殴りつけた。 「なん人いる」海人は訊《き》いた。 「二個分隊」軍曹がこたえた。 「しょうたいちょうは」 「上で指揮を」 「なまえは」 「加藤秀明少尉」  海人は、東仁の分隊の軽装甲機動車一両と、副分隊長、運転手、重機関銃の射手、小銃手一人の計四人を現場に残し、装甲車と三両の軽装甲機動車で孤児院に向かった。すぐ後ろにプレスのピックアップ・トラックがついてきた。  森を迂回《うかい》して急坂を登り切った。左の斜面に黒く焦げた乗用車が落ちていた。道路の端に死体。若い女だった。コンクリート柱に〈セレモニーホール・川部〉とある。右に火葬場の入口。その脇に重ねた七、八人の死体の山へ、海人は右折する車のなかから視線を送った。死体は若い女と子供で、全員が素足だった。  広い前庭の左手に薄汚れた白い建物があった。窓ガラスはぜんぶ吹き飛び、火災で一部が焼けている。周辺に破壊された乗用車が数台と死体の山。正面に七両の軽装甲機動車がならび、水戸軍の兵士がいぶかしげな表情で海人たちをむかえた。  プレスの連中がピックアップ・トラックから飛び降りて写真を撮りはじめた。水戸軍の兵士が小銃で威嚇射撃した。その銃声にかぶせて、海人の軽装甲機動車の12・7ミリ重機関銃の銃声がとどろいた。緊迫した静寂がおとずれた。兵員数ではほぼ同数だが、海人の部隊には装甲車があり、重機関銃三台が相手をキル・ゾーンにとらえている。  海人は軽装甲機動車を降りた。エンクルマと葉郎が、海人を警護するように立ち撃ちの姿勢をとった。東仁とボリスの分隊も、運転手と搭載機関銃の射手を残して、下車戦闘の隊形をとった。水戸軍の兵士の一人が軽装甲機動車のルーフの重機関銃の銃座によじ登ろうとした。東仁がすばやく威嚇射撃して降ろさせた。 「どこの部隊だ!」水戸軍から声があがった。  海人は無視して、エントランスの死体の山に近づいた。子供が三人、男が二人、そしてまた若い女が九人。説明がつかない事態に遭遇したときの、胸騒ぎをおぼえた。クリストフが死体に近接してカメラのシャッターを切った。建物のなかに入ろうとした数人のプレスが、水戸軍の兵士に制止された。 「なんでこんなに大勢の若い女が殺されたの!」クリストフが、その場にいる全員の罪をとがめるように叫んだ。 「十四人か十五人。建物のなかを調べたらもっと増えるぞ」プレスの誰かが言った。 「職員じゃないかもしれないな」べつの声が言った。 「ここの職員は男三人、女二人、ぜんぶで五人よ」クリストフが言った。  そんな数だろうと海人は思った。彼が送金している常陸市の二つの孤児院の職員も、男女合わせてわずか九人だった。その職員数で百人を超える孤児を世話している。では殺害された十数人の女たちはなに者なのか。考えをめぐらしながらセレモニーホールに入ろうとすると、「待て!」と鋭い声が背中に飛んできた。海人は振り返った。 「加藤少尉だ」無帽の男がすすみ出た。いくらか右脚を引きずっている。  海人は自分の所属と名前を名乗った。加藤少尉が海人の肩に腕をまわし、耳もとでささやいた。 「女の死体はいわき軍の兵士だ」  その言葉の意味がわからず、海人は一瞬、混乱した。加藤少尉が軽装甲機動車の背後へ案内した。ピックアップ・トラックの荷台に、小銃、サブマシンガン、手榴弾《しゆりゆうだん》、弾薬がむぞうさに放りこんであった。それらの武器が、敵から奪ったものであることに疑いの余地はないが、歩兵部隊の武器としてはいかにも貧弱である。ナホトカ運輸のビルを襲撃した常陸TCの突撃部隊の方がはるかに重装備だった。  加藤少尉が軽装甲機動車の後部座席のドアをあけた。眼隠し、さるぐつわ、手錠で拘束された女が二人、折り重なっていた。 「こいつらが孤児を拉致しようとした。おれの部隊が救助にかけつけて敵を殲滅《せんめつ》した。そういうわけだ」加藤少尉が言った。  それでは話が逆じゃないかと言おうとして、海人は加藤少尉を振り返った。カトウという名前に聞きおぼえがあった。左頬の深い裂傷に眼をとめた。思いがけない再会だった。忘れていた記憶がよみがえり、焼かれるような痛みを胸に感じた。視線を下げた。加藤少尉の腰のホルダーに拳銃《けんじゆう》。大子市の焼き払われた林檎《りんご》畑の光景が頭をよぎった。足を負傷したという理由だけで、男の子の頭を吹き飛ばしたあの拳銃。憎しみが海人の全身の血管をふくれあがらせた。自分の眼で瞬く残忍な光に嫌気をおぼえながら、彼は一連の動作をなめらかに完結させた。パンと銃声。胸の一点から血が噴き出した。加藤少尉が驚愕《きようがく》の表情をうかべて腰から崩れ落ちた。「ぶきをすてろ!」海人はAKM2を空へ向けて撃った。  ふたたび軽装甲機動車の重機関銃が威嚇射撃をした。指揮官を射殺された水戸軍の兵士十数人は、あっさり武器を捨て、前庭にうつぶせた。  東仁の分隊が突入隊形をとってセレモニーホールに入った。海人はエンクルマと葉郎を連れてつづいた。瓦礫《がれき》と肉片が散乱するロビーのすみで、手足を縛られた三十人ほどの子供たちが、からだをよせ合っていた。監視役の水戸軍の兵士二人を武装解除した。プレスの連中が子供たちの拘束を解いた。  海人はすべての部屋を見てまわった。負傷して動けない子供十九人、子供の死体十一、男の死体三、若い女の死体二を見つけた。エンクルマに衛生隊を呼ぶよう命じた。 「職員五人はぜんぶ孤児院のなかで殺されてる」クリストフが言った。 「いわき軍に女のぶたいがあるのか」海人は訊いた。 「知らない」  海人は建物を出て、水戸軍の軽装甲機動車にもどった。拘束を解かれた女が二人、応急手当てをうけていた。ボブを金色に染めた女と、長い黒髪の女だった。どちらも若く、青ざめた表情で、海人が近づくのを見た。 「しょぞくぶたいは?」海人は訊いた。 「あたしたちは兵隊じゃない」金髪の女が首を横に振った。 「なぜここにきた」 「子供たちを助けに」 「しょくいんがれんらくを?」 「そうよ」 「なん人で」 「十八人。車三台で」 「ぜんぶ女?」 「男が二人」 「生きのこったのは、たぶん、きみたちふたりだけだ。あんなぶきじゃ、ぜったい、軍たいにかてない」海人はピックアップ・トラックの荷台を示した。 「だけど闘うほかないじゃないの」長い黒髪の女が強い口調で言った。 「だれとたたかうんだ」 「殺人、略奪、強姦《ごうかん》、悪のかぎりをつくすやつらと」金髪の女が言った。 「きみたちはなに者だ?」海人はおどろきの混じる声で訊いた。     64  プレスが二人の女にカメラを向けて、つぎつぎと質問をあびせたが、彼女たちは素姓を明かさなかった。海人は混乱をさけるために二人の女を軽装甲機動車に乗せてドアを閉め、無線で白川中尉に状況を説明した。その最中に、鮫川ぞいの封鎖地点にいる東仁の部隊から、水戸軍の偵察部隊が接近しているという報告が入った。海人は重機関銃で追い払えと命令し、ボリスの分隊と装甲車を支援に向かわせた。  状況の説明をうけた中尉は、生存者の二人の女に強い関心を示した。 「誰にも渡すな。プレスにも取材させるな。すぐ連れて帰れ」中尉が言った。  海人は、東仁に現場の指揮をまかせ、エンクルマと葉郎とともに、二人の女を連れて山を降りた。封鎖線で、ボリスの装甲車が水戸軍の偵察隊とにらみ合っていた。支流が鮫川に流れこむ地点の手まえで、衛生隊の救急トラック二台とすれちがった。  白川中尉は一人で小型トラックを運転して小隊本部へあらわれた。海人は中尉を薄暗い郵便局の地下室へ案内した。光源は二つの石油ランプだけだった。中尉が懐中電灯をつけ、椅子に腰をかけた二人の女の顔を照らした。光の輪が、ほっそりした首筋、胸で重ねた白い手、傷だらけの素足へと移った。 「年齢は」中尉が訊いた。 「釈放と仲間の死体の引き渡しを要求します」長い黒髪の女が中尉をにらみ返して言った。 「職業は」 「学生よ」金髪の女が真実味のない口ぶりでこたえた。 「政府軍第51歩兵連隊第4歩兵中隊中隊長の白川中尉だ」中尉が身分を名乗った。「なにがなんでも口を割らせようって気はない。差し障りのない範囲で、できるだけこたえろ。そうすれば要求をかなえてやる」 「なにが知りたいんですか」黒髪の女が表情を閉ざしたまま言った。 「おまえたちは、共通の目標をかかげて、日常的に活動しているのか」中尉の問いはいきなり全体像に向けられた。 「まあそうです」黒髪の女がこたえた。 「指揮系統はあるのか」 「ありません」 「公にはできない組織ということか」 「命にかかわりますから」 「いわき軍と敵対関係にあるのか」 「略奪をはたらくすべての軍隊と敵対してます」 「孤児院で死亡した十六人の男女と、おまえたち二人以外にも、メンバーがいるのか」 「流動的ですが」 「百か二百か、千人を超えるのか」 「こたえられません」 「十八人のうち男はたった二人だ。女の比率が異常に高いのはなぜだ」 「構造的な差別の問題よ」金髪の女が言った。 「おまえたちは抑圧された女の組織ということか」中尉が訊いた。 「基本的にはそうです」黒髪の女が言った。 「女の解放の彼方《かなた》に、すべての抑圧された者の、解放を夢見ているのか」 「理念としてはそのとおり」金髪の女が言った。  海人の理解を超える言葉がやりとりされていたが、二人の女の覚悟の輪郭を感じとることはできた。 「軍事訓練をうけた経験があるか」中尉が訊いた。 「ありません」黒髪の女がこたえた。 「はじめての戦闘だったのか」 「全員がはじめてでした」 「無謀だな」 「最初の一撃は、いつでもどこでも、無謀な試みです」 「連絡方法を教えろ」 「なぜ」 「力になれるかもしれない」 「あなたが女だからという理由で信頼をよせるほど、わたしたちは無邪気ではありません」  黒髪の女のその言葉に、中尉が小さな笑みをうかべた。 「では言いなおす。利害を共有できるかもしれない」中尉が言った。 「利害は一致しません」黒髪の女が言った。 「むずかしく考えるな。おまえたち二人の命を救い、子供たちの人身売買を阻止したのはどこの誰だ」  二人の女が海人にちらと眼をくれた。 「佐々木軍曹は孤児だ」中尉が言った。「第4中隊は孤児の少年兵で編成されている。わたしを信用できなくても軍曹なら信用できるはずだ。わたしの前任者は、子供を性的に虐待するのが趣味だったんだが、軍曹は仲間といっしょに土浦のホテルで、そいつを暗殺した」 「いきなりそういう話をされても、こたえようがないね」金髪の女が警戒心を解かぬ声で言った。 「携帯の番号を教えてやれ」中尉が一つうなずいて、海人に言った。  海人は番号をメモして黒髪の女に渡した。訊問《じんもん》はそれでおわった。海人は郵便局のパーキングまで中尉を送った。 「水戸軍の連隊長と話はつけた」中尉が小型トラックのステップに足をかけて言った。「知ってると思うが、やつはわたしの従兄弟《いとこ》だ。おまえが射殺した少尉は、いわき軍との戦闘で戦死した。師団司令部にはそう報告する」 「プレスがもくげきしてます」海人は言った。 「連中がどう騒ごうが、軍内部では解決ずみだ」中尉が言い切った。  中尉が小型トラックで去った。海人は孤児院を制圧している東仁と連絡をとった。負傷した十九人の子供たちは、すでに救急トラックで野戦病院へ搬送されていた。死体の内訳は、職員の死体が五体、救出に駆けつけて殺されたと思われる男女の死体が十六体、子供の死体が十一体だった。そして軽傷ですんだ子供が三十四人。  海人は東仁の報告内容の概略を女たちに伝えた。 「わたしたちが死体をぜんぶ引きとる。軍にまかせたら、そのへんの山に捨てちゃうだけだから」黒髪の女が言った。 「職員の家族もいわき市内に住んでる。子供たちは共同墓地に埋葬する」金髪の女が言った。  海人は、死体と軽傷の子供を小隊本部に運ぶよう、東仁に指示を出した。 「子どもも、引きとってくれ」海人は言った。 「生存者?」黒髪の女が訊《き》いた。 「びょういんにおくった子をいれて、ぜんぶで五十三人」 「常陸の孤児院に入れてちょうだい」 「もうなん年もまえからいっぱいだよ。おれのかぞくも入れなかったんだ」 「いわきは危険よ。ぜったいダメ。あなたたちがミサイルを撃ち込んでるじゃないの」金髪の女が言った。  彼女たちの言うとおりだった。どうしたらいいのかわからず、海人は頭を抱えた。二人の女も深刻な顔つきになった。子供たちを街に放り出したら、彼女たちの命がけの戦闘が無駄だったことになる。 「いいかんがえがあるよ」エンクルマがすこし離れた場所から声をかけた。 「なに」海人は訊いた。 「ひたちにこじいんをつくればいいじゃないか」エンクルマが屈託のない声で言った。 「新しく?」金髪の女がびっくりして訊いた。 「カイトならかんたんさ」葉郎が言った。 「どうして」黒髪の女が訊いた。 「ちから、カネ、じんみゃく、カイトはぜんぶもってる」エンクルマが言った。  海人はため息をもらした。小さな孤児院を一つ常陸市につくる。そのていどのことなら、たぶん自分にもできるだろうと思った。だが必要とされている孤児院はたった一つというわけじゃない。北関東だけでも数十とか百という単位だろう。 「カイト、さっさときめろ!」葉郎がとがめる口調で言った。 「うるさい!」海人は怒鳴り返した。 「なんとかなるならそうして」黒髪の女が真摯《しんし》な視線を海人にそそいだ。 「まず子供たちが今夜寝る場所を、確保しなくちゃならない」金髪の女が言った。 「わかった」海人はきっぱり言った。「たてものは、なんとかなると思う。かりちんも、うんてんしきんも、おれが出す」 「あなた、いくつ?」黒髪の女が海人の言葉を信じていない声で訊いた。 「十七さい。カネはあるんだ」 「どうやって稼いだの?」金髪の女が訊いた。 「きれいなカネなんかどこをさがせばあるんだ」海人は怒りをにじませて言った。 「そうね」金髪の女がすぐおうじた。 「子どものせわは、きみたちがする。仲間がいるんだろ。そうだんして、ひつような人間を出せ。さいごまでちゃんとせきにんをもて」  二人の女は人員の派遣を了承した。海人は、ファン・ヴァレンティンに電話をかけて、夕方までに百人ていどの子供を収容できる建物を確保してほしいと頼んだ。  東仁とボリスの分隊が、プレスを引き連れてもどってきた。ダンプに死体を積んで青いシートをかぶせてあった。コンテナ車から降りた子供たちにレーションを配り、郵便局のパーキングで遅い朝食をとらせた。  死体を積んだダンプの運転席に、二人の女が乗りこんだ。 「かならず、人をよこせ」海人は窓からいくつかレーションを放り込んで言った。 「わかった。あなたの携帯に連絡を入れる」黒髪の女が言った。 「ごえいをつけて、えぐり大橋までおくる。ダンプは返さなくていい」 「ありがとう」金髪の女が言った。  ファン・ヴァレンティンが競売で手に入れたホームセンターの建物が常陸市|田尻《たじり》町にあった。午後早い時間、孤児三十四人をそこへ収容した。ファンが、左腕を固定した痛々しい姿で陣頭指揮をとり、彼の部下を使って大量の簡易ベッドや毛布を運び入れた。海人は補給部隊から一週間分のレーションを闇で仕入れてとどけた。キャロル・クリストフほか十数人のプレスが取材に走りまわった。海人はしつこく訊かれたが、なにもしゃべらなかった。  夜七時すぎ、海人の部隊に護衛されて、いわき市から中年の女一人と若い女四人が到着した。若い女の一人は、死体をダンプで運んだ金髪の女だった。その段階で、海人はプレスの連中全員を施設から締め出し、同時に、自分の部隊を休ませるために前線に帰した。  ホームセンターの事務所で、ファンもまじえて、女たちと今後のことを話した。森まりと名乗る、リーダー格の大柄な中年の女が、院長として孤児院を運営することに決まった。彼女たちの素姓はあいかわらず明らかにされなかった。海人は当座の運営資金を現金で女たちに渡した。 「自衛のための最小限の武器がほしい」森まりが言った。  ファンが部下に命じてサブマシンガンと拳銃《けんじゆう》と弾薬を手配させた。一同は奇妙な出会いを祝福して、ファンと女たちはシャンパンで、海人はジュースで乾杯した。ファンはやけに上機嫌だった。その理由を、海人が訊きもしないのに、ファンは書類が散乱するホームセンターの事務所のすみでこっそり打ち明けた。 「昨日の昼からけさまでの十四時間で、ロシア系の三組織の三人のボスが、いっぺんにあの世へいっちまった。常陸TCはカイトの部隊にさんざんにやられて勢いをそがれてる。この状況は、誰かさんがのしあがる絶好のチャンスだ」 「だれかさんて、ファンのおじちゃんのこと?」海人は訊いた。 「そのとおりだ。ロシア系の組織をまとめられるやつは俺しかいない」 「そしきをまとめて、ひたちTCとせんそうするの?」 「まだそんな時期じゃない。やつらのバックには東京UFと政府軍がいる。暴力の均衡による平和。それが大人のやり方だ。わかるだろ。俺とおまえの未来に乾杯しよう」  ファンはにこやかにグラスをかかげた。     65  孤児たちは脅えと興奮でざわめきつづけた。いわき市からきた女たちに添い寝されて、彼らがようやく寝入りはじめた深夜、海人とファン・ヴァレンティンはホームセンターの建物を出た。パーキングへ歩いていくと、赤いピックアップ・トラックの運転席からキャロル・クリストフが顔をのぞかせた。 「どこへいくの?」クリストフが言った。 「ぜんせんに帰る」海人は言った。 「じゃあ送ってあげる」 「しゅざいは、やだよ」 「もう疲れた?」 「つかれたね」 「オーケー」  クリストフが助手席のドアをあけた。海人はファンに別れを告げ、AKM2を手にピックアップ・トラックに乗りこんだ。 「ほんとひどい顔してる。ボロボロって感じ」クリストフが言った。 「はらへってるのに、メシを食う気になれないんだ」海人は言った。 「わたしのホテルによって、シャワーをあびたら? 気分がすっきりすると思うけど」  セレクトレバーをドライブに入れるクリストフの横顔を、海人はぼんやり見た。視線に気づいた彼女が、小さな笑みを返した。海人は無言だった。赤いピックアップ・トラックは国道6号線を南へ向かった。プレスは前線から三十五キロメートルほど離れた東滑川《ひがしなめかわ》町のホテルに宿泊していた。バイパスに入り、左手に太平洋の波のうねりを見ながら数分走って、薄汚れた大型のホテルに着いた。  警備員が通用口のドアをあけた。エレベーターは停止していた。真っ暗な階段を懐中電灯の明かりを頼りに昇った。四階のツインルームに、スタンドライトが一つ弱々しく灯《とも》った。クリストフが先にバスルームを使った。海人はAKM2を胸に抱くと、壁に背中をあずけて腰をずるずると降ろした。まぶたが重くたれて、すぐに意識が遠のいた。 「起きて」  頭のすみでクリストフの声が聞こえた。手を引かれて立ちあがった海人は、混濁した意識のままバスルームに入った。ユニットバスとタイル張りの化粧室が一体化した、雑なつくりの、がらんとしたスペースだった。薄暗い明かりのなかにクリストフの白い裸がうかんでいた。控えめな乳房、幅のある腰、濡《ぬ》れたアンダーヘア、薄桃色に染まった肉づきのいい太股《ふともも》、海人はそれぞれに眼をとめた。 「じろじろ見ちゃだめ」クリストフが軽くとがめた。  海人がまだしっかりつかんでいるAKM2を、クリストフが奪って、洗面台に寝かせた。収納ポーチ付きの抗弾ベストに、彼女の手がのびた。 「自分でぬげるよ」海人は言った。 「じゃあ脱いで」クリストフが言った。  海人は、抗弾ベスト、汗と泥で汚れたTシャツ、コンバットブーツ、ワークパンツ、トランクス、つぎつぎと脱いで素裸になった。バスタブのなかでしゃがみこみ、クリストフに髪を洗ってもらった。シャワーの水量はたっぷりあるが、ぬるま湯だった。頭皮をもみほぐす彼女の指の動きに、彼はうっとりと眼を閉じた。大量の泥水が流れた。 「最初はね、孤児中隊のことがすごく怖かったの」クリストフがもういちど海人の髪にシャンプーを振りかけながら言った。 「そういうふうには見えなかったけど」海人は言った。 「意識してカイトたちを子供扱いして、恐怖心をごまかしてたのよ」 「おれたちは子どもだよ」 「カイトはもうすぐ十八歳でしょ」 「でもようちだって言われる」  クリストフがくすっと笑った。 「でも戦闘力は大人に負けない」 「すこしずつ強くなったんだ」 「レイプもする」 「おれはしない。こじちゅうたいではゆるされない」  髪を三回、洗い流した。つぎにクリストフは、スポンジにボディソープをつけて、海人の首筋、背中、肩、腕を洗った。 「嫌な夢をよく見るの」クリストフが言った。 「どんな」海人は訊《き》いた。 「孤児兵にレイプされる夢。夜中にうなされて、眼がさめると、汗びっしょり」 「うん」海人は小さくうなずいた。 「わかる?」 「わからないわけじゃない」  クリストフは、狭いバスタブのなかで海人に正面を向かせて、胸、腹、両方の太股、膝《ひざ》、すね、足の指の間をたんねんに洗った。 「膝を立てて」クリストフが言った。  海人はそうした。クリストフが、海人の両膝に手をかけて押しひらき、太股の付け根に近い部分を洗った。スポンジが軽くふれただけで、海人の性器は反応して固く直立した。彼女は関心なさげにそれを泡にまみれさせた。 「こんどはバスタブの縁に両手をついて」クリストフが言った。 「なにするの」海人は警戒する口調で訊いた。 「まだお尻《しり》を洗ってない」  海人は言われたとおりの姿勢をとった。クリストフが背後から海人の尻の割れ目に手をすべりこませて、繊細な場所に石鹸《せつけん》の泡をたっぷり塗りつけた。それから海人の性器に五本の指を巻きつけると、それを支点に自分のからだを引きよせて、ぴったりと重ねた。彼女の胸のふくらみが、海人の背中で押しつぶされた。 「エンクルマとヨウロウが、わたしを両側から押さえつけて、カイトがむりやり入ってきたことがある」クリストフが耳もとでささやいた。 「なに言ってるの?」海人は眉《まゆ》をひそめた。 「夢のなかで、わたしはカイトにレイプされたのよ」 「ゆめでもひどい話だ」海人は軽い抗議の声をあげた。  クリストフが海人の性器をにぎる手をなめらかに動かしながら、片方の手の指先で肛門《こうもん》をもみほぐすように刺激をくわえた。 「気持ちよくないの?」 「きもちいい」 「声を出したら?」 「出さないよ」 「どうして?」  海人は奥歯を噛《か》みしめた。おれは男だと自分に言い聞かせたが、かすな声がもれた。それに反応してクリストフも短い歓喜の叫びをあげ、手による刺激を強めた。耐え切れなくなった海人は、腰を反転させてクリストフから逃れた。 「出ちゃいそう?」クリストフが訊いた。 「うん」海人はうなずいた。  クリストフがシャワーのコックをひらいた。ぬるい湯が海人の頭に降りそそいだ。二人は立ちあがって向き合った。海人はクリストフの左右の乳房に両手をあてがい、形状を確かめるように指を広げた。 「ちっちゃくてごめんね」クリストフが微笑んで言った。 「白人はみんなでっかいと思ってた」海人は言った。 「ばかね、おまえたちが大好きな金髪ヌードは、注射でふくらませてるんじゃないの」 「ほんと?」 「知らなかったの?」 「知らなかった」  海人は両方の乳首を指先でそっとつまんだ。 「誰かに教えてもらった?」クリストフが訊いた。 「なにを」 「女のからだを乱暴にあつかっちゃだめって」  竹内里里菜に白い乳房をはじめて与えられた夜の、彼女の言葉を、海人は思い出した。 「うん」 「おまえは素直だから、その女の言いつけを守ってるのね」 「だっていやだろ?」  クリストフが微笑みを返して、海人に背中を向けさせ、肩の後ろ、背中、腰、太股の後ろにシャワーをあびせた。尻の間からまた手が入ってきて、海人の繊細な場所をまさぐった。石鹸の泡をきれいに洗い流すと、クリストフは排水口に栓をしてバスタブから出た。 「手錠を持ってる?」クリストフが訊いた。 「持ってない」海人はこたえた。  クリストフがバスルームを出ていきながら、便器の蓋《ふた》の上に重ねた海人の衣服にちらと視線を返して訊いた。 「代わりになるようなものは? 革|紐《ひも》とか針金とか。おまえたちいつも持ってるでしょ」 「ないよ」  バスルームのドアがばたんと閉まった。海人はクリストフの言葉の意味を考えようとした。湯が腰骨のあたりまで達したが、あいかわらずぬるかった。クリストフがもどってきて、バスタブになにかを放り込んだ。コンドームのパッケージが湯にうかんだ。もう一つは丈夫そうな靴紐だった。クリストフはバスタブに入ると、コンドームのパッケージを破いた。海人は膝をついて腰をあげ、彼女の作業を助けた。 「レイプした経験ある?」クリストフが訊いた。 「じょうだんじゃない」海人は首を強く横に振った。 「レイプしたいと思ったことは?」 「ばかなこときくなよ」  クリストフが、両膝で海人の腰をはさみつけながら、上体をまえに倒した。海人は背後に押されて、後頭部をバスタブの縁にのせた。勃起《ぼつき》した性器に彼女の下腹がのしかかった。 「これはまじめな話なの。だからちゃんと聞いて」クリストフが息を弾ませて言った。 「なに」 「すごい怖い夢だったのに、眼がさめると、ぐっしょり濡れてた。下着も汚しちゃった。カイト、おまえにレイプされた夢の話よ。二度と同じ夢を見なかったけど、ときどき想像してる。装甲車の陰に隠れて155ミリ榴弾《りゆうだん》が炸裂《さくれつ》する音を聞きながら、おまえにレイプされてる場面を想像して、わたしはいっちゃいそうになったこともある」 「きみは、頭がばかになってる」海人は言った。 「ばかでもなんでもいいけど、これでわたしの手首を縛って」クリストフが湯から靴紐を拾いあげると懇願する声で言った。  海人は靴紐をうけとった。クリストフはいそいで後ろ向きになると、両方の手首を差し出した。彼女がなにを望んでいるのか、なんとなく察しがついた。海人は慣れた手つきで彼女の手首を縛った。 「好きなことしてかまわないのよ」クリストフが首を背後へねじって言った。  海人は彼女の背中を押した。大人一人がどうにか脚をのばせるていどのバスタブだった。まえのめりになった彼女は、強化プラスチックの壁に頭をぶつけて悲鳴をあげた。ほっそりした背中からは想像もつかない彼女の巨大な尻を、海人はつかんだ。彼女が英語でなにか罵《ののし》った。海人の性器がなめらかに侵入した。彼女の内部はすでに熱く潤っていた。連続して突き刺すと、彼女は尻を振りながら、唇をゆがめて英語で罵りつづけた。意味を理解できるはずもないが、卑しい言葉であることは察しがついた。そこでふいに海人の胸を、怒りと悲しみが入り混じる不可思議な感情がつかまえた。腰を離して立ちあがった。 「どうしたの?」クリストフがびっくりして訊いた。 「きみがきらいだ」海人はいら立ちを隠さずに言った。 「よくわからないけど、我慢できるの?」クリストフが尻を軽くゆすって嘲笑《ちようしよう》した。  海人は乱暴な手つきでコンドームをはずすと、クリストフの尻に投げつけた。固く勃起した性器を、自分の手でにぎりしめ、リズミカルにしごいた。彼女が向きなおって、また英語でなにか罵った。臨界点に達した海人は、あっさりと射精した。最初の一撃が彼女の左の乳房を汚した。彼女が悲鳴をあげてからだをねじった。第二撃、第三撃が、彼女の背中ではねた。  海人はバスタブから出た。タオルで性器をさっと拭《ぬぐ》うと、それもクリストフに投げつけた。すばやく衣服を身につけ、AKM2をつかむと、後ろ手に縛った彼女を捨ておいて、バスルームを出た。  ホテルの表で、エンクルマに電話をかけて、むかえの車をよこすよう伝えた。 「なにかおこってる?」エンクルマが訊いた。 「べつにおこってないよ」海人は怒ってる声で言った。     66  孤児救出劇から三日目の夜だった。 「おまえの記事が外国の新聞にのってるぞ。写真付きだ」雅宇哩が電話で知らせてきた。  海人は雅宇哩のマンションへいき、イギリスとカナダと香港の三紙の英字新聞に掲載されたキャロル・クリストフの署名入りの記事を、パソコンの画面で見た。写真はどこで撮られたものかわからないが、海人が笑みをこぼした瞬間のスナップショットだった。無帽で、頭髪の後ろの方がぴんと立ち、顔は汗と泥にまみれている。 「抗弾ベストが写ってなければ、救出された孤児と見分けがつかない」雅宇哩が言った。 「ほんとだ」海人は同意した。 「賢そうにも見えない」 「おれわらうと、頭わるいのバレちゃうから」 「サブタイトルにそのことがあからさまに書いてある」 「なんて」 「無学で粗野な東洋の少年兵が英雄になった日」 「ふうん」 「意味わかるのか」 「だいたいね」  雅宇哩が本文を日本語に翻訳してくれた。記事のなかで、海人は孤児を救出した英雄として扱われていた。 「連載記事の第一回だ。通しのタイトルは、ジ・インヴィジブル・ソルジャーズ」雅宇哩が言った。 「日本ごのいみは?」海人は訊《き》いた。 「見えない兵士」 「見えないって?」 「少年兵の実態が軍幹部によって隠蔽《いんぺい》されている。だから少年兵は見えない兵士ということになる。もう一つ、おまえたちが幸運にも生き残れば、十八歳に達して、こんどは正規の軍隊のなかに消えていく。その意味でも少年兵はインヴィジブルな兵士だ」 「なるほど」 「いくつになった?」 「きのうで十八さい」 「じゃあおまえはもう正規軍兵士だ」  とくに感慨はなかった。  海人はただ一点に全神経を集中させて日々を送った。仲間とともに戦場で生きのびねばならない。そのためには孤児中隊を精鋭化しなければならない。  戦争はつづいた。キャロル・クリストフとは前線でなんどか遭遇した。彼女は海人の存在に気づくと、いそぎの用事があるかのようにすぐさま赤いピックアップ・トラックに乗り込み、必要以上のエンジン音と土煙をあげて立ち去った。  海人はクリストフとの間にあったできごとを誰にもしゃべらなかった。もともと彼には、女性関係を他人に明かすのを恥ずかしがる傾向があり、ふだんから仲間と猥談《わいだん》に熱中することもなかった。  もちろん、ふと、あの夜の記憶がよみがえる瞬間はあった。夢のなかで海人に強姦《ごうかん》されて濡《ぬ》れたのだと告白したときの、クリストフの息苦しそうな声のひびき。靴紐で拘束せよと、自ら後ろ手に手首を重ねた彼女の横顔にうかんだ恐怖と恍惚《こうこつ》。背後から貫かれ、尻《しり》を振りながら、海人を罵るような英語を吐きつづけた彼女への疑念。そして説明できぬ怒りから彼女を辱めた自分への嫌悪感。東滑川町のホテルの記憶が胸をよぎるたびに、そういった感情が入り混じり、海人の気分を晴れさせなかった。     67  田尻町の孤児院は『イーハトーヴの森』と名づけられた。青い月の光が美しく感じられる夜、慰問におとずれた海人を、院長の森まりが事務所に招き入れた。ほかに人はいなかった。 「白川中尉に、わたしが会いたがってることを、彼女だけに伝わるように伝えてほしいの。電話は盗聴される怖れがあるから、使っちゃだめ。わたしの話、理解できた?」森が言った。 「おれがちょくせつ伝えればいいんだね」海人は言った。 「あなたと中尉が二人だけのときに」 「ようけんは?」 「すごく大事なことだから、会ったときに話す。中尉にもそう伝えてちょうだい」  最初の接触は、二日後、伊師浜《いしはま》海岸でひそかにおこなわれた。白川中尉と森まりが波打ち際を歩きながら二人だけで話し合った。その間、海人はボリスの分隊に周辺を警戒させた。森が仲間と車で去ると、中尉が海人を砂浜に呼びよせた。 「森の仲間は我々と連携していわきを解放する。その合意ができた。まず彼女たちに軍事訓練をうけさせる。段取りをしろ」中尉が言った。 「おおぜいいるんですか」海人は訊いた。 「中核のメンバーが二百人。ほとんど女だ。男は十五人ていど。シンパが二千人。いわきの娼婦《しようふ》が組合運動をはじめたのが由来らしいが、いまはいろんな女のグループが混じって、自分たちを『ンガルンガニ』と名づけてる。日本語に訳せば『夢の時』だ」 「へんてこな名まえですね」 「オーストラリアのネイティヴは、おおむかし、自分たちの祖先はカンガルーやトカゲや鳥の仲間で、おたがいに言葉もつうじたと考えていて、その時代を彼らはンガルンガニ、つまり夢の時と呼ぶそうだ」 「ンガルンガニ、ゆめの時」海人は頭に刻みこむように言った。 「彼女たちは八ヵ月まえに、いわき軍の大弾圧をうけた。指導部は地下にもぐって武装闘争の準備をしてきた。合法活動が可能なメンバーが、いくつかの小さなNGOを運営してる。森まりは合法活動のメンバーだ。すべてのプロセスを極秘におこなう。小人数ずつ脱出させて、二ヵ月訓練して、また送り返す。だいたいそういう構想だ」 「だんどりは、なにからはじめますか」 「まだ双方の考えをすり合わせる時間が必要だ。一週間後にまた森と会うが、そのまえにわたしとファン・ヴァレンティンの会談をセットしろ」 「ファンのおじちゃんもきょうりょくするんですか?」海人はいぶかしむ声で訊いた。 「やつは協力する」中尉はそれが既定事実であるかのように言った。「この作戦は誰にもしゃべるな。中隊本部要員にも秘密だ。やつらは連隊本部の指示でわたしをスパイしてる。もちろん最高幹部の了解はとる。いわき軍に情報がもれないように、極秘扱いにするってことだ」 「わかりました」  二人は波打ち際から車の方へ向かった。 「ンガルンガニのもくてきはなんですか」海人は訊いた。 「郵便局の地下で、黒髪と金髪の、二人の女がしゃべったようなことだ」中尉が言った。 「女のかいほう」海人はそのときの会話を思い出して言った。 「女の解放をつうじてすべての抑圧を断ち切る。そのための本格的な武装化を連中は決断したわけだ」  作戦を実行に移すまえに、ンガルンガニのメンバーと、辛抱強く接触を重ねた。海辺の松林のなかのラヴホテル、ファンが用意した常陸港近くのマンション、あるいは深夜の常磐自動車道を走る車のなか。接触場所を毎回変えた。ファンは女の移送をになうことになった。三回目の会議からイヴァン・イリイチ大尉がくわわった。イリイチは、阿武隈山系の谷間に軍事訓練基地をいくつか確保しており、訓練教官を提供してもらううえでも、彼の協力が不可欠だった。  会議がおわって出席者がくつろいでいるときに、海人は森まりに母親の写真を見せて、事情を話した。若くして海人を生んだ母親は、生きていれば三十三か四歳のはずで、森と同じ世代だった。 「応化三年の八月なら」森まりが言った。「わたしは南町の売春クラブでまだ現役よ。当時の仲間や業者をいっぱい知ってるから、訊いてあげる。こんど会うときに、この写真を大量にプリントして持ってきて」 「四人の司令官は顔写真がなけりゃ、捜しようがないだろ」白川中尉が言った。 「ほんみょうもわかりません」海人は言った。 「国防省のデータベースにアクセスしてやる。その故買商を中隊本部へ連れてこい」  翌日、ソムサックが中隊本部をおとずれ、国防省のデータベースをチェックして四人の司令官を特定した。応化二年二月の内乱勃発時の所属と階級も明らかになった。  石渡大尉こと高橋豊。東北方面軍第9師団司令部付き准尉。  山崎中尉こと小川馨。東北方面軍第6師団第六ミサイル連隊軍曹。  田村中尉こと横尾信二。東北方面軍第6師団第44歩兵連隊軍曹。  辻少尉こと林まこと。東北方面軍第6師団第44歩兵連隊|伍長《ごちよう》。  海人は四名の写真と母親の写真を大量にコピーして森まりに渡した。森は写真を見てすぐ、高橋豊、横尾信二、林まことの三名は、市民を虐殺した罪により、ンガルンガニ=夢の時の暗殺リストに載っていると指摘した。  数日後、辻少尉=林まことが二年まえの十一月に市立病院で新型肺炎で死亡したことが判明した。高橋豊は三百人の部隊を率いていわき市の北部で仙台軍と対峙《たいじ》していた。小川馨と横尾信二の消息はまったくつかめなかった。     68  十月下旬、生暖かい風が吹く日の夜、最初の訓練兵八人が、ファンの部下が運転するマイクロバスで常陸市に入った。全員が、きれいに化粧した陽気な若い女だった。彼女たちは、プーシキン通りでファンが経営するクラブと交わした契約書を所持していた。  マイクロバスが国道6号線をはずれて、暗い山道に入るとすぐ、前後に軽装甲機動車が護衛についた。先導する車の後部座席でゆられている海人の胸に、女たちの勢力が擡頭《たいとう》してくることへのばくぜんとした不安と、もしかするとこの世界が根底から引っくり返るかもしれないという根拠の希薄な高揚感が、同時に押しよせて、彼を混乱させた。  花貫《はなぬき》渓谷の奥で『ンガルンガニ』の志願兵に対する軍事訓練がはじまった。ファンが、週に十五人から二十人のペースで、小人数に分けて、ホステスに偽装させた女たちをいわき市から輸送した。ときおり女装した男が混じった。海人は彼女たちに護衛をつけて基地に送り込んだ。  イヴァン・イリイチの部隊の軍事専門家が女たちを厳しく鍛えた。テント、食事、装備、弾薬、人件費等の費用は、白川中尉が負担した。資金のもとになったのは、ファンが中尉に贈ったワイロだった。ばかでかい旅行|鞄《かばん》にぎっしりつめた米ドル紙幣を、葉郎が管理して、ファンに経理を助けてもらいながら運用した。  森まり院長に託した母の顔写真が、いわき市のンガルンガニのメンバーにとどけられたが、木枯らしが吹く季節がきても、母の消息に関する情報はまったく入ってこなかった。  イーハトーヴの森の事務所で、森まりが言った。 「期待にそえなくてごめんね」 「そんなことありません」海人は言った。 「小川馨と横尾信二の消息もつかめないし」 「四人とはべつの、ソムサックがしらないグループが、お母さんをらちしたかもしれないんです」 「あなたに恩返しがぜんぜんできないのに、また、ずうずうしい頼みがあるんだけど」 「なんですか」 「政府軍と仙台軍がいわきに突入して、本格的な市街戦がはじまる可能性があると思うの」 「あると思います」 「そうなれば、兵隊だけじゃなくて民間人にも死傷者がたくさん出る。いまから医薬品と医療器具をストックしておきたいんだけど」 「せいきゅうしょをおれにまわしてください」海人は言った。 「ありがとう」森が破顔した。     69  軍事訓練をおえたンガルンガニの最初の八人の娘が、ひそかにいわき市へもどされた十一月末の風の強い夜、ファン・ヴァレンティンが手配した川尻町のマンションの一室で、白川中尉、海人、ファン、森まり院長の四人が、ささやかな祝杯をあげた。  いったん解散したのち、話があるという中尉の要請で、海人、ファンは部屋に残った。 「常陸TCをつぶす気はないか」中尉がファンに切り出した。 「なんでそんなことを訊《き》くんだ」ファンが警戒する口ぶりで言った。 「いいからこたえろ」 「やつらのバックには東京の政府軍がいる」 「つぶしてしまえば政府軍も見放す」  ファンは首を横にゆるりと振った。 「常陸TCは、もうすこし独立性のある団体だったんだが、ここ数年で東京UFの完全な下部組織になった。東京UFは、政府と統合参謀本部と首都防衛軍を財政的にささえてる。ようするにやつらは一体なんだ。政府軍がいわきを落とせば、東京UFの前線がまた一歩北上する。おもしろくないが、俺たちにはどうにもできない」 「自分たちが東京UFにつぶされるという危機感はないのか」中尉が訊いた。 「もちろんある。九月はじめにボス三人を殺《や》られた」ファンがこたえた。 「おまえはいまどのていどの権力を持ってる」 「ロシアマフィア三組織の、最大勢力の実質的なナンバー1だ」  中尉が煙草をくわえた。ほっそりした白い指がゴールドのライターの蓋《ふた》をあけるのを、海人はぼんやり見た。煙草に点火された。蓋がしまる小気味よい音。中尉がしゃべりはじめた。 「一昨年、土浦を落とした直後に、師団司令部は、我々の連隊を二分割しようとした。連隊長以下幹部全員が抵抗して陰謀をつぶした。それから一年と十ヵ月が経つ。イリイチの部隊とわたしの部隊は、見ちがえるほど強化されて発言権を増した。連隊本部の命令を無視して好き勝手にやってる。それが連隊長にはおもしろくない。一方、師団司令部は分割案にまだ未練がある。両者の思惑が一致した。まずわたしの力をそぐことにした。師団司令部が孤児中隊を分割しろと言い、連隊長がそれを承諾した」 「ほんとですか」海人はびっくりして訊いた。  中尉が顎《あご》の先端で小さくうなずいた。 「やつらの本音は、できることなら外人中隊も分割したいんだ。ところがイリイチがおっかなくて手が出せない。女が相手なら強引にねじ伏せられると思ったらしい。女のわたしがでかい面をしてるのが、許せないってこともあるんだろうな。で、孤児中隊が狙い撃ちされた。やつらが決めた編成案はこうだ。常陸市の治安維持部隊を水戸軍に編入して、孤児中隊の四個小隊と交代させる。孤児中隊の残りの四個小隊は、これまでどおり前線に配置する。中隊の定員は四個小隊百五十人ということになってるから、それでべつに問題はない。わたしも承諾した」 「なぜだ」ファンが鋭く訊いた。 「佐々木軍曹の小隊は前線に残す」中尉はファンの問いを無視して言った。 「はい」海人はこたえた。 「治安を担当する四個小隊は、あさってから引き継ぎ作業に入る。マフィア取り締まりが主要任務だ。すべての道路と港湾を封鎖して常陸TCの物流をストップさせる。正義は我々にある。現在、孤児中隊の小隊長は全員孤児で、佐々木軍曹に忠誠を誓ってる。つまり勝機も我々にある」  中尉が煙草の煙をうまそうに吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。ファンは深刻な顔つきになって、天井へと上昇していく煙草の煙をにらみつけた。 「ひたちTCをつぶすんですね」海人は確認した。 「そうだ」中尉が言った。 「イリイチとは話がついてるのか?」ファンがまだ釈然としない表情で訊いた。 「了解をえてる。この作戦は、本質的に師団司令部および連隊本部に対する権力闘争であって、わたし個人は常陸市の利権に関心がない。イリイチにはそう告げた。誰が利権を手にするんだと訊くから、佐々木軍曹だろうとこたえた。では干渉しないとイリイチは約束した。自分の子のような情愛があるらしい。我々は常陸TCへの攻撃を決定した。ファン・ヴァレンティン、おまえに選択の余地はない。腹をくくるんだな。キンタマがあるってところを見せてもらおうじゃないか」  中尉は最後のワン・フレーズを哄笑《こうしよう》しかねない口調で言った。  ファンにとって白川中尉は、〈無秩序〉というよりも〈理不尽〉な人物だったにちがいない。海人の見るところ、ファンはすくなくとも数日間、呻吟《しんぎん》したようである。  五日間かけておこなわれた治安維持部隊の引き継ぎ作業の最終日になって、ファンはようやく常陸TCの資料を海人に渡した。資料は、常陸TCの正式メンバー百三十八人の顔写真付きリスト、事務所と関連企業名およびその所在地、物流の実態の概要等からなっていた。  孤児中隊から分割された四個小隊が、治安維持部隊として常陸市に展開すると、高速道路の五ヵ所のインターチェンジほか、幹線道路のすべてと港湾の検問所で、常陸TCの物流が厳しい検査をうけた。  初日から逮捕者が続出し、反政府軍との武器やドラッグの取引に関与した者は、即日で銃殺刑に処せられた。二日目の午前中、常陸TCの幹部が中隊本部にきてワイロを渡そうとした。白川中尉は、その幹部とボディガード二人を贈賄の罪でただちに銃殺した。俊哉の分隊が死体をプーシキン通りへ運び、常陸TC本部事務所まえに放り捨てた。  同じ日の夜、白川中尉は連隊本部から呼び出しをうけた。海人は東仁の分隊を彼女の護衛につけ、彼自身も俊哉とボリスの分隊を率いて五浦《いづら》海岸の連隊本部の近くで待機した。中尉は、連隊長ほか幹部と四十分ほど激しく言い争ったのち、東仁の分隊とともに建物から出てきた。 「なにも問題はない。どいつもこいつも萎《しな》びたペニス野郎だ。作戦を貫徹しろ」中尉が眉《まゆ》と眼を吊《つ》りあげて言った。  長引かせる理由はどこにもない、というのが中尉の一貫した主張だった。常陸TCの物流を十一日間ストップさせたのち、中尉、海人、ファンの三人で作戦会議をひらいた。ファンは顔色がすぐれなかったが、もうその段階では決意を固めており、厳しい表情で作戦に手抜かりがないかどうかをチェックした。  海人はイリイチ大尉と会って作戦の概要を伝え、不測の事態が起きた場合の支援を要請した。 「半日でおわるな」イリイチが言った。 「まる一日ぐらいは」海人は言った。 「気狂い白川め」イリイチが愉快そうに言った。  十二月十二日の昼間、プーシキン通りを見下ろす治安維持部隊の駐屯地に、海人の小隊の戦闘車両が、時間をずらして分隊ごとに入った。同じ日の夜、海人は、治安維持部隊の四人の小隊長と孤児中隊の三人の小隊長をあつめて、作戦会議をひらいた。  翌、十三日、夜明けと同時に、ロシアマフィアの突撃隊がロケット砲と軽機関銃で、市内二十七ヵ所の常陸TCの関連施設と幹部の自宅をいっせいに攻撃し、きっかり三分間射撃して、すばやく撤退した。その直後、海人はマフィア抗争の鎮圧を名目に、指揮下の全部隊に攻撃命令を出した。  常陸TCの事務所はプーシキン通り周辺に集中していた。海人の小隊は、国道245号線と、プーシキン通りの南北の出口と西側の十数本の路地を封鎖した。まずボリスの分隊が対戦車ミサイルを常陸TC本部ビルのエントランスホールに叩《たた》き込んだ。地響きのような爆発音とともに、ガラス、コンクリート、ひしゃげた鉄枠やら人間の肉片が飛び散った。それを合図に、小銃、軽機関銃、ロケット砲で武装した歩兵が、地域内の常陸TC関連施設の掃討をはじめた。  同様の作戦が、常陸市を七区域に分けた全作戦地域で同時に敢行された。兵力は、25ミリ機関砲搭載の装甲車八両、12・7ミリ重機関銃搭載の軽装甲機動車五十六両、実戦経験豊かな重装備の孤児の歩兵およそ二百四十人。百三十人ていどのマフィアに勝利の目はまったくなかった。ロシアマフィアに奇襲された直後で、混乱のただなかにいた常陸TCは、突如あらわれた孤児部隊の軍事介入に戦意を喪失した。  プーシキン通りの作戦は二時間でほぼ終了した。 「拘束したぞ」俊哉が無線で報告してきた。  海人は〈スボータ〉のまえに軽装甲機動車をつけた。店内から追い出された娼婦《しようふ》たちが、毛皮のコートを引っかけ、寒そうに足をばたばた言わせていた。海人は車を降りながら、ここで偶然、竹内里里菜に声をかけられたのだなと思った。一昨年の二月の末、ふと気づくと腰にベレッタを差してプーシキン通りをうろついていた日の、自分の狂気とよるべなさが、彼の胸をよぎった。  俊哉の分隊の小銃手が二人、若い男を両脇から抱えて、スボータのエントランスから降りてきた。高価そうなウールのスーツを着た若い男が道路に転がされた。右の太股《ふともも》が鮮血に染まっていた。隆がナイフで太股の付け根を切りつけた記憶がよみがえった。リストでなんども顔を確認していた。常陸TCのボスの甥《おい》、高桑将太、二十二歳。甘いマスクに口ひげ。恵を拉致《らち》しようとして失敗し、その腹いせから、孤児三人のささやかな幸せを破壊した男。 「たかくわ」海人はささやく声でよびかけた。  高桑が首を無理にねじって海人を見あげた。不思議なことに、さほど強い憎しみを感じなかった。予定していた仕事を片づけるように、海人はAKM2の銃口を向けた。パンと銃声。娼婦たちの悲鳴が重なった。高桑の後頭部から血が噴き出て路面を流れ出した。  水木《みずき》町の高級住宅街で午前十一時すぎに最後の逮捕劇があった。それで全戦闘は終息した。二十九人を射殺。常陸TC会長の高桑真吾をふくむ七十六人を逮捕。ほかに三十人前後が逃走あるいは潜伏中と思われた。孤児部隊側の損害は、戦死者一人、負傷者数人だった。市内全域で押収した大量のドラッグを、プーシキン通りを望む駐屯地にあつめ、海人が立ち会って、ファン・ヴァレンティンとソムサックが査定した。  孤児中隊が、福島県勿来町のゴルフ場跡地に設営された中隊本部にもどったとき、パワーショベルがフェアウェイにばかでかい穴を掘っていた。常陸TCの二十九の死体を放り投げ、つぎに逮捕者を穴の縁にずらっとならべて、白川中尉の号令で銃殺した。  深夜、白川中尉は鵜の岬のホテルで、ファンから米ドル紙幣がぎっしりつまったアタッシェケースをうけとった。およそ一時間後、緊張で顔を強張《こわば》らせた連隊長が一人で部屋に入ってきた。海人とファンは廊下へ出たが、すぐにファンが部屋に呼ばれ、カネを連隊長の個人口座へ振りこむよう指示をうけた。  常陸TC殲滅《せんめつ》作戦は、白川中尉の全面的な勝利でおわった。     70  海人は、常陸TCのドラッグを売却してばく大な資金を手にすると、その一部をただちに孤児中隊と治安維持部隊の全員に分配した。東京の家族にも、月々の学資と生活費のほかにいくらか上乗せして送金した。  クリスマスイブには、市内にむかしからある二つの孤児院と、ンガルンガニが運営する『イーハトーヴの森』をおとずれて、孤児たちにプレゼントを贈った。  イブの夜、海人は東京に電話をかけた。  海人は九月で十八歳になっていた。来年春、隆は小学校を卒業し、恵は中学三年生になる。三人とも人生の長い旅路の入口にやっとたどり着いたところである。その若さにもかかわらず、彼らはむかし話に熱中した。〈大家さんのアパートの階段の下の我が家〉で暮らした歳月は、すでに彼らの黄金時代だった。心ぼそかったけれど、混じりっけなしの力強い愛情で固くむすばれていた七年間を、三人は懐かしんだ。  月田姉妹と電話を代わった。 「あたしたちは人生を悔い改めることにしたよ」姉妹の一人が言った。 「このマンションを出て自活する。府中《ふちゆう》市で安い部屋を見つけて、昨日、手付けを払った」もう一人が言った。 「だめだよ。ふたりともまだ十九さいだ。それに女の子だ」海人は反対した。 「なに寝ぼけたこと言ってんだよ。もう十九歳だ。しかも、とびっきりのすれっからしだ」姉妹の一人が明るい口調で言った。 「はたらいて食えるさ。あたしたちは長距離ドライバーでもやろうかと思ってる」もう一人が言った。 「いちばんきけんなしょうばいだ」海人は厳しく言った。 「兵隊よりましだろ」 「大型の免許証を闇で買ったし、イリイチ夫人の従兄弟《いとこ》に10トン車を手配してもらってる」 「きみたち、めちゃくちゃだ」海人は嘆いた。 「仕事はいくらでもある」 「紛争地帯を飛びまわるんだ」  海人は電話のこちら側で顔をしかめた。いったん決断すれば、どんなに困難な道であれ、月田姉妹は果敢に突きすすむだろうと思った。これまでもそうだったし、これからも彼女たちのやり方は変わらないだろう。 「がっこうにもどる気になったら、そう言ってくれ。おうえんする」海人は言った。 「カイトのこと大好き」姉妹の一人が心をこめて言った。 「尊敬してる」もう一人が叫ぶように言った。 「でもあたしたちは長距離ドライバーになる」 「これはある種の信仰告白なんだ」 「きみたちは頭がよすぎて、言ってることがぜんぜんわからないよ」海人は言った。     71  クリスマス当日の夜、海人は、プーシキン通りに近い治安維持部隊の駐屯基地でシャワーをあびた。新品の下着とシャツ、セーター、防寒服、ワークパンツに着替えると、AKM2を手に、ファン・ヴァレンティンの事務所まで歩いた。ファンに白い乗用車を借り、自分で運転して花屋へよった。  懐かしい路地をめぐった。苔《こけ》むしたブロック塀の内側から、アナスタシアという名の老いた牝犬《めすいぬ》の神経質な唸《うな》り声が聞こえた。どの水銀灯も故障したままだった。庭に車を乗り入れた。三年ぶりだった。左手に母屋の明かり。右手に建て替えた二階建てのプレハブ・アパート。保冷庫をのせた軽トラック。母屋の玄関ががらっとひらいて、黒っぽいフェイクの毛皮のコートを着た里里菜が出てきた。海人は助手席のドアをあけた。彼女のすばらしい笑顔がのぞいた。 「わざわざありがとう。お姫さま気分よ」里里菜が言った。  海人は笑みを返した。里里菜が赤いハイヒールとほっそりした脚を入れ、なめらかな動きで助手席に腰を下ろした。ドアが心地よい音を立てて閉まった。 「わっ、いい匂い」里里菜が言った。  海人は上体を背後へねじり、後部座席の白い花束をとって、里里菜の腕のなかにおさめた。しばらく匂いを嗅《か》いでいた彼女は、花束で母屋からの視線をさえぎると、首をのばして海人にキスをした。 「ファンのおじちゃんの店をよやくしてあります」海人は言った。 「うれしい」里里菜がもう一度短くキスをした。  海人は車をプーシキン通りへ向けた。 「おじいちゃんはどうですか?」海人は訊《き》いた。 「惚《ぼ》けたまま、なんとか安定してる」里里菜が言った。 「おばあちゃんは?」 「毎日、自分で自分に気合い入れてる。おじいちゃんのおしめをとり替えるまえに、かならず自分の顔をばしばし叩く」 「がんばってるんですね」 「あのおばあちゃんで、ほんと助かってるのよ。孫もおばあちゃんの背中をちゃんと見てるしね。朋幸もすこしずつだけど、他人の苦しみを気づかう子になってるみたい」 「ともゆきは口べたなだけで、まえからそういうやつです」 「けっこう幸せ」里里菜が海人の言葉に微笑んだ。「恋もしてる。好きな男の子がいるの。そいつ、いそがしいやつだから、あんまり会えないのが悩みといえば悩みかな」  車は光のアーチをくぐった。ファンの話では、昨年の倍の三十万個の電球を使ったというイルミネーションが、プーシキン通りを夢の世界のように輝かせていた。  すし・バー〈碧〉のパーキングに車をとめた。海人はドアをあけ、股《また》の間にはさんだAKM2をつかんだ。里里菜が鋭い視線をちらと投げたが、なにも言わずに車を降りて、海人と腕を組んだ。いまでは海人の方が頭一つ分背が高かった。黒服の男にAKM2をあずけて店内に入った。  ロシアマフィアの幹部、彼らの家族、政府軍やアメリカ軍の将校で、ほとんどの席が埋まっていた。ファンがにこやかにあらわれて二人をカウンターの端の席に案内した。シャンパンで乾杯した。海人は一口でやめようとしたが、ファンと里里菜にそそのかされて、どうにかグラスを空けた。  ファンが二人の隣の椅子に腰をかけて料理を説明してくれた。なまこの白酢和え、小鯛の刺身、牡蠣《かき》のとろろ蒸し、おこぜの山椒《さんしよう》焼き、伊勢《いせ》海老《えび》とウドの煮合わせ、芽|生姜《しようが》の素揚げ、すっぽん汁。里里菜は日本酒を味わいながら、つぎつぎと出される料理を、きれいに片づけていった。 「こいつは恐ろしいやつだぞ」ファンが海人の肩に手をかけて里里菜に言った。 「どこが?」里里菜が訊いた。 「俺のキンタマをがっちりにぎってる。もう片っ方の手ですばらしい女をつかまえてる」 「なんだか不潔な感じがする」里里菜が眉《まゆ》をしかめた。 「ベスト・カップルに乾杯」ファンがウオッカのグラスをかかげた。 「乾杯」里里菜が破顔して日本酒のグラスでおうじた。 「あんたはほんとにいい女だ。度胸がある。背筋がぴんとのびてる。謎めいてる部分もある」 「どこが謎めいてる?」里里菜がうれしそうに訊いた。 「ベッドのなかのことさ。ぜんぜん想像がつかない。魚屋にしておくのはもったいないぜ。俺が知ってる日本の女のなかで一等賞だ」 「乾杯」里里菜がまたグラスをかかげた。  海人はシャンパンのせいで頭がぐらぐらゆれた。握り寿司《ずし》をすこしつまんだ。それから葛《くず》切りと黒|蜜《みつ》とメロンが出た。ぜんぶきれいに食べて、海人と里里菜は店を出た。 「さんぽしませんか」海人は言った。 「うん、散歩しよう」里里菜が言った。  海人はAKM2を肩に担ぎ、空いている方の腕を差し出した。里里菜がすばやく自分の腕を巻きつけた。二人は、まばゆい光が降りそそぐプーシキン通りに出た。トナカイ、クリスマスツリー、雪だるま。イルミネーションのオブジェを愉《たの》しみながらゆっくり歩いた。輝くような笑みをうかべた里里菜の横顔を、海人は、ときおり盗み見た。そのたびに、彼女への自分の気持ちに、ゆらぎがまったくないことを確認した。眼鼻立ちが自分の好みにぴったりだと思った。それだけでなく、内面の美しさも完璧《かんぺき》な女性だと、彼は自分に言いそえた。  竹内里里菜の魅力の基本にあるのは活力だった。それが彼女の若々しさを人に強く印象づけている。一方で、人間が苦悩する現場に立ち会い、他者とともに煩悶《はんもん》するという体験を重ねることで獲得された彼女の芯《しん》の強さは、ちょっとした表情、仕草、言葉の端々にもはっきりとあらわれており、それが実年齢以上の風格を彼女に与えている。そういうことを、言葉で人にうまく説明できなくても、海人は、事柄の本質的なところでよく理解していた。  サンタクロースのイルミネーションのオブジェのまえで、二人は足をとめた。オブジェの向こうにシャッターが降りた店がある。海人はワークパンツのポケットからキーを出して、シャッターの鍵穴《かぎあな》に差し込んだ。 「なにするの?」里里菜が小声で訊いた。 「ファンのおじちゃんのしょうかいで買ったんです」海人はこたえた。  シャッターをあげた。中央のガラスのドアに『De Baere』とある。海人はべつのキーでドアをあけ、なかへ入った。 「ダ・バーラっていうケーキ屋さんだったところでしょ?」里里菜が海人の背中に言った。 「そうです」  海人はペンライトを点《つ》けて壁際へいき、コンソールのスイッチを片っぱしから押した。電源は入らなかった。プーシキン通りのイルミネーションの明かりが流れ込んで、店内の様子がうっすらとわかる。ガラスの空のショーケースがぜんぶで五つ。売場の奥に喫茶ルームがある。ティーテーブルと椅子は持ち出されて、がらんとしている。喫茶ルームの左手の通路をすすんだ。厨房《ちゆうぼう》にガステーブルと調理用のステンレスのテーブルが放置されている。二人は喫茶ルームの方へもどった。 「ファンのおじちゃんは、ゆかをタイルにすれば、このまま魚やになるって言うんです」海人は言った。 「魚屋って?」 「せんぎょをうる店」 「広さもちょうどいいかもしれないね」里里菜が薄暗い室内へ視線をめぐらした。 「こおりをしきつめて、魚をきれいにならべる。しょうめいをくふうすれば、ぜんぶこうきゅうな魚に見える。せんそうなりきんのにょうぼうたちが、いっぱい押しかける。ファンのおじちゃんがそう言ってます」 「除隊したらカイトは魚屋をはじめるの?」 「リリナさんにプレゼントするんです」 「この店を?」 「うけとってください」 「だめよ」  思いがけず厳しい里里菜の声が、二人の間の薄闇に落ちた。海人は入口のガラスのドアを背にして立っていた。そこから奥へのびるガラスのショーケースの端にいた里里菜が、快活な靴音をひびかせて海人に近づき、両手で彼の顔をはさみつけると飛びあがるようにしてキスをした。 「うれしいけどだめ」里里菜が言った。  彼女は海人からAKM2を奪ってショーケースの上に寝かせ、自分のバッグもそこにおいた。海人の防寒服のファスナーを下げ、自分の毛皮のコートのまえをはだけた。からだをぴたりとよせ、顎《あご》をあげて、海人の唇をうけた。 「なぜだめなの?」海人は訊いた。 「世話になりっぱなし。借金はきれいに片づいた。朋幸はちゃんとした学校に通ってる。ぜんぶカイトのおかげ。これ以上プレゼントされたら、一生かかっても返せない」 「かえさなくていい」 「あたしはどうしても返したいの」里里菜が強い口調で言った。 「おれとけっこんしてください」海人はあっさりその言葉を口にした。  里里菜のルージュを引いた唇がかすかにひらいた。両手を海人の首の後ろにかけ、その姿勢のまま、彼女はぶら下がるようにして体重をかけた。海人をあおぎ見ている彼女の眼で、赤や緑のイルミネーションが点滅し、そのきらきらした映像がふいに膨脹して崩れた。彼女の頬を伝う滴を、海人は見た。 「あっちこっちで女と遊んでるくせに」里里菜が非難する声で言った。 「けっこんしたらうわきはぜったいしません。やくそくします」海人は生真面目な口調で言った。 「歳の差が十六もある」 「リリナさんは、そういうことを気にする人じゃない」 「そうね、ぜんぜん気にしない」 「じゃあきまりだ」 「結婚はできない」 「どうして」 「あたし処女じゃないのよ」里里菜がそれが決定的に重要な問題であるかのように、真摯《しんし》なひびきの声で言った。 「いみがわかりません」 「カイトは処女と結婚しなくちゃだめ」 「ちゃんとせつめいしてください」海人はちょっと怒った声を出した。  里里菜は眼に涙をためたまま海人を見つめ、考えをめぐらす沈黙をおいた。 「男を知ってるとか知らないとかいう意味じゃなくて、処女のような、初々しい若い女の子と、カイトはいっしょになって、二人でたくさんの失敗を重ねなさい、とあたしは言ってるの。それが結婚の正しい姿」 「ぜんぜんわかりません」 「カイトはまだ若すぎる。あたしの言葉を理解するには若すぎるっていう意味でも、若すぎる。あたしとカイトのいまの関係が最高。そのことがわかる日が、きっといつかくると思う」  頭が混乱していたが、プロポーズを里里菜が頑《かたく》なに拒否していることは理解できた。悲しみの感情がふいに押しよせてきた。こんどは海人が思わず涙をこぼした。里里菜が海人を抱きしめて唇を重ねた。二人は舌をからませて相手を強く吸った。彼女の手がワークパンツの上から海人の性器をまさぐった。それはたちまち熱く膨脹した。ファスナーが降ろされた。里里菜は海人の硬直した性器を引っ張り出すと、ショーケースの上のバッグからコンドームのパッケージをとり出して、乱暴な仕草で破いた。海人は首をねじって、ガラスのドア越しに表を見た。サンタクロースのオブジェを、家族連れがうっとりした表情でながめている。性器の根もとまでコンドームがかぶせられた。 「人に見られる」海人は言った。 「娼婦《しようふ》が酔っぱらいに、おしゃぶりしてるって思うだけよ。のぞき見するやつがいたら、AKで追っぱらっちゃえばいい」里里菜が平然と言った。  里里菜がコートの内側に両手を入れて、ニットの赤いスカートを腰までずりあげた。同じ色のガーターストッキングとハイレグのパンティがあらわになった。片方の脚が海人の腰に巻きついた。海人は彼女の尻《しり》に手をかけて軽々と持ちあげた。彼女は両脚で海人の腰をはさみつけると、左手を海人の肩にかけ、右手を自分の脚の付け根に差し入れた。海人の性器は導かれて、彼女のなかになめらかにすべり込んだ。 「どこから入ったの?」海人はまぬけな声で訊《き》いた。 「ちょっとした隙間から」里里菜が微笑みかけた。  里里菜が海人にぶら下がった体勢のまま腰をそっとゆすった。海人は思わず声をもらした。 「処女はぜったいこんなことしない。わかるでしょ」里里菜が性的な興奮と深い断念が入り混じる奇妙に熱っぽい声で言った。 [#改ページ]   第6章 鎮魂の海     72  海人は豊富な資金力を使って、いわき軍の捕虜や脱走兵から優秀な孤児を選抜し、常陸市の治安維持部隊にさかれた四個小隊分を復活させた。東仁、ボリス、俊哉は小隊長に昇格した。常陸TC殲滅《せんめつ》作戦の際にワイロをたっぷりつかまされた連隊長は、いっさい口を出さず、孤児中隊の再編強化を黙認した。  応化十四年三月、佐々木海人、クワメ・エンクルマ、葉郎、ボリス・ハバロフの四人は徴兵期間をおえた。彼らが習得しえたのは、組織的な人殺しの技術である。歓迎される職場は、軍隊かマフィアか、どちらかだった。彼ら四人は、戦場で三年間をともにすごしてきたほかのほとんどの孤児兵と同じように、志願兵として部隊に残った。  海人はイリイチに相談にのってもらい、外国銀行に恵と隆のための口座をつくった。預金額は、二人があと十五年間ほど、安全な土地で、たとえばオーストラリアや西ヨーロッパで、学業をつづけるのにじゅうぶんな額だった。  口座開設の手続きが東京でおこなわれた日の夜、隆から電話があった。 「カイト、いろいろ気をつかわせて悪いな」隆がいつもの生意気な口調で言った。 「長男のせきにんをはたしてるだけさ」海人は言った。 「おれ勉強がんばるから」  隆の言葉に、海人は思わず涙ぐんだ。 「がんばれよな」海人は言った。 「メグがさ、もう三年たったから、帰ってくるのかどうか、きけって言ってるけど」隆が言った。  恵がなにを危惧《きぐ》しているのか、海人はよく承知していた。 「軍たいをやめるかどうかだろ」 「うん」 「いろいろじじょうがあってね」 「やめないつもりなのか」 「とうぶんは、そういうことになるよ」  海人は、もうしばらく、隆とおしゃべりをした。恵は電話に出なかった。海人も恵に電話を替わってくれと言わなかった。隆の態度にも、明らかに、長女が長男に感情を激しくぶつける場面を回避しようとする配慮があった。     73  いわき市攻略戦が二百七十日を超えた三月中旬のある日、海人は白川中尉の呼び出しをうけ、中尉が個室として使用しているテントをおとずれた。 「今夜、宇都宮で重要な会議がある。車と信頼できる護衛を手配しろ」中尉が言った。 「はい」 「連隊本部には一泊の予定で東京へ帰ると報告してある。つまり宇都宮行きは極秘だ。中隊本部の連中にも感づかれないようにしろ。会議の内容は会議が終了したあとで教える。いまはなにも訊《き》くな」  海人はファン・ヴァレンティンに頼んで、防弾ガラスと鋼板で装甲されたベンツを用意した。日没後、白川中尉が乗ったベンツが、北茨城ICから常磐自動車道に入って東京方面に向かった。エンクルマが運転していた。海人は助手席から携帯電話で指示を出して、二台の軽装甲機動車を、東海PAの先でベンツの前後につけさせた。軽装甲機動車の一両にはボリスと葉郎が、もう一両には東仁と俊哉が乗っていた。  水戸ICで常磐自動車道を降り、一般道を走って、夜遅く、宇都宮軍が収用した宇都宮市内のホテルに着いた。ホテルには白川中尉一人が入り、海人たちは職員用のパーキングにとめた車のなかで夜を明かした。  翌日の午後四時すぎ、会議参加者がホテルの裏口からパーキングに出てきた。イヴァン・イリイチ大尉と第12ミサイル大隊の大隊長の顔もあった。白川中尉が、大佐の階級章をつけた小柄な男と、くつろいだ表情で言葉をかわしながらあらわれた。海人は、小柄な男が中尉と別れて青いステーションワゴンに乗りこむのを視線で追った。そのどこか忙しげな身のこなしに記憶があるような気がした。 「小野寺《おのでら》大佐だ。おぼえてないか?」白川中尉がベンツの後部座席にすわると言った。 「もとのれんたいちょうですか」海人は言った。 「そうだ」  土浦市攻略戦で常陸軍を指揮し、水戸市で更迭された小野寺大佐の顔を、まぢかで見るのははじめてだった。最前線に投入された孤児兵が接するのは、せいぜい小隊長レベルである。海人は、小野寺大佐が更迭されたあとでイリイチに教えてもらうまで、連隊長の名前さえ知らなかった。  前線にもどる車中で、白川中尉が、東北方面軍の宇都宮軍と仙台軍との会談の概略を説明した。議題はいわき市攻略戦における軍事協力で、双方は基本合意に達したという。 「いまの段階では」中尉が言った。「師団司令部も統合参謀本部も、我々が東北方面軍と接触した事実さえ知らない。政府軍内部には、東北方面軍との軍事協力に反対する勢力がいる。水戸軍のわたしの従兄弟《いとこ》も、常陸軍の連隊長もその勢力と結託している。だから彼らを会談に呼ばなかった。小野寺大佐が会談の成果を東京へ持ち帰って、仲間と連携して権力闘争をはじめる。結果がどうなるか、まだなんとも言えない」 「しつもんしてよろしいですか」海人は言った。 「なんだ」 「二つのせいりょくのちがいが、よくわからないんですけど」 「我々と東北方面軍は、戦争を早期におわらせるべきだと考えてる。東北方面軍との軍事協力に反対する勢力とは、だらだらと戦争をつづけながら、個人口座がふくれあがるのを愉《たの》しみにしてる連中のことだ」     74  東京での権力闘争に一つの結論が出された。宇都宮市での秘密会談からおよそ二週間後の四月初め、汎用《はんよう》ヘリ一機と護衛の攻撃ヘリが二機、前線に飛来して、小野寺大佐が幹部将校とともに降り立った。常陸軍=第51歩兵連隊の連隊長は更迭されて、そのヘリで東京へもどされた。  白川中尉は、返り咲いた小野寺連隊長の庇護《ひご》下で、中隊本部要員を全員入れ替えた。中隊付き准尉には、士官学校時代の後輩を東京から呼びよせた。いくらか斜視で、頭の回転の速い若い女だった。海人は運用訓練担当の軍曹として中隊本部に入り、戦闘の実質的な指揮をまかされた。エンクルマと葉郎も中隊本部に入った。十数人の本部要員は女と孤児出身者で占められた。  勿来のゴルフ場のクラブハウスで、中隊本部要員が顔を合わせ、ささやかな祝宴がもよおされた。白川中尉は快活に飲み、よく笑い、おしゃべりを愉しんだ。 「風に当たりたいからつき合え」中尉がいくらか酔った口調で海人を誘った。  二人はフェアウエイをのんびりと下った。海人は生暖かい夜風に春の匂いを嗅《か》ぎつけた。常陸TCの百を超える死体を埋めた場所の脇をとおりすぎた。盛りあがった土に雑草がびっしりと生えはじめていた。 「母親のことはなにかわかったか」中尉が訊いた。 「林が死んだということがわかっただけです。それいがいのじょうほうは、森いんちょうのほうからも、まったく入ってきません」海人はこたえた。 「おまえの母親が、いわきで一時はたらいていたという根拠はなにもないからな」 「ええ」 「ファンにメグの話を聞いたぞ」 「はい」 「イカと大根の煮込みの場面からぜんぶだ」  海人は中尉の横顔をちらと見た。信じられないほど表情がやわらかかった。二人はゆるやかな傾斜地を歩きつづけた。中尉の問いにこたえるかたちで、海人は家族の長い長い物語を話した。その途中、西北の方角で大きな爆発音がひびき、閃光《せんこう》が夜空を照らした。海人はエンクルマに携帯電話をかけて情報を収集するよう命じた。     75  二人が夜風に吹かれながらフェアウエイを歩いていた時刻に、水戸軍の連隊本部に正体不明の部隊が接近した。連隊本部は、いわき勿来IC近くの三階建ての鉱泉ホテルを使用していた。午前零時四十九分、連隊長の尾崎秀樹少佐の三階の居室を、対戦車ミサイル二発が直撃した。尾崎少佐の肉体と居室の残骸《ざんがい》は周囲数百メートルに飛び散り、建物は炎上して全壊した。  夜明けまえに、事件の詳細を斜視の准尉から知らされたとき、海人は反射的に、白川中尉は従兄弟の暗殺計画を知っていたなと思った。彼は疑念を誰にも話さなかった。中尉は個室のテントに引きこもって、終日、姿を見せなかった。  水戸軍連隊長暗殺事件は、いわき軍の決死隊の奇襲攻撃として処理された。尾崎少佐の肉体の一部が師団旗にくるまれて東京へ送られ、水戸軍の連隊長には、小野寺大佐の元部下の副連隊長が昇格した。     76  尾崎少佐の暗殺を契機に戦線がいっきに流動化した。四月中旬、政府軍が保有する数すくない艦艇のうち、二隻の駆逐艦が派遣されて小名浜港を完全に封鎖した。常陸軍と水戸軍は威力偵察をくり返し、潜入させた諜報員《ちようほういん》の情報およびアメリカ軍から入手した衛星写真と照らし合わせて、いわき軍の戦力配置の詳細な分析をおこなった。  海人が賞金をかけた三人の武装勢力司令官の現在地が判明した。四倉港周辺に展開していた〈石渡大尉〉=高橋豊が率いる部隊は、仙台軍の圧力をうけて、夏井《なつい》川の南へ撤退してそこに防御陣地を築いた。〈山崎中尉〉=小川馨は八十人の部下と国道49号線の防御に、〈田村中尉〉=横尾信二は百二十人の部下と国道399号線の防御についていた。  イリイチ大尉による敵の外国人部隊に対する懐柔作戦は、複数の司令官と秘密協定をむすんで最終段階をむかえた。  当初、二万人とも三万人とも噂された、いわき軍の戦力は、せいぜい五千人どまりであることが、造反した外国人部隊司令官の話でわかった。だがいわき軍は、八十万市民を人間の盾として、強気の姿勢を崩さず、降伏交渉は進展しなかった。  四月二十日までに、ンガルンガニの軍事訓練が完了した。爆発物の取り扱いを集中的に訓練された二十三人をふくむ、二百九十一人の女と十八人の男が、最低限、小火器をひととおり扱える兵士としていわき市内へ送り返された。彼らは手ぶらでもどり、現地で営業するソムサックから武器・弾薬をひそかに購入した。代金はすべて海人が支払った。  同月末のある夜、海人は竹内里里菜と常陸市内のホテルで会い、プーシキン通りの店の権利証と運転資金を渡した。予想に反して、里里菜は素直にうけとった。 「おっきな戦争がはじまるのね」里里菜が言った。 「たぶん」海人は言った。 「ちゃんと借用書を書く」 「それでいい」 「おカネは返すんだから、死んじゃだめよ」 「うん、わかってる」     77  快晴の五月四日早朝、政府軍のミサイル大隊による攻撃準備射撃がはじまった。敵の塹壕《ざんごう》、バンカー、迫撃砲陣地、榴弾《りゆうだん》砲陣地、地対地ミサイル陣地、地対空ミサイル陣地に激しい砲火をあびせた。  孤児中隊は、連隊本部管理中隊所属の戦車を先頭に進撃した。海人の軽装甲機動車は、重機関銃の銃座に葉郎がつき、エンクルマが無線を担当した。  午前七時ちょうど、小名浜港、JR湯本《ゆもと》駅の東、塩屋崎《しおやざき》灯台近くの三ヵ所の弾薬庫が大爆発を起こした。小名浜港の上空に高く昇る炎の塊が、江栗大橋を渡る海人の眼にはっきりと見えた。 「ばくだんテロだ!」葉郎が興奮して叫んだ。 「女たちだ。ンガルンガニが、さくせんをせいこうさせたんだ!」海人も叫んだ。  腹にひびく爆発音は二十数分間にわたってつづいた。同時刻に、北から仙台軍が、西から水戸軍が、いっせいに進攻した。イリイチの工作で寝返ったいわき軍外国人部隊も蜂起《ほうき》して、小名浜港の総司令部を攻撃した。  孤児中隊は八個小隊で編成されていた。クサビの隊形を組んだ三両の戦車を先頭に、その背後を、装甲車、軽装甲機動車、自走無反動砲等の歩兵戦闘車およそ七十両がすすんだ。  対戦車火力の向上により、戦車が地上戦闘に占める地位は相対的に低下した。とりわけ市街戦では防御の弱点をさらすことが多く、じっさいに内戦をつうじて大量の戦車が破壊されて、政府軍が保有する車両はわずかな数だった。それでも敵の防御ラインを突破するうえで、戦車と歩兵部隊を組み合わせて双方の戦闘能力を補完させるのが、もっとも有効な戦法だった。  戦車の120ミリ砲が鮫川北岸の敵の防御陣地へ激しい攻撃をくわえた。クサビ隊形の戦車の右翼と左翼で、機動性にすぐれた装甲車と自走無反動砲が掩護《えんご》射撃をおこなった。上空を旋回する哨戒《しようかい》ヘリが、四キロメートル後方の第二防御陣地から支援の敵戦車四両があらわれるのをキャッチした。ただちに、勿来のヘリポートから攻撃ヘリ二機が飛び立ち、敵戦車を追いまわして対戦車ミサイルで大破させた。  敵は雪崩を打って逃げ出した。孤児中隊は、第一および第二防御陣地をあっさりと突破し、予想をはるかにうわまわるスピードで県道を北上した。午前九時すぎに国道6号線に達すると、こんどは南下してバイパスとの分岐点まで部隊をすすめ、そこに攻撃拠点を築いた。やがて後続の第1および第2中隊が到着した。それを待って、孤児中隊はいったん西へ向かい、つぎに鹿島街道を南下して、敵の主力が集結する小名浜港まで二キロメートルの地点に中隊指揮所をもうけた。  市内数十ヵ所に配置されたンガルンガニの観測班から、戦況が衛星携帯電話で刻々と報告された。敵は全戦線で敗走していた。大半の部隊は小名浜港の拠点に逃げ込んだ。そのおよそ十二キロメートル北の、いわき市庁舎周辺には数百人の敵部隊が集結して、内陸部への脱出の機会をうかがっていた。  白川中尉が指揮所で海人に命じた。 「ボリスの小隊を中隊本部の防衛にあてる。おまえは残りの七個小隊を連れて敵の総司令部を攻撃しろ。短期決戦だ。すばやく、徹底的に叩《たた》け!」  海人は、ふたたび戦車を先頭に立て、フルスピードで七個小隊を進軍させた。いわき軍総司令部は、小名浜港周辺の市街地に幾重にも防御ラインをめぐらし、その内側に数万人の住民を人質にとって、徹底抗戦のかまえを見せていた。戦闘が長引けば民間人に多数の死傷者が出る。市街戦を決断したからには、速攻で決着をつけなければならなかった。  仙台軍との協定で、小名浜港は共同管理、政府軍の占領地は、国道6号線のバイパスおよび国道399号線の西側と定められていた。  敵の最大戦力が配置された小名浜港の攻略をめざして、仙台軍の精鋭部隊が北から迫り、イリイチの中隊が南から攻めあがり、その二つのルートの中間の鹿島街道から孤児中隊が進攻した。  県道15号線まで二百メートルの地点に、敵が放棄した防御陣地があった。道路を封鎖した蛇腹の有刺鉄線、土嚢《どのう》の壁、車両のバリケードを、戦闘支援用ドーザで突き崩した。その最中に白川中尉から無線が入った。 「P611の通信がとだえた。P598が偵察員を二名送ったが、銃撃をうけてその連中も通信がとだえた。P598の本隊は現在敵戦車一両と交戦中」中尉が言った。  Pとはprostitute=娼婦《しようふ》の略で、P611はンガルンガニの特定の観測班を示す。中尉は、P611の観測基地と偵察員の通信がとだえた地点、およびP598が敵と交戦中の地点を、軍用地図のグリッド数字で告げ、「敵を追っ払え!」と命じた。  海人は軽装甲機動車のなかで軍用地図をひろげた。P611が観測基地をもうけた地点は、現在地から三十メートル南に下った右側のビルだった。さらに百七十メートル前進すると、小名浜地区を東西に貫通する県道15号線に出る。それを右折して四十メートルすすむと右手に天主教会があり、その周辺がP598が敵戦車と交戦中の地点だった。  路地はバリケードと地雷で封鎖されていた。機動性にすぐれた軽装甲機動車で迂回《うかい》する方法はとれない。交戦地点がわずか二百メートル先なら、下車戦闘の隊形で歩兵を送り込むのがベストの選択だった。一個小隊に、携行式の対戦車ミサイルの射手三名が編成されており、市街地での近接戦闘なら戦車にじゅうぶん対抗できる。海人は、右翼に展開している池東仁を無線で呼び出し、交戦地点を教えた。 「おまえのしょうたいにまかせる。てきをせんめつしろ!」  海人はべつに一個小隊を下車させ、メインストリートの地雷源とトラップのチェック、および左右の路地の索敵をおこなわせた。また白川中尉に依頼して哨戒ヘリを呼び、ビルの屋上に敵がいないことを確認させた。  バリケードがとりのぞかれて、視界がひらけた。道路の両側は商業ビルやマンションが混在している。海人は、狙撃兵《そげきへい》を警戒して、まず25ミリ機関砲を搭載した偵察警戒車二両を先行させた。人影はなく、重苦しい沈黙が街に立ちこめ、市民は建物のなかで息をひそめているようだった。偵察警戒車が通過したあとを、老いぼれた犬が一匹よろよろと道路を横切った。  二両の偵察警戒車が県道15号線に達し、異常なしの報告をよこした。海人はなお一瞬、決断をためらった。現在地から県道15号線までの地域を、P611が観測していた。彼女たちが連絡を絶ち、その安否を確かめようと偵察に出たP598の二人も連絡を絶った。そうであれば、視界の先のビルの谷間に、敵がキル・ゾーンをもうけた可能性を検討すべきである。だが速攻をもとめられていた。迂回は選択すべきでない。路地にも多数の障害物があり、大部隊の戦闘車両の移動は遅滞をよぎなくされる。  海人はGOサインを出した。戦車を先頭に、主力部隊が二列縦隊で左右のビルに銃口を向けて前進を再開した。万が一、敵の攻撃をうけた際、被害を最小限にとどめるために車間を大きくとった。海人の軽装甲機動車が、P611が観測基地をもうけた地点を通過した直後、数発のミサイルが赤い炎の尾を曳《ひ》きながらビルの谷間を飛びかった。 「ドラゴンだ!」葉郎が叫んだ。  敵が放った携行式の対戦車ミサイルだった。クサビの隊形をとった戦車の左翼の一両が直撃弾をうけた。ビルの谷間を閃光《せんこう》が照らした。戦車砲塔が吹き飛び、つづいて内部の弾薬が誘爆して巨大な火柱をあげた。  周辺のビルの窓がいっせいに火を噴き、ロケット砲、重機関銃、小銃の集中砲火をあびた。孤児中隊の歩兵戦闘車が、40ミリグレネードランチャー、106ミリ無反動砲、12・7ミリ重機関銃で応戦した。南北二百メートルの距離のキル・ゾーンに、孤児中隊の三分の一の部隊がはまり込んでいた。死者や負傷者はいったん放棄するほかはない。味方の救出にこだわれば被害は甚大なものになる。  海人は無線マイクにがなり立てた。 「えんまく弾をうて! ぜんいんキル・ゾーンからだっしゅつしろ!」  ふたたび閃光が走った。対戦車ミサイルはレーザー誘導で目標をとらえる。近距離で発射されたらまず逃げ切れない。地面をゆるがす爆発音とともにもう一両の戦車が燃えあがった。被弾した戦闘車両から兵士たちが下車して、小火器で応戦しながら味方の負傷者を路地へ運び込んでいく。また閃光。三両目の戦車の履帯が吹き飛び、壊れたおもちゃのようにがたがたと車体をゆらしながら半回転し、街灯の柱をへし折って停止した。そこへ対戦車榴弾が襲いかかった。爆発音が連続して戦車は炎につつまれた。海人の軽装甲機動車は、葉郎が重機関銃で弾幕を張りながら、炎上した戦車や装甲車を迂回して猛スピードで走り抜けた。  県道15号線に達すると、海人はただちに全方位の防御態勢をとらせ、状況の把握につとめた。二個小隊がキル・ゾーンを走り抜け、後方の四個小隊は敵の防御陣地があった地点の背後に撤退していた。失った戦闘車は、戦車三両、装甲車一両、軽装甲機動車五両、無反動砲一両。交戦現場に残した死傷者二十人以上。キル・ゾーンの手まえに後退した俊哉の小隊をふくむ四個小隊は、ほぼ無傷だった。  西四十メートル先の天主教会周辺で東仁の小隊が敵と交戦中だった。海人は東仁と無線連絡をとった。 「まちぶせこうげきをうけた。いまからそうとうする。そっちはおまえのぶたいだけでたりるか?」海人は訊《き》いた。 「たすけはいらない。もうすぐてきをせんめつできる」東仁が言った。  海人の視線の先のビルの陰から閃光がもれ、対戦車ミサイルの炸裂《さくれつ》音がとどろいた。 「せんしゃをやっつけたぞ!」東仁が無線で叫んだ。  海人は反転攻勢の作戦を立てた。キル・ゾーンは、狭い幅の空間の両側に巨大な壁がそびえ立ち、その壁の穴に敵の狙撃兵がひそんでいるようなものだった。攻撃ヘリが上空から攻撃するには角度がありすぎ、低空で飛べばビルの窓から集中放火をあびる。歩兵による近接戦闘しか選択肢はなかった。  幸いなことに、孤児中隊が隊列をととのえて攻撃拠点を築く間、背後から敵の砲撃をうけることはなかった。のちに判明したことだが、その時点で、いわき軍総司令部の最終防御ラインを、造反した外国人部隊が突破して、イリイチの精鋭部隊の侵入路をひらき、県道15号線以南の海沿いの地域では、いわき軍が追いつめられていた。  味方を誤って撃たないために、まず東側のビルに攻撃拠点を築くことにした。県道15号線に脱出した二個小隊は、損害のため実質一個小隊だった。そこで、キル・ゾーンの北側へ撤退した四個小隊に、東側のビルの敵の掃討と攻撃拠点の確保を命じた。  東側に拠点を築いた部隊は、対面する西側のビルの敵へ、三脚架つきの重機関銃、40ミリグレネードランチャー、ロケット砲等で激しい攻撃をくわえた。同時に東側のビルの内部に侵入した部隊は、敵の拠点の掃討をはじめた。  南へ脱出した部隊のうち、二個分隊が、道路に放置された負傷者の救出に向かった。 「ほんぶかんりちゅうたいがよんでる!」エンクルマが銃声に負けまいと大声を出して受話器を差し出した。 「出るな! ほっとけ!」海人は怒鳴った。 「すごくおこってるよ!」 「だからほっとけと言ってるんだ!」  本部管理中隊所属の戦車三両を失ったことへの叱責《しつせき》だろうと思った。もちろん現場指揮官として自分に落ち度がないわけではない。だがいまは敵の掃討に集中すべきだと、一瞬にして地獄と化したビルの谷間を見やりながら、海人は冷静に思った。  やがて味方の火力が圧倒しはじめた。東仁の小隊が敵を敗走させてもどったとき、東側のビルの掃討がほぼおわり、西側のビルへの突入がはじまった。  反転攻勢をかけてから三時間後、ようやく戦闘が終息した。孤児中隊が多大な犠牲を払って確保した道路を、後続の第1、第2中隊が南下して、敵の総司令部攻撃に向かった。  孤児中隊は地域一帯を封鎖して、負傷者の手当て、損害状況の把握、および部隊の再編成にとりかかった。損害は戦死者十四人、負傷者二十七人。ンガルンガニのメンバーと思われる女の死体二。敵の戦死者三十一人、捕虜十九人。民間人の死傷者も多数出ていた。  白川中尉から無線連絡が入った。 「P598のピックアップが、県道15号の封鎖線で足どめを食ってる。P611の消息を知りたいそうだ。現場を案内してやれ」  海人は県道を封鎖している部隊に連絡をとった。数十秒後、軽装甲機動車に先導されて黒いピックアップ・トラックがあらわれた。運転手、助手席に一人、荷台に小銃を抱えた四人、全員が女で、スカーフで顔の下半分を隠している。海人は荷台の若い女と眼が合った。向こうも気づいた。根本やや。プーシキン通りの食堂の元同僚で、土浦市攻略戦の際にマッサージパーラーで再会した女の子だった。海人は歩き出した。エンクルマ、葉郎、二人の小銃手の護衛がついてきた。  路肩に装甲車の残骸《ざんがい》がよせてあった。銃座が吹き飛び、路上に鉄片や死体の一部が散乱している。海人は三十メートルほど歩き、駐車したピックアップ・トラックに達した。女たちはすでに雑居ビルのなかに消えていた。海人は歩道を横切って、雑居ビルの狭い階段を昇り、二階のベトナム・レストランに入った。  レジ・カウンターのまえで小銃手が敬礼した。海人はフロアを突っ切った。椅子がいくつか倒れ、テーブルがずれ、食器が散乱している。窓際にスカーフで顔を隠した女たちがいた。海人が近づくと女たちの壁が崩れた。血で汚れたフロアに、女の死体が二つ、胸で手を重ねた姿勢で横たえてある。色白のきれいな顔立ちの女の死体に見おぼえがあった。長かった黒髪は短くカットされているが、川部町の孤児院で、海人が救出した二人の女のうちの一人にまちがいないと思った。 「カイト」根本ややがスカーフを首まで下げて言った。「P611は八人編成よ。残りの六人はどこ?」 「わからない」海人はこたえた。 「いっしょに闘ってるのに!」べつの女が口をゆがめて非難した。 「てきは、きみたちの仲間をころしたあとで、けいたいとぶきをうばってる。だからみもとをかくにんできないんだ」 「民間人の負傷者をどこで手当てしてるの?」ややが訊いた。  海人が口をひらきかけた瞬間、ガラスが砕け散った。窓を背にしたややのからだを銃弾が貫通して、海人の抗弾ベストに突き刺さった。衝撃で二人は折り重なるよう倒れた。ややの胸から噴き出した血が海人の視界をさえぎった。「カイト!」葉郎の叫びが聞こえた。だいじょうぶだ、と海人はこたえたが、ほんとうに声が出たのかどうか、自分ではわからなかった。  対面するビルの一室から放たれた銃弾が、5・56ミリという小口径だったことが、悲劇を最小限にとどめた。銃弾は、根本ややの右胸を貫くと、海人の抗弾ベストの胸ポケットに差した携帯電話を破壊して停止した。衝撃で倒れはしたが、海人は無傷だった。ややに応急処置を施したのち、現場から四百メートル北の公園に設営された野戦病院に、救急トラックで運び込んだ。     78  孤児中隊は隊列をととのえると、県道15号線以南に進攻して、建造物を一つ一つ占拠しつつ、いわき軍残存部隊の掃討をはじめた。  港湾施設と県道15号線の間に、幅二百メートルから四百メートルの市街地がある。内戦ビジネスで財を成したいわき軍幹部と雑多なマフィアが、そこに商業ビルと高級マンションを建設して、市内随一の商業センターであると同時に人口密集地になっていた。いわき軍総司令部は、開戦の当初から封鎖線を敷いて、住民を囲い込んだ状態で防御陣地を築いた。そのため、神経をすり減らす、血みどろの、恐怖にみちた、典型的な市街戦となった。  もう一つの重要な戦線であるJRいわき駅の南側では、市庁舎周辺に集結した敵部隊およそ四個中隊が、国道399号線に血路をひらいて北へ逃走をはじめた。それを仙台軍の攻撃ヘリが追撃し、敵戦闘車両をつぎつぎと破壊して、こちらの方は日没までに決着をつけた。  市街戦突入から四日後の五月八日朝、小名浜港のいわき軍総司令部が降伏した。政府軍と仙台軍は、いっさいの利権を放棄させる代わりに、いわき軍幹部の生命を保証した。どのみち彼らは、すでに資産の大半を海外に逃がしており、降伏条件は悪いものではなかった。同日午後、いわき軍幹部とその家族五十九人が、政府軍輸送ヘリ二機に分乗して東京へ飛び立った。  武装解除は、どの戦線でもつねに、敵兵が報復を恐れるために我慢を強いられる作業となる。指揮系統を失った小部隊が、ワイロと攻撃の二枚舌を使い、市内各地で逃走を試みた。恨みから市民にまぎれてしつような狙撃をくり返す敵兵もいた。  孤児中隊は、敵の武装解除、治安維持、死体処理、捕虜への訊問《じんもん》と部隊への編入と再訓練、ドラッグ地下工場の捜索と押収、あらたな徴兵等に忙殺された。  小銃の5・56ミリ弾で右肺上葉と肋間《ろつかん》筋を撃ち抜かれた根本ややは、命をとりとめ、野戦病院で手術をうけたのち、市立小名浜病院に転院した。海人は雅宇哩に彼女の世話を頼んだ。  政府軍と仙台軍は、それぞれ十数ヵ所の収容所を設営し、捕虜をあつめて訊問した。残虐行為の罪で戦犯とみなせばただちに処刑した。たんなる報復もあった。部下を失った指揮官は腹いせから敵幹部を撃ち殺した。  勝利から四日目の五月十一日、午前中の早い時刻だった。海人はソムサックをともない、二両の軽装甲機動車を連ねて、小名浜港から東北へ六キロメートルほどの丘陵地帯にある仙台軍第八捕虜収容所へ向かった。エンクルマ、葉郎、ほか小銃手二人が同行した。  仙台軍は、昨夜、武装勢力の司令官四人を捕虜虐待の罪で銃殺した。そのうちの一人、江名港で投降した男が、元東北方面軍第9師団司令部付き准尉、高橋豊、三十七歳、と名乗っていたという。  第八捕虜収容所は、谷間に掘られた産業廃棄物用の巨大な穴で、周囲に有刺鉄線の柵《さく》をめぐらしてあった。事務所で、収容所の責任者の少尉が待っていた。海人は高橋豊の写真を見せた。 「こいつだ」少尉が言明した。  海人は謝礼を払い、バックホウを借りて、埋葬場所を掘り返した。死体はまだ腐敗がはじまっていなかった。ソムサックが下着一枚の男の死体を〈石渡大尉〉だと断定した。  山崎中尉=小川馨と田村中尉=横尾信二の消息は不明だった。小川の部隊は、国道49号線のいわき中央IC付近で、水戸軍の攻撃をうけて四散した。横尾の部隊は、国道399号線を北へ逃走したが、仙台軍の追撃をうけて壊滅していた。横尾については捕虜の証言がえられた。五月四日、午前十一時ごろ、国道399号線で、〈田村中尉〉の指揮車両が仙台軍の対戦車ミサイルの直撃をうけて大破したという。  五月十九日、水戸軍が収容所に使っているJRいわき駅南の平ケイリン場で、反乱鎮圧に名を借りた捕虜に対する大|殺戮《さつりく》があった。二百余人の犠牲者のほとんどが、いわき軍の外国人部隊と孤児部隊で、明らかに差別的な残虐行為だった。  深夜、情報を入手したイリイチ大尉が、海人に緊急連絡をよこした。海人は白川中尉の了承をえたうえで、四個小隊を率いて、イリイチの部隊とともに平ケイリン場を攻撃した。散発的な小戦闘を経て収容所を制圧すると、イリイチは、責任者の水戸軍中尉ほか十数名をバンクの底でさっさと銃殺した。海人は、ンガルンガニに負傷者の治療を頼み、生き残った孤児兵の捕虜を常陸市の訓練基地へ送った。  イリイチと海人は、常陸軍の小野寺連隊長に事後報告した。小野寺は政府軍への忠誠を誓わせた。二人はよろこんで誓った。それで事件処理はおわった。     79  市内の病院は負傷した兵士と民間人であふれ返った。毎日二|桁《けた》の単位で死者が増えた。常陸軍の孤児中隊だけで死者二十八人。ンガルンガニは、爆弾テロ部隊で九人、観測班で二十二人の死者を出した。  ほんらい行政が果たすべき役割を、ンガルンガニが担った。彼女たちは、海人の資金援助で確保した大量の医薬品と医療器具をいわき市内へ運び込んだ。そして、ビラ、小集会、インターネット、あらゆる手段を使って市民に呼びかけ、医師と看護師経験者を中心とするボランティアを組織して、負傷者の治療活動にあたった。  準備した医薬品と医療器具はすぐに使い果たした。海人は森まりの要請をうけて、不足分を闇市場で調達した。  ンガルンガニは、また、街や河川に放置された死者を、所属部隊を問わず、軍と民間の区別もなく、手厚く弔うことに多大な労力と情熱を払った。彼女たちの依頼で、孤児中隊は、腐乱した身元不明の死体を山間部に葬った。そうした死体の場合も、遺品、毛髪、写真に、発見時の状況を記したメモをそえ、市内のホールや体育館に展示して、親族や友人が引きとりにあらわれるのを待った。  ある日、海人は激務の間をぬって、市立小名浜病院に根本ややを見舞った。ややは順調に回復に向かっていた。  雅宇哩が海人に訊《き》いた。 「ンガルンガニの意思決定機関はどういう構成になってるんだ?」  海人は首を横に振った。 「ややが知ってるんじゃないの」 「あたしも知らない」ややが言った。 「薬をくれだの武器をくれだの、要請はどこからくる?」雅宇哩が訊いた。 「あるじんぶつから」海人はこたえた。 「イーハトーヴの森の院長か?」 「わるいけど、名まえをしゃべるわけにはいかない」 「森まりだな」雅宇哩は決めつけた。「だけど森に指示を出してるのは誰だ」 「どうなってるのか、おれにもぜんぜんわからないんだ」海人は正直に言った。 「白川中尉は知ってるんだろ」 「たぶんね」 「ンガルンガニの男のメンバーってのは、ゲイが多いだろ」雅宇哩がややに訊いた。 「二人に一人はゲイね」ややがこたえた。 「ほんと?」海人はびっくりして言った。 「気がつかなかったの?」ややが言った。 「女は娼婦《しようふ》と戦争未亡人が主力だな」雅宇哩が言った。 「レズビアンもけっこういる」ややが言った。 「だれだろうと、ンガルンガニのやってることを、おれはそんけいするね」海人は言った。 「どこが尊敬に値するんだ」雅宇哩が訊いた。  海人は、烏山市の民家の床下で、月田姉妹の母親と祖父母を弔ったときの光景を思い返しながらこたえた。 「いちばんすごいのは、死んじゃった人間をたいせつにするってところだ」 「戦場で人を殺しつつ」雅宇哩が軽く皮肉をこめた。 「でもせめて」海人は反発した。 「せめて死者を弔う」 「てきとみかたのくべつなく」 「そこへ立ち返ろうとする姿勢は点数をやってもいい」 「よくわかんないとこもあるな」 「どこが」 「かのじょたちは、なぜせんそうにさんかしたのか」 「なぜ理解できない」 「おれたちは食うために軍たいにいる。だれでも知ってることだよ。でも、かのじょたちは、ぜんぜんちがうりゆうで、せんそうにさんかしたんだと思う」  雅宇哩がうなずいた。 「あの連中の行動の根本には理想主義がある」 「りそうしゅぎって?」 「たとえば、夢の時の実現を夢見ること」 「ゆめみること」海人は自分に問いかけるように言った。 「そうだろ」雅宇哩がややに確認をもとめた。 「ガウリの言うとおりよ。でもそれは幹部なんかの頭のいい人たちの話」ややが言った。 「ややはちがうの?」海人は訊いた。 「娼婦のはたらく権利を守るために、あたしは銃をとっただけ」ややがこたえた。  雅宇哩がぱちぱちと拍手した。     80  全体の死傷者の正確な数字は誰にもわからなかった。ある外国のプレスの集計によれば、概算で、いわき軍の死者は七百人、負傷者二千人、捕虜千五百人、行方不明者多数。政府軍の損害は、死者三百人、負傷者千人。民間人の死者五百人以上。  青い空がどこまでもひろがる五月最後の土曜日の正午、市政準備委員会を構成する二十四人の委員が、市庁舎のパーキングで市民に紹介された。選出したのは政府軍と仙台軍の合同占領本部である。ンガルンガニが八人の委員を送り込んだ市政準備委員会は、行政組織の再建と市警察の創設にただちに着手すること、一年後に市議会選挙および市長選挙を実施することなどを宣言して、いわき市復興の第一歩を記した。  とはいえ、街はまだ瓦礫《がれき》に埋もれ、占領軍に対する暗殺や、小規模な無差別爆弾テロが頻発していた。市職員を募集すれば失業者の群れが殺到することが予想された。一方、行政を立ちあげる原資はかぎりなくゼロに近い状態であり、インフラの整備は夢のまた夢の話だった。  その日、警備のために孤児中隊が市中心部に派遣された。海人は、市庁舎の北の、砲撃で半壊した市立美術館で、部隊の指揮をとった。  日没後、同じ場所で戦争被害者追悼集会がひらかれた。集会がおわりに近づくにつれ、おびただしい数のロウソクの明かりが、市庁舎のパーキングから周辺の道路や公園にあふれ出した。海人が指揮所でそれを厳粛な気持ちでながめていると、森まりから電話が入った。  海人は護衛の小銃手二人を連れて市庁舎近くの雑居ビルへいった。AKで武装した二人の女が出むかえた。護衛を表に待たせ、海人は女たちの案内で地下へ降りて、ナイトクラブの防音扉をあけた。  天井で明かりが一つ、頼りなげに灯《とも》っている。室内は薄暗かった。テーブルや椅子が壁際に乱雑に積まれ、空けられた中央のスペースに、森まり、三人の女兵士、椅子に縛りつけられた素裸の大男がいた。男は、黒い縮れっ毛で、頭を垂れ、体毛が濃かった。海人は視線を下げた。男の両足の指は砕かれて血まみれだった。 「奴隷商人のニコライ。日本語がしゃべれるんで、むかしツィガーノフの通訳をしてた」森が言った。 「ツィガーノフ?」海人は訊いた。 「大酒飲みのロシア人で、いわきの奴隷売買を独占してたの」 「そいつが買ったんですか?」  森が厳しい表情でうなずいた。 「カイト、自分で確認してみたら。局部麻酔を打ってあるから、ニコライはちゃんと口がきける」  海人は一つ、深呼吸して、胸ポケットから母親の写真を出した。森がニコライの頭髪をつかんでぐいと頭を起こした。恐怖で青ざめた顔のなかでニコライの灰色の眼が薄くひらいた。 「おまえが買いとった女か?」海人は訊いた。 「そうだ」ニコライがかすれた声で言った。 「名まえは」 「おぼえてない」 「ほんみょうは佐々木|紅《くれない》。ひたちのクラブで使ってた名まえはグロリア」 「十年いじょうむかしの話だからな」ニコライが首を横に振った。 「いつ買った」 「内乱がはじまった年の、つぎの年の秋だったと思う」  常陸市で略奪があったのは応化三年八月初旬である。その年の秋には、海人の母親はロシア人奴隷商人の手に渡ったことになる。 「おおぜいの女をあつかってたはずだ。この女を買ったとなぜはっきり言える?」海人は訊いた。 「イイ女だった。だからタムラが値段をふっかけた。それでとりひきがこわれそうになったんだが、けっきょくツィガーノフが折れて買いとった。ツィガーノフは、てめえでその女を、一ヵ月ぐらいたのしんでから、サハリンのそしきに売りとばした」  憎しみが瞬間的に沸騰した。海人はそれに耐えて問いをつづけた。 「タムラとはだれだ」 「しれいかんの田村ちゅうい」  海人は〈田村中尉〉=横尾信二の写真を見せた。 「こいつだ」ニコライがこたえた。 「ツィガーノフはいまどこにいる」 「四年まえに殺された」  森が説明した。 「小名浜のナイトクラブで子分に暗殺されたのよ。ツィガーノフの組織はばらばらになって、子分が勝手に商売をはじめて、ニコライも独立した」 「サハリンのそしきというのは?」海人はニコライに訊いた。 「〈ドド〉。グルジア人の売春そしきだ」ニコライが言った。  森が手を放した。ニコライの頭ががくんと垂れた。 「わかってるのはここまで」森が言った。  海人は暗い顔で小さくうなずいた。女兵士二人が、左手の厨房《ちゆうぼう》の方へ、椅子ごとニコライを引きずっていった。許しを請う叫びに重なって、バンバンと銃声が二発とどろいた。海人の肩を森がそっと抱いた。 「サハリンの油田地帯で世界中の女がはたらいてるのよ」森が言った。 「まだそこではたらいてると思いますか?」海人は訊いた。 「十一年経ってる」森が否定的な口調で言った。「そういう仕事につく女は、強制的であれ、自主的であれ、どんどん流れていくものなの」 「ながれるって、どこへ?」 「シベリア、中国、北極圏の鉱山地帯、ヨーロッパ、アフリカへ」  海人はナイトクラブを出た。雑居ビルの表で護衛の小銃手二人が待っていた。  美術館の指揮所へもどる途中、瓦礫の陰で商売をはじめた娼婦を見かけた。南米系の女だった。その娼婦に、異国の街で最下層の客を相手にしている日本人女性の姿を重ね、そのような生活の果てに母はおそらくこの地球上から姿を消しているだろうと思った。  淡い期待はあったのである。奴隷商人の証言が海人を悲嘆の底に突き落とした。妹と弟の親代わりになることを決意した幼いころから、ずっとそうであったように、いまここで自分がなさねばならない仕事が、海人をかろうじて正気の世界に踏みとどまらせた。     81  戦争犠牲者を追悼する数万のロウソクの明かりが闇夜にゆれた。市庁舎まえを出発したデモ行進の太い帯が、JRいわき駅から菱川橋までおよそ一キロメートルの道路を埋めつくした。  海人が美術館のエントランスホールに入ろうとすると、ロウソクの明かりを手にした人影が声をかけてきた。雅宇哩と二人の若い女だった。 「あなたたちも死者を悼んでください」女の一人が言った。  孤児兵たちが数本のロウソクをうけとり、指揮所に立てた。 「なかはどうなってるんだ?」雅宇哩が訊いた。 「ぜんぶりゃくだつされて、からっぽのままだよ」海人はこたえた。  雅宇哩がロウソクで照らしながら奥の展示室に入った。海人がつづいた。がらんとしたスペースに、瓦礫と壊れた照明器具が散乱しているだけだった。海人はロシア人奴隷商人の証言を雅宇哩に話した。 「メグとリュウにはだまっておくつもりだ」海人は言った。 「うん、その方がいい」雅宇哩が言った。  海人はふと、壁に染みのようなものがあるのに気づいて、顔を近づけた。雅宇哩がロウソクの明かりで照らした。壁に人の顔と手の輪郭がうっすらと焼きつけられている。 「ときどき見るよ、こういうの」海人は顔をしかめた。 「我々の愚かさの記念碑として、ぜんぶ残せばいい」雅宇哩が言った。  人の顔と手の痕跡《こんせき》の横に落書きがあった。 「なにが書いてあるの?」海人は訊いた。  ほのかな明かりのなかで、雅宇哩が落書きに視線を走らせた。うん、と口のなかで言い、それからなおしばらく考えをめぐらした。 「啄木の詩のパロディだ。元の詩は〈日本国〉じゃなくて〈朝鮮国〉なんだ。書いたやつは、批評精神もブラックジョークのセンスもあるな」 「せつめいが、ぜんぜんわからない」海人は言った。  雅宇哩が落書きをつぶやく声で読んだ。 「地図の上日本国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風をきく」 「いみは?」海人は訊いた。 「そのままだよ」 「そのままって?」 「日本が滅びつつあるのを地図の上で確認する。その感傷から透けて見えるサディスティックな歓び」     82  小名浜港の西端の崖《がけ》の上に、砲弾の穴があいた建物と、なだらかに傾斜しつつ海へ落ちる緑の草原がある。建物はゴルフ場のクラブハウスで、孤児中隊が中隊本部として使用していた。追悼集会の翌日、日曜日の午後、海人は白川中尉に呼ばれて、太平洋を望むゴルフコースに設営された彼女のテントをおとずれると、金髪の先客がいた。キャロル・クリストフだった。二本目のワインをあけるところで、女たちはどちらも上機嫌に見えた。 「すわれ」中尉が言った。  海人は空いているデッキチェアに腰を降ろし、太股《ふともも》の上にAKM2を寝かせた。中尉がグラスに赤ワインをついで海人に渡した。 「なぜクリストフの望みをかなえてやらなかったんだ」中尉が唐突に訊《き》いた。  海人はワイングラスに視線を落とした。昨年の九月初め、川部町の孤児院で子供たちとンガルンガニのメンバーを救出した日の夜のことだろう、と察しがついた。 「なんの話かよくわかりません」海人は視線を中尉の顎《あご》のあたりに向けて、静かな声でこたえた。 「東滑川町のホテルよ。忘れたなんて言わせない」クリストフが酔った人のけだるい口調でとがめた。 「おまえはなぜこの女を侮辱したんだ」中尉が訊いた。 「そういうことはしてません」海人は言った。 「この女がほしがってるのに、自分の手で射精したんだろ。それを侮辱と言うんだ」  海人は短く息を吐いて言った。 「クリストフがきらいです」 「どこがきらいだ」中尉が訊いた。 「ヘンタイです」 「おまえのセックスは正常なわけだ」 「せいじょうです」 「変態と正常の境界なんかあるのか。境界はどこだ、言ってみろ」  海人は言葉につまった。表情を隠すようにワイングラスを持ちあげて一口飲んだ。アルコール類をうまいと思ったことはいちどもなく、そのワインも舌に渋味が残っただけだった。中尉がのそりと椅子から立ちあがると、クリストフの背後にまわり込んだ。右手がワークパンツのポケットからなにかをとり出すのを、海人は見た。プラスチック製の手錠だった。 「立て」中尉が命じた。  海人は椅子から動かなかった。自分への命令だとはうけとらなかったからだ。クリストフがいぶかしげな視線を海人へ投げ、それから肩をひらいて背後の中尉を見た。中尉が同じ言葉をくり返した。クリストフがとまどう表情を見せながら立ちあがった。その両手首を中尉がつかむと、後ろにまわして手錠をかけた。クリストフは、くすんだ色調の、黄色地に緑の葉を散らした半|袖《そで》の開襟シャツを着ていた。そのシャツの下で、彼女が胸をふくらませて息を吸い込み、深く吐き出すのが、海人の眼にもはっきりとわかった。  白川中尉のテントは、中隊指揮所に使うものと同じサイズで、内部は天幕で半分に仕切られていた。中尉はクリストフの肩を抱いて天幕の奥へ消えた。海人はふいに喉《のど》の渇きをおぼえ、ワイングラスに口をつけた。仕切りの天幕の向こうで中国語のポップスが流れはじめた。女性ヴォーカルだった。その音に混じって女二人の笑い声が弾《はじ》けた。 「佐々木軍曹、こっちへこい!」  中尉の鋭い言葉に反応して、海人はAKM2を手に立ちあがった。軍の規律とはなんの関係もないと思った。このまま立ち去っても懲罰をうけることはない。中尉は自分を巻き込もうとしているのだ。そんなことを自分にささやきつつ、だが誘い出されて、海人は仕切りの天幕を手でかき分けた。  畳八枚分ほどのスペースに、パイプを組んだ簡易ベッド、読みさしの本を伏せたテーブル代わりのフットロッカー、武装服や礼服などを吊《つる》したロッカーがあった。クリストフが、固く閉じた膝《ひざ》を胸の方へ引きつけた窮屈そうな姿勢で、ベッドの上に横たわっていた。下半身は裸だった。足もとに、丸めたワークパンツ、靴下、暗赤色のパンティが散らかっている。中尉が乱暴な仕草で、クリストフの半袖のシャツを両肩から背中の方へ脱がし、暗赤色のブラを上にずらして乳房を露出させた。 「レイプしろ」中尉が言った。  クリストフが頭を持ちあげて、羞恥《しゆうち》と欲望が入り混じる眼差《まなざ》しを海人へ向けた。白い頬が紅潮して、そばかすがうき出ていた。海人は首を横に振って拒絶の意思を伝えた。中尉が眉《まゆ》をしかめ、だが口もとには笑みをうかべて言葉をついだ。 「遊びだ。合意のうえだ。おまえも愉《たの》しめ」 「できません」海人は言った。 「人に見られるのが恥ずかしいのか?」 「とにかくできません」  中尉がのんびりした動作でベッドの端に尻《しり》を下ろした。彼女は、茶灰色のTシャツに、同色のワークパンツをはいていた。膝の上に片方の足首をのせ、コンバットブーツの靴|紐《ひも》をほどきはじめた。 「人間のセックスに正常も変態もない。マナーとルールがあるだけだ」中尉が笑みを絶やさずに言った。  脱いだブーツをそろえると、中尉はサンダルにはきかえた。太股に装着したホルスターをはずしてフットロッカーの上においた。ワークパンツを脱いでそこに重ねた。彼女はボディにぴったりした紺色のトランクスをつけていた。ほっそりしたきれいな脚だった。ベッドにあがる動きのなかで太股の筋肉が割れた。 「音楽のボリュウムをあげろ」中尉が支柱に吊したコンパクトMDプレイヤーを示して命じた。  海人はボリュウムをあげた。中尉がパイプに枕をあてがい、そこに背をもたせかけて、両膝を立てた。 「クリストフ」中尉が言った。 「なに」クリストフが首をねじって中尉を見た。  中尉は両手をトランクスの尻の方へ差し込むと、腰をうかしながらめくるようにして、太股の付け根のあたりまでずり下げた。 「おまえの望みをかなえてやる」  中尉が立てた膝の間に左手をのばした。クリストフが右肩を支点に頭を持ちあげて、中尉がなにをはじめるのか見ようとした。  中尉が言った。 「東洋の果てのケチな島で、同胞殺しをつづける日本陸軍中尉は、一匹の野蛮な黄色い雌猿である。だからそいつは部下にオナニーを見せて愉しむような変態女であるにちがいない。それがおまえの願望であり妄想だ」 「そんなこと考えてない」クリストフがどこか熱っぽい声で否定した。 「嘘をつくな。おまえが頭のなかでつくりあげた東洋の黄色い変態女とは、おまえが夢見ている自分自身のことだ」 「ちがう」クリストフが首を横に強く振った。  中尉の指が繊細に動くのを、海人は見た。後ろ手に手錠をかけられたクリストフは、強引に上体をひねり起こすと、中尉の行為の中心点をのぞき込んだ。海人は自分のペニスが固く勃起《ぼつき》するのを下腹で感じた。  テント生地を透過した初夏の光が、二人の女の露出した肌をくすんだ緑色に染めていた。辛《つら》い時間が流れた。クリストフが耐え切れないように下半身をくねらせ、懇願する声で中尉になにか言った。海人には聞きとれなかった。 「佐々木軍曹、礼服の上着を持ってこい」中尉が命じた。  海人はロッカーへいき、ハンガーから礼服の上着をはずした。中尉がTシャツを頭から抜いて、フットロッカーの上に放り投げた。紺色のブラもはずして投げた。肩をひねると、胸筋が盛りあがり、形のいい乳房がゆれた。小さな乳首は色づけしたように赤く染まっていた。海人は背後から中尉に礼服を着せた。 「通俗的な女だ」中尉がクリストフを罵《ののし》った。  中尉はトランクスを脱いで右の足首に引っかけた。思いがけず淡いアンダーヘアだった。中尉はクリストフの顔の上にまたがると、腰をゆっくりと下ろした。クリストフが嫌がって頭を左右に振った。中尉はかまわず性器をクリストフの顔に押しつけて、海人を手招きした。海人は中尉の右脇に立った。乱暴な仕草でファスナーが下げられた。中尉はとり出した海人の性器を右手でにぎりしめ、ふたたび左手の指で行為に集中した。最初は嫌がる素振りを見せたクリストフが、中尉の熱い裂け目に、下から唇をあて、音を立てて吸った。中尉は、溜《た》め込まれていく官能に抗《あらが》うかのように胸をそらし、だが顎を引いて視線は自分の指先の動きにそそいだ。やがて頭を振りはじめた。汗が飛び散った。眉間《みけん》に刻まれた溝、頬に張りついた毛髪、首にうかびあがる筋肉の束、薄い唇からのぞく白い歯、左太股の内側に彫られた赤い蜘蛛《くも》のタトゥー。海人はそれぞれに眼をとめた。クリストフが両脚をひらき、あられもない姿勢で海人の名前をくり返し叫んだ。もう限界だった。海人はそれを口に出して中尉に伝えた。 「軍曹、フットロッカーの上の段だ」中尉が喘《あえ》ぐ声で告げ、海人の性器を放した。  海人はフットロッカーをあけた。きちんとたたまれたハンカチやソックスの上にコンドームのパッケージが散乱していた。海人はいそいでパンツを下げ、コンドームを装着すると、ブーツをはいたままベッドにあがった。 「まだ我慢しろ」中尉が厳しく言った。  海人の眼のまえに中尉の苦しげな顔があった。中尉は、自分の性器からあふれ出したものを指ですくいとって、海人の唇に押し込んだ。海人はしゃぶった。 「どんな味がする」中尉が訊いた。 「わかりません」海人は言った。 「なにかの花のにおいがしないか」 「します」  中尉が、こんどは熱くぬめる舌を、海人の唇に侵入させた。クリストフが言葉にならない叫びをあげて海人をもとめた。 「この女は恥知らずな差別主義者だ。苦しみを与えてやれ。軍曹、わたしを後ろから犯せ」中尉が辛さに耐える声で言った。  クリストフの視線のなかで、海人は白川中尉を背後から犯した。中国語のポップスと、風がテント生地を激しく叩《たた》く音が、クリストフの懇願する声と中尉の歓喜の叫びをかき消した。  中尉が余韻を愉しんでいるときに、キャロル・クリストフの望みが、ようやくかなえられた。     83  常陸軍と水戸軍、二つの連隊のすべての部隊で、戦功による気前のよい昇進があった。白川如月と佐々木海人は、それぞれ少佐と准尉に二階級特進した。  ンガルンガニは、すでに軍事訓練をうけたメンバーを、創設されたいわき市警察に送り込んだ。その一方で、白川少佐に二百人の若い女の志願兵をあずけた。日本人、中国系、朝鮮系、ロシア系、インドシナ系、アフリカ系、混血、人種と肌の色はいろいろだった。ンガルンガニの志願兵と、投降した孤児の兵士を、海人の部隊が常陸市のゴルフ場跡地で訓練した。 「せんそうがおわったのに、なんでいわきのおんながいっぱい、ぐんたいにはいってくるの?」エンクルマが訊いた。 「ゆめの時をじつげんするためさ」海人はこたえた。 「さいきんのカイトは、なにいってるか、ぜんぜんわからねえな」葉郎が言った。  海人と白川少佐の関係はとくに変わりはなかった。セックスはあの日かぎりのことだった。相互信頼にゆらぎはなく、海人は上官への敬意と畏怖《いふ》の念を抱きつづけた。  白川少佐が、五月の最後の日曜日の午後の狂乱について、いちどだけ話題にしたことがある。 「クリストフが恥知らずな差別主義者だってことは理解できたのか」少佐が訊いた。 「よくりかいできません」海人はこたえた。 「いや、おまえにはとっくにわかっていたはずだ。東滑川町のホテルで誘われたとき、あの女の欲望を、おまえは不快だと感じた。だから、あの女を辱めたんだ」  海人は少佐の言葉に考えをめぐらした。 「クリストフがおれにさせようとしたことが、いやだと思ったことはじじつです」 「知的で慎み深いヨーロッパ市民というのが、あの女の欺瞞《ぎまん》的な自己理解だ。ところがどういうわけか、自分が抑圧してきた快楽は、あいつの記事の言葉を使えば、〈無学で粗野な東洋の少年兵〉の、過剰な性的エネルギーによって解放されるにちがいない、と妄想したわけだ。わたしに関する妄想と基本的には同じだ。おまえとわたしのちがいは外性器のちがいだけ」 「やっぱりよくりかいできません」  少佐はふんふんとうなずいて訊いた。 「あれからクリストフにまた誘われたか」 「いいえ」 「どのみちたいした問題じゃない。あの女が望めば、ぶち込んで引っかきまわしてやれ」  キャロル・クリストフと、なんどか顔を合わせる機会があった。周辺国の思惑、全国の戦況、海人が援助している孤児院の運営状況、いろんな話題が出た。彼女も自分も、以前よりもずっと率直に言葉をかわせるようになった、と海人は感じた。それを口にすると、彼女は頬を赤らめて「わたしもよ」と言った。  市政準備委員会が発足した日に退院した根本ややは、小名浜諏訪町の女友だちのアパートで六週間ほど静養したのち、小名浜港の売春クラブではたらきはじめた。  政府軍の戦力は、捕虜の編入と敵の兵器の獲得で、およそ一・五倍に膨れあがった。二個の歩兵連隊は統合され、定員五千人の第14旅団が新編成された。旧孤児中隊は、一個の本部管理中隊と四個の孤児歩兵中隊と一個の女性兵中隊からなる、定員七百五十人の大隊に改編された。大隊長に白川少佐が就任し、海人は大隊本部に作戦将校として配属された。  旅団司令部は水戸市におかれた。白川少佐の混成大隊が常陸港の利権を、イリイチ中佐の外国人大隊が小名浜港の政府軍側の利権をにぎった。  仙台軍との関係はおおむね良好で、軍事境界線と利権配分は遵守された。いわき市のインフラの復旧は遅れたが、治安は市警察の創設と軍の駐留により眼に見えて回復しつつあった。  投降兵とあらたな志願兵に対する訓練がほぼ終了した七月末、参謀本部から作戦命令が下った。旧国軍の第2および第13歩兵連隊を中核とする信州軍が、長野県東部から首都に攻め上る動きを見せていた。長野県に遠征して信州軍を討伐せよという参謀本部の命令を、部隊に休養を与える必要があると主張して、旅団司令部は拒否した。  その吉報をうけて混成大隊本部の要員が祝砲を撃ち鳴らした。陽気な銃声を聞きながら、海人は私服に着替えると、部下が運転する車で、〈ドラゴン・ママ〉のオープン・パーティに向かった。     84  プーシキン通りの一角に、お祝いの花輪がずらっとならんでいた。卸売市場、漁協関係、お得意さんのレストラン。すし・バー〈碧〉の名前もあった。午前十一時四十五分、海人は車を降りて、部下を基地に帰した。里里菜の息子の朋幸が威勢のいい声を出して鮮魚を売っている。雅宇哩もいる。隆と月田姉妹と、彼らを東京へ迎えにいったエンクルマと葉郎の姿もある。人だかりの端っこの方で、里里菜の義理の父母が開店セールを見ていた。 「おおやのおばあちゃん、こんにちは」海人は声をかけた。  おばあちゃんが、車椅子のおじいちゃんに日傘をさしたまま、こちらを振り向いた。 「ああ、カイト、大きくなったね」おばあちゃんが笑顔で言った。 「おじいちゃんはどうですか」 「すっごく機嫌がいいよ」  おじいちゃんの半分ひらいた口の端によだれがたまっていた。海人は、顎《あご》の下にかけたタオルを手にとり、よだれをぬぐった。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どっちなのかわからない眼差《まなざ》しで、おじいちゃんが海人をじっと見た。 「カイト!」  店の奥から客をかき分けて、里里菜が出てきた。Tシャツ、ブルージーンズ、ゴム長靴という装いだった。 「おばちゃん、おめでとう」海人は言った。  里里菜が海人の腕をとった。 「見た?」里里菜が店の入口の上を指さした。  ネオン管で〈Dragon Mama〉と描かれている。 「夜は青いネオンが灯《とも》ってきれいよ」里里菜が言った。 「ドラゴン・ママってよむの?」海人は訊いた。 「そう。外国人のお客さんも多いから」 「おばちゃんにぴったりの名まえだ」  里里菜が輝くような笑みをうかべ、それからふつうの口調を意識した声で言葉をついだ。 「メグがこなかったね」 「あいつ、おれに会いたくないんだ」 「そんなことないよ」里里菜がきっぱり言った。  用意した近海の魚介類は、正午までにぜんぶ売り切れた。スルメイカ、イサキ、メバル、カレイ、アジ、イワシ、マダコ、アサリ、イセエビ等々。里里菜が義理の父母を車に乗せていったん自宅に帰った。残りの人間は、パーティ会場のファン・ヴァレンティンの店まで歩きはじめた。基地へ帰ろうとするエンクルマと葉郎を、月田姉妹が引きとめた。 「いっしょにいこう」海人は誘った。  エンクルマと葉郎が、にこにこしてうなずいた。海人は月田姉妹の一人がAKライフルを担いでいるのに気づいた。 「どうしたの?」海人は訊いた。 「長距離ドライバーの必需品だよ」姉妹の一人が言った。  すし・バー〈碧〉の店内に人と音楽があふれた。海人と月田姉妹は、皿に料理をとると、ファンに案内されてオープンテラスのパラソルの下のテーブルについた。ファンが黒服のボーイを呼んだ。海人はボーイのトレイからオレンジジュースをとった。 「ウオッカの甘いカクテルがほしいな」月田姉妹の一人が言った。 「二つ」姉妹のもう一人が言った。  姉妹は七月で二十歳になったはずだが、顔は幼げで、あいかわらずほっそりしたからだつきをしていて、十五、六歳ぐらいにしか見えなかった。海人は姉妹のAKを手にとってながめた。 「ロシア軍のオリジナルだな」海人は言った。 「さすが孤児部隊の司令官」姉妹の一人が言った。 「うつことあるの?」 「あたりまえだろ。七月は二回、武装強盗とパンパンって撃ち合ってる」姉妹のもう一人が手真似をまじえて言った。 「しんじられないよ」 「おまえがプロの軍人になったこともね」 「そうだよな」 「この若さで、自分たちが歩いてきた道のりを振り返ると、そら恐ろしくなる」 「ほんとだ」海人は心から言った。  芝生の上で、隆が雅宇哩と踊っていた。今日の雅宇哩は、タンクトップとスカートという装いで、どう見ても完璧《かんぺき》な女性だった。 「ガウリが女だったらな」ファンが残念そうな口ぶりで言った。 「あいつおもしろいよ」姉妹の一人が言った。 「自分がなに者かわからないって、ガウリは言うんだ」姉妹のもう一人が言った。 「わからないって?」ファンが訊《き》いた。 「男として男とやりたいのか、女として男とやりたいのか、男として女とやりたいのか、女として女とやりたいのか」 「よけいわからない」ファンが笑った。 「セックスの抑圧から解放されてる可能性もあるって、本人は言ってる。しかもその出発点は、まちがいなく兵士に強姦《ごうかん》された体験だって」 「きみたちとガウリは、いい友だちになれるよ」海人は言った。 「三人とも欲望に際限がないからか?」 「へんけんがないから」海人は言った。 「カイトにほめられたの、はじめてだよ」姉妹が声をそろえてうれしそうに言った。  雅宇哩が隆の手首をつかんで自分の胸にさわらせようとした。隆が顔を真っ赤にして、雅宇哩の手を振り払って逃げた。それを見て海人たちは歓声をあげた。青い色がついたカクテルが二つ、運ばれてきた。四人は乾杯した。雅宇哩がエンクルマと踊った。月田姉妹の一人が葉郎と、もう一人が朋幸と、カクテルグラスを手に踊りはじめた。自分の名前が呼ばれたような気がして、海人は店内の方を振り返った。渋い藍色《あいいろ》の浴衣《ゆかた》に着替えた里里菜が手をあげた。その背後にもう一人、中学校の制服を着た女の子があらわれた。胸がふいに熱くなった。里里菜が、恵に道をゆずり、もういちど海人に手を振ってから、ほかの客の方へ去った。 「メグ、よくきた」ファンが言った。 「兄がお世話になってます」恵が頭をぺこりと下げた。  ファンが気づかってテーブルを離れた。海人は大声で隆を呼んだ。応化十二年の三月末に東京へ送っていったとき以来、およそ二年と四ヵ月ぶりに会う恵は、まぶしいほどおとなびて見えた。隆がテーブルについた。ぎこちない沈黙がしばらくつづいた。 「ちゃんと話した方がいいと思うな」隆が言った。  兄に諭された弟のように、海人は小さくうなずいた。 「おれ、おりるわけにいかないんだ」海人の声がすこしふるえた。  言葉がつづかなかった。海人はストローをくわえてオレンジジュースを一口飲み、恵に飲み物がないことに気づいて、グラスを恵の方へずらした。恵がオレンジジュースを一口飲み、グラスを海人の方へもどした。 「ありがとう」恵が遅れて礼を言った。  海人はオレンジジュースのグラスを自分と恵の中間に移動させた。 「とうぶんのあいだ、軍隊をやめる気はないってことだろ」隆が確認した。 「かんかくがまひしてるのかもしれないけど」海人は言った。 「半分は麻痺《まひ》してない。でも半分は麻痺してる」恵が言った。 「仲間がいるんだ」海人は言った。 「戦場をいっしょに生き抜いた仲間ね」恵が言った。 「うん」 「家族より大切な人たちなの?」 「そういうひかくはできない」 「みんな孤児?」 「みんなこじだよ。軍たいに入ってはじめて、ごはんをはらいっぱい食べられたっていうれんちゅうさ。せんそうがつづけば、またこじがふえて、どんどん軍たいに入ってくる」 「戦争をやめればいいじゃないの」 「カイトにそんなことできるわけねえだろ」隆が怒った口調で言った。 「そうね」恵が生真面目な顔ですぐおうじた。 「おれたちはまず生きのこらなくちゃならない。生きのこるには、こじの軍たいを強くしなくちゃならない」海人は言った。 「カイトにはそれができるの?」恵が訊いた。 「おれにできることもある」海人は言った。 「ほかの人がそれをしてもいいんじゃないの?」恵が言った。 「仲間がいるんだ」海人は辛抱強く言った。  恵が額に両手をそえ、眼差しを隠すようにして、視線をテーブルに落とした。隆が薄暗い顔でフライド・チキンをつかみ、一口かじって、皿にぽいと放りもどした。三人は押し黙った。それぞれが、いっしょに暮らした日々を追憶するような時間が流れた。アパートの外階段の下のわずかなスペースをめぐる里里菜と元市役所職員の激しい言葉のやりとりが、たった一つの宝物である淡いブルーの石鹸《せつけん》の匂いを嗅《か》ぐ恵の謎めいた微笑みが、烏山市の戦場から死ぬ思いで逃げ出して恵と隆と再会したときの歓喜の瞬間が、つぎつぎと海人の頭をよぎった。速いテンポの音楽に切り替わった。古いロシアの曲だった。ファンが奇妙なステップで踊り出した。歓声があがり、手拍子が打ち鳴らされた。恵がふいに立ちあがった。おどろいて見あげた海人に、恵が鋭い視線を返すと、手を差しのべた。海人は、意味がわからないという顔を恵に向けた。恵が海人をにらみつけたまま、小さく手招きした。 「踊ろう」恵が声にせつなさを込めた。     85  江名港の北の合磯岬の台地の上に、白壁の二階建ての民家がある。敷地は三百平方メートルていどで、高い塀をめぐらした内側に、方形の建造物を素っ気なく重ねた景観は、小さな要塞《ようさい》の印象を与える。家は砲撃による被災をまぬがれたが、仙台軍による徹底的な略奪をうけた。修復工事が六月末にはじまり一週間ほどでおわった。門扉と窓をつけ替え、自家発電装置を入れ、電気配線と内装工事をやり、建物の外壁と塀のペンキをきれいに塗りなおした。それから新しい高級家具といっしょにカップルが移り住んだ。女は二十四歳の元看護師で、六月中旬まで好間町の個人病院に勤務していたことがわかっていた。男の素姓、彼が元の住人なのか、戦争終結後にその家を購入した者なのか、いずれも不明だった。  元看護師の女が、数日にいちど、深い緑色の高級外車で買い物に出かけるほかは、人の出入りはまったくなかった。ンガルンガニの戦犯捜索チームが監視をはじめて十三日目の、八月六日の午後、女の運転で男が外出した。男は頭部と顔の半分を包帯で隠し、松葉|杖《づえ》を使用していた。カップルは義足士の工房をたずね、所用をすませると、まっすぐ自宅に帰った。盗み撮りした男の写真は鮮明ではなかった。だが、包帯で隠していない顔の右半分に火傷《やけど》の痕跡《こんせき》があること、失ったのは右足であること、その二点は確認できた。捜索チームはただちに森まりに報告を入れた。  ンガルンガニのメンバーが乗用車で先導した。海人は三両の軽装甲機動車を連ねてつづいた。太陽が山陰に沈みかけたころ、車両の列が合磯岬の台地を昇りつめた。ンガルンガニの監視班が出むかえた。堅牢《けんろう》な鉄の門扉をさけ、塀の一部をTNT火薬で爆破して突入した。  小銃手がすばやく庭に展開した。海人は、エンクルマ、葉郎、ンガルンガニの小銃手四人をしたがえて家のなかに入った。リヴィングルームで、恐怖にかられた若い女が叫んでいた。 「男はどこだ!」海人は鋭く訊いた。  女がふるえる指で天井をさした。階段を駆けあがった。広いベッドルームに出た。海に面したテラスにデッキチェアがおかれ、誰かが背もたれにからだをあずけていた。  浜風が涼しげに吹き抜けて、男のわずかに残った頭髪をなびかせた。海人は近づいて、正面にまわった。包帯はなく、男の頭部から顔の右半分の皮膚がただれていた。写真と照合する必要はなかった。無傷の左半分の顔は、頭に刻み込んだとおりの顔だった。自分の身になにが起きているのか気づいたはずだが、男は惚《ほう》けたように海の方角を見ていた。 「横尾信二だな」海人は言った。  男は反応を示さなかった。皮膚がただれた方の眼の端が濡《ぬ》れていた。憎悪も殺意もわかなかった。なぜだと自分をいぶかりながら、海人はAKM2の銃口を横尾の心臓部へ向けて連射した。銃声が上空へ拡散していき、すぐ波音にかき消された。海人は、ほんの短い時間、鉛色に沈んでいく海を見た。波の先端が砕け、白い泡を散らした。なにかがおわったという感覚はなかった。室内の方へ重い一歩を踏み出したとき、海人は自分が深い疲労感にとらわれているのに気づいた。 [#地付き](下巻につづく) 角川文庫『裸者と裸者(上)』平成19年12月25日初版発行